40. 常なる狼 2
40. Immerwolf 2
神様の意志、その解釈。
僕は、その前提を間違えていた。
この狼に、勝って来い。
その言葉を、その通りに捉えてしまっていたんだ。
いや、もしかしたら、貴方自身でさえ、そう決め込んでいたのかも知れない。
「しかし貴方の目的は…この狼を負かすことでは、達成されない。」
ぼたぼたと、粘り気のある血を垂らしながら、狼は何処とも分からない宙に向かって吠え続けている。
僕の居場所を正確に嗅ぎ取る力を示したばかりの彼が、目隠しの下から、僕への視線を逸らしている。
“Fenrirは何処だっ!こいつを嬲って、半殺しにすれば、出て来るんじゃ無かったのか?”
“…この人間に、俺を殺せる見込みが無ければ、駒を捨て、そのまま雲隠れするだけ、か…”
“なるほどな。群れを何とも思わない、あいつらしいやり口だ。”
“かったるいが、本命を仕留め損なうよりは、ましか…”
貴方は、必死に語り掛け続けている。
この狼に、もう一度、自分の群れ仲間となるチャンスを、与えているんだ。
二匹の間に、何があったのかなんて、知る由も無い。
僕が入り込む余地さえ、初めからあったのだろうかと疑いたくさえなる。
“スゥー…”
“アウォォォォォォーーーーー…!!”
「っ…?」
彼は、戦場で初めて吠えた。
何らかの変化があったのだ。
びりびりと、空気を伝わってくる威圧感。強い風が吹かずともこれは、雪原に聳える彼が本来持っている威厳だ。
Fenrir様。貴方の声が聞きたい。
この狼に匹敵するような、共鳴を。
“行くぞ、人間。”
「あっ…あぁ……っ」
まだ、襲って来る。
交渉は、決裂したのだ。
それとも、語り掛けていた相手は、Fenrir様では無かったのか…?
そうだとしても、諦めちゃ駄目だ。
揺れている。この変化を、僕が見過ごしてはならない。
この狼は、もう助からない。
天井から僕らの死闘を見守っているあの3匹と同じように。
僕じゃ、君は、救えないとばかり思っていたけれど。
ひょっとして、
僕にも、出来ることが、あるのでは無いか。
彼の瞬歩に合わせて巻き起こった突風に、危うく押し倒されそうになる。
互いに、神様の恩恵を浴びながらも。躯体である僕らはぼろぼろだ。
治癒の類も齎してはくれない辺り、その点においては、戦士らしく戦うことを、闘技場のオーナーから求められているらしい。
何よりそれは、見ていて楽しくない。
「うっ…ぐぅっ…!」
僕は、戦い方を変えねばならなかった。
目の前の障害を弾くような爪の一撃は、封印しなくては。
右手が空を切るだけで、錆びた刃物に深々と突き刺すような痛みが走った。
次の瞬間、遅れて連動する外力。
身体は右方向へ吹き飛ばされ、脚での着地さえ儘ならない僕は、肩から地面にぶつかり、衝撃を受けて転がる。
左肩を直撃していたら、失神していたかも知れない。
貴方が、対戦相手を殺したくないと言うのなら、これでようやく、八百長試合ということになる。
逃げるしかない。
それでいて、この狼に、勝つなどと。
あるだろうか。どちらの要求も満たせる、なんてことが…?
