38. 再入場 3
38. Restage 3
この狼からしてみれば、もしFenrir様が、僕との対戦についてきちんと知らせてあるのであれば、
僕に、勝たせてくれるはずだ。
でも、少しもそんな譲歩、隙が産まれるような未来は見えなかった。
運が味方をしてくれて、この為体。
こんな状況で、何をもって、戦況が傾くと言うのだろう?
‘実のところ、お前の他にも、俺は救ってやらなきゃならない同志がいてね。’
Fenrir様…?
‘お前は始末されるだろう。
対戦相手によって、牙を喉元に差し向けられ、
観衆の興奮は、最高潮に達する。
全ては、我らが神の思し召しの通りである。
その時だ。その瞬間が見たい。
後は、俺の同胞たちに、任せておけば良い。
勝敗を覆してやれ。Siriki。
皆に、口を揃えて叫ばせるんだ。
筋書きが違う、とな。‘
全ては、我らが神の思し召しの通り。
「そうか…」
「神様…だ…!」
この狼は、僕に勝つだろう。
ヴァイキングが、全幅の信頼を寄せている理由がわかった。
「彼も、神の加護を受けている。」
「そうなのですね…!?」
しかし、それはFenrir様では無いのだ。
僕の両耳は、凄まじい音量の歓声を直に押し付けられていたのだろうか。
思考を抑えていた耳鳴りが、突如として消えた。
消えていた痛覚が、強烈なフラッシュバックと共に、舞い戻って来る。
目覚めとは程遠い。
寝惚け眼の現から、無理やり現実に引き戻されたはずなのに、この世界はまるで、僕の為にあったかのような表情を見せる。
「これは…」
「代理戦争…?」
僕が負ける、そう言う筋書き。
八百長だと言えるのは、此方が、真の意味で武装していないから。
僕が、誰からの恩寵も受けていないと思い込んでいるから。
ひっくり返してこい。
そして、Fenrir様の真の狙いとは。
神様同士の戦いに勝つことで、ヴァイキングの信仰を揺らがせることにある。
「だとすれば…!」
駒どうしが、その機能を持って、盤上で向かい合っているだけ?
この戦いが、そんな奴隷たちの必死な泥仕合に留まるはずがない。
プレイヤーが、僕らをこうして突き合わせたんだ。
今、虎の威を狩り合って、
いや、狼と大神が、薄汚く騙し合うために。
「何が…起こった…?」
観客のどよめき。
再び間合いを開けられた状態に、僕らは巻き戻っているような錯覚を覚えた。
“ガルルルルルルゥゥゥゥゥゥ…!!”
“ぐぅぅっ…なんだっ…?がぁぁぁっ!?”
何かが、僕を護ったのだ。
それは、一見して偶然の産物、運が味方したとも取れなくもない。
目の前に、僕ひとりで丁度抱えられる大きさの、鉄製の残骸が横たわっている。
飛び散っているこれは…蝋だ。
見上げても、天井に吊り下げられた幾つかの照明のうちの一つが、損なわれても、明るさに影響があるようには思えない。
しかし、これが、どうやら馬乗りになっていた狼の背中を、直撃した。
狼に向かって伸びている血痕は、僕から奪ったものじゃない。
満身創痍の背中の毛皮に突き刺さった数本の金属片が、観る者により一層の興奮を与えていたのだ。
「Fenrir様…!!」
救いの手に、神様の名前を口にすることは、至極自然な、信心深い所作だろう。
“くそがぁっ…!どいつもこいつもっ…!!”
段々と分かって来た。
この戦いが、僕に何をさせたがっているか。
知力を活かして、この狼に勝利することなんかじゃ無かった。
僕に、神が付いていることを、相手の神様にも知らしめることだったのだ。
“ふざけるなっ!どうしてお前が…っ”
狼は、何者かの介入によって、激しい怒りを滾らせているのが見て取れた。
先まで、真っすぐに僕の存在だけを射定めていた彼は、何処ともわからない方角に向かって、けたたましい吠え声をあげていたのだ。
“俺は貴様の助けなんぞ、必要ないっ!”