分からない。
しかし、元より神の意志を探るとは、日常に立ち現われる、こうした模索の連続だったのではないか。
少なくとも、あの教父様は、そのようなことを僕に説いた。
再現するんだ、どうにかして。
僕の背後の観客席で、きっと不安げに尻尾を揺すって、見降ろしていらっしゃる。
この狼に、これ以上の致命傷を与えないこと。
此処までは、あっている筈なんだ。
その先、を。
右ひじを突っ張り、歯を食い縛って立ち上がる。
痙攣する瞼を見開き、周囲の砂埃から再び狼の気配が消えたことを確認すると、僕はがばりと上体を起こして天を仰いだ。
何処までも、狩りに長けた狼だ。
僕自身でさえも予想できなかった緊急回避先、それを既に落下地点として捉えている。
しかし、今回に限っては、見え過ぎていた。
これは、僕がこの場所に辿り着く前に、跳んでいる。
この正確さ。耳とか、視覚では無い。
それでいて、神様の預言でも無かったのだろう。
この狼が持つ、勘ってやつだ。
三歩先を行っている。
一つ目に、弾いたナイフが落ちた位置を、覚えていること。
二つ目に、僕が…いや、Fenrir様が、再びそれを武装する機会を狙っていること。
“……そうか、やはり一筋縄ではいかぬか。”
三つ目に、
ガキーンッ…
僕が、上空からの襲撃に備えることを、予見していたことだ。
今度は、何が僕の刃にぶつかったのかを見ることが出来た。
首輪だった。
自らの、喉首を差し出すように身をくねらせ、
僕の描いた切先が、血のにじんだ棘付きの鎖に触れて絡まる。
それだけで十分だった。
中指と薬指の股が裂けた右手、渾身の力を込めて振り上げたが、握力など高が知れていた。
僅かな振動は、信じられない激痛へ、稲妻のように駆け巡り、容易くナイフは宙へと躍り出た。
「ぎゃああぁっっ…!!」
手を引っ込める間もなく、上半身を捻った僕の真上に、狼の巨体が覆い被さる。
ドゴッ
「ぐっ…?」
僕よりも体重はあるだろう。しかし、それ以上の衝撃が、背中と腹を突き上げ、息が詰まった。
直後に、顔面を踏みつける前脚で、後頭部を強打する。
“フシュウルルゥゥウ…!!”
ぼたぼたと頬に垂れる涎は、熱かった。
両腕を喉元に突っ張り、距離を取ろうにも、この体勢では堪えようがない。
“さあっ!出せ!奴は何処だっ!”
“死にたくなかったら、とっととあいつに助けを求めやがれっ!”
「Fe…Fenrir様…」
“ほらっ、叫んで見せろっ!!”
ぐちゅるるっ…
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっーーーーーーー!!」
右脇腹に、折れた牙が刺さった。痛みを熱と表現するならば、同時に冷気が広がり、激しく鬩ぎ合った。
身体を、びくり、びくりと仰け反らせ、頭の中で自分の絶叫が反響して増幅する。
発狂、一歩手前と言ったところだ。
それでも再び、天よりの救済が齎される様子も、無い。
「がああぁっっ…うあ゛あ゛あ゛っっ!!」
つまり、
正解ってことだ。
「君…」
「名前…何て、言うの…?」
「君は、何のために…」
「今の…神様を…?」
どさっ……っ
両手が、だらりと肘を打ち、地面に投げ棄てられる。
革製の目隠しは、とにかく頑丈で、破くのに時間がかかった。
このナイフ、もう刃がぼろぼろのようだね。
肉を喰い破るのに夢中だったらしい君は、初め、その瞳の中に僕を映し出してはくれなかった。
しかし、安心したよ。
Fenrir様と、同じ眼差しをしている。
これが、唯一の道だと信じて良かった。
呑まれる前に、間に合ったのだと思いたい。
“……?”
狼の顔面は、真っ赤に染まっていた。
“…あいつらは、本当に知能が無い。”
いいや、元より、僕のことなど、眼中に無かった。
“何故、俺の視界を覆っただけで、力を奪えると?”
“俺が欲しかったのは、眼じゃない。”
“牙だよ。”
“おい、人間。”
“筋は、悪くない。次に対峙したなら、お前は良い狩人になるだろう。”
“後は…その、甘さを、捨てることだ。”
僕の背後しか、君には見えてなかった。
“お前の刃、借りるぞ。”
“此処から先は、お前は関係が無い。殺してやりたい気持ちが薄れた訳では無いが…その闘志は、認めよう。”
“俺は、個人的な決着を着けたいだけだ。”
彼は、僕が捨てた残骸を拾い上げ、胴を跨ぐ。
“ふぅー……”
“ようやく、姿を現してくれたな。”
“…Fenrir。”