“見るなぁっ、出て行ってくれっ!!”
これを宗教戦争と呼ぶのは、解釈の拡大だろうか。
けれども、僕は今後も、Fenrir様の障害を、冷酷に排除し続けなくてはならないだろう。
初めて志を共にしたSebaという青年だって、貴方の思し召しなら、いずれは、協力者から、裏切り者に代わる。
右手に食い込んだ包丁の柄を、もう一度強く握りしめ、左肩の付近に構えた。
血の臭いを嗅ぎつけたなら、真っ先に狙ってくるのは傷口だ。此処に構えて置けば、最低限の防御にはなるだろう。
だらりとぶら下げた腕を見ると、吹き出す血の量が対戦相手と大差ない。抑えようと止血に右手を使えば、まともに武器が握れなくなる。繋がっているのか怪しいなどと思うが、傍から見れば大袈裟なのだろう。
痛みは全くないのが救いだ。ただ、蝋を上から流されているかのように、熱いだけ。
こんな勇気を土壇場で与えられたなら、なるほど自分は神に選ばれたと確信して、戦場を駆け巡ることが出来るのかもしれない。僕に注がれる視線は、英雄の名と共に、我が主を祝福するだろう。
そして気付くのだ。
相手は色が違うだけで、同じ駒なのだと。
「やるしかない…」
八百長なんて言葉に甘え、初めからその覚悟が無かった時点で、終わっている。
この狼を、殺すつもりで。
いや、殺さないといけない。
今の彼は、まさに狂犬と呼ぶに相応しかった。
何かが、彼を酷く混乱させているのだ。
身体を何度も床に打ち付け、血を振りまきながらもなお見えぬ脅威を探す。
取り乱して、冷静な僕の位置の把握が出来ていない今こそ、勝機。
しかし、闇雲に暴れまわる牙に触れ、手痛い反撃を貰うのは避けたかった。
僕は、大きく息を吸い、右手に携えたナイフを高々と持ち上げた。
二の矢は、いらない。
一発で、仕留める。
それは、糸で結ばれたように、吸い寄せられるように、獲物に向かって放たれた。
「……。」
殺気さえも、狼に嗅ぎ取らせなかったのは、本当に純粋な気持ちで、
この狼を、楽にしてあげなくては。
こんな痛々しい姿、もう見ていられないと、
救ってあげたいと願っていたからだ。
甚だ疑問だ。僕がもし、目隠しをされたまま、両手の指をすべて切り落とされて尚、これだけ戦う遺志を燃やし続けることが出来ただろうか。
それが喩え、リフィアを救う道に立ちはだかった受難であったとしても。
諦めてしまわないか。
誰かが自分を、都合よく殺してくれないかと、喉元を晒すような真似を、僕だったらしていた。
だから、運が、神様も、僕と同じ慈悲の心を抱いていることが分かって、安堵している。
投げた瞬間に分かった。完璧だった。完璧すぎた。
その目隠しの眉間に向かって、
顎下へ貫くように。
届く。
ガキーンッ…
「え…?」
だからこそ——その音が、信じられなかった。
弾いた…?
なんで?どうやって?
爪はもう、奪われていたはず。
叩き落したような音じゃなかった。明らかに、固い何かがぶつかった音。
“……。”
この狼、僕を、見ている。
ナイフが飛んでくる方角も、タイミングも、完璧に。
知っていた。
“ああ……”
“そこにいたのか。”
この狼は、神の存在を知覚しているのだろうか。
だとしたら、それは狼の姿をしているか?
そうだとしても、それはFenrir様じゃない。
『うおおおおおおおっっっーーーーーーー!!』
「ふふっ…」
より一層沸き立つ狂乱の声、血に濡れた観客席も、これを見に来ていたらしい。
「ほーら…」
「勝ちに来た。」
武装完了、という訳だ。
僕には見える。
神様も、案外大人げないものなんだな。




