38. 再入場 2
38. Restage 2
オオカミを狩る術など知らなかった。
僕は狩人じゃない。
逆に、相手は知っているのだろう。
あれだけの傷を、虐待として無抵抗に受けたのだとは思いたくない。
人間を相手に此処まで勝ち進み、生き残って来ている。
であれば、後手を選ぶのはある種必然であると言えた。
狼が繰り出した、やや精度の劣る飛び掛かりを回避できるか。その一点に僕らの攻防は尽くされているように思えた。
逆に言えば、もし、あのしっかりとした両前脚に捕まれ、押し倒されたなら、終わりだ。
こいつは、目隠しの上からでも、狙いの外しようがない。
観客の興奮が最高潮に達するのは、その時だろう。
僕に、反撃の好機も生まれるとか、そんなことを考えるのは、余りにも寝ぼけている。
番犬に嵌められた首輪は、噛もうとする者に対しての警告だ。
狼の首元に巻かれた棘付きの鎖は、彼自身を苛みながらも、僕のような差し違えを目論むような間抜けに対して、防具の役割も果たしていそうだった。
仮に致命傷を与えることが出来たとしても、間違いなく、相手より早く絶命する。
取っ組み合いになることだけは、避けなくてはならない。
「Fenrir様…」
Sebaが、どうやって3匹の狼を殺したのか、そればかりを気にしていた。
けれども今は、この狼を、僕が同じように殺すのであると、そういう台本が、我が狼の頭には出来上がっていて、それを実演させられている最中であるのだと思っている。
吸い寄せられるように、勝敗は決する筈。
『さぁーってどうしたーっ!?どっちかが死ぬまで終わらないんだぞっー!!』
『やれーっ!お前に有り金ぶちこんだんだっー!やっちまえーっ!1』
観客は待ちくたびれているらしい。
千の足が石段を踏み鳴らし、熱気が砂塵のように舞い上がって、視界を揺らしている。
「ふぅー……。」
でも、それ以上に肝要なことは…
そんなものに気を取られ、今この瞬間を疎かにすること。
その為に、あっさりと自分が命を失わないよう立ち回ることだ。
戦いの中で、僕はFenrir様の真意をどうにか掴み取って見せる。
初めに確かめておかなければならないことは、彼の現状の索敵能力だと理解できた。
僕は、対戦相手から目を逸らさぬよう、ゆっくりと屈むと、右足の靴の踵に手をかける。
挫いた足首の痛みはだいぶ引いていたが、全然脱げない上に、踵を浮かせた際に関節が全然曲がらなかった。見ると、絶対に痛みが増すと思っていたので、暫く確認していなかったが、だいぶ腫れが酷い。アドレナリンで、殆ど気にならないだろうと思っていたが、一度挫くと癖になる。体勢を崩すとしたら、此方に倒れるだろうと思った。
もう片方も脱ぎ、踵を摘まんでぶら下げる。
Sebaが、僕と同じような手法を取っていたかは、定かではない。けれど、彼に靴紐を解くような、悠長な時間は無かったはずだ。
「……っ!」
勢いよく空へ向け、同時に放った。
『おぉーっ!?』
思考は、本質的な課題から逃避し続けている。
八百長試合の意味だ。
運営、即ちヴァイキングからしてみれば、
僕は、負ける筋書きになっている。
どうやって?
実際に戦闘中に、妨害工作はあるまい。横やりを入れるような無粋な真似、流石にしないだろう。
何を仕組んでいる?
与えられた武器に予め細工が為されており、狼の何気ない一撃で損壊、丸腰になってしまうハプニング。
それは回避した。これよりも良い武器があることは疑いようも無かったが、ずっと握りしめていたこれよりも、咄嗟に身体の一部として機能する刃物は無いと思ったからだ。
では、細工をするとしたら僕の身体に…?
心当たりがあるとしたら、昨晩口にした、少しだけの飲み物。
Sebaが、僕を既にヴァイキングの手に落ちたマルボロ領の地下牢へと押し込める前、
身体を温めて下さいと差し出された、一杯のラム酒。
まさか、Sebaは、ヴァイキング側に付いて…?
蒸留酒特有の甘ったるくきつい匂いに、あの味。何かを混ぜ込まれていたとしても、分かる筈がない。
咄嗟に喉元を指で押し付けたりなどして、違和感を必死に探す。
遅効性、だとして、間もなく僕の身体に、何らかの異変が起こるというのはあり得るか?
眩暈やふらつき。或いは幻覚、ちょっとした妨害が、僕を敗着へと導くだろう。
いや、でもそのような裏切りの臭いを、Fenrir様が嗅ぎつけられない訳がない。
元より、信頼関係など、無いのだ。
目的達成の障壁となり得る、僕への被害を見過ごすようなことがあるだろうか。
じゃあ…ヴァイキングの考えている八百長とは、何だ?
これでも、仮にも誇り高き戦闘部族と言うのだ。
こんな下らない賭け事においても、その矜持を保っているのだとしたら?
彼らが、この狼の’絶対的な実力’ によって、僕が平伏すと確信しているだけなのか?
案外それが、一番説明が付くのかもしれない。
見かけ上の勝ち負けなど、此処には一切ない。
やるか、やられるか。
戦争における、降伏。狼における、腹を見せた転覆。
そんなもの、何処にも。
「……。」
それなのに、それなのに。
僕は、目の前のこの狼のことを殺さずにいたいと、本気で思っている。
顔も名前も知らない誰かを殺せるか、そんなことを大真面目に考えて来たこの僕が。
あれだけの辱めを受けながらも、尚生きようとする気高さに、良心の呵責があったとうのもある。
Fenrir様の化身として同格に扱うべき獣に対する禁忌と言っても、説明が付いた。
しかし、もっと根源的に。僕は何か大事なことを、この狼を殺さずに済む理由を、思い出すべきだ。
狙いは、至極単純。
狼の聴力、それは、残忍な手法で奪われた視界を補って余りあるだろうか。それだけだ。
僕の耳は、聞き取れぬ野次で埋め尽くされ、濁流の中を泳ぐようにぼうっとしている。
相手も事情は同じであるのなら…定石に反し、先手は僕の手にある。
彼方が、闇雲に襲う様子が無いのが、怯えの現れでは無いことぐらいは分かった。
であれば、現状は2択。
此方の位置が掴めていなくて、後手に回らざるを得ないか、
此方の位置を掴んだうえで、先手の動きを待っているかだ。
『おーっと!?今回は至って慎重な立ち回りのようだぞ!?』
落下点は、二つが離れていれば、何処でも良い。
靴は、空中で袂を分かって軌道を逸らし、狼の両脇にほぼ同時に落ちた。
その反応で、おおよそ理解できるはずだ。
ボトッ……
「……?」
耳が、ぴくりと反応を示したのは分かった。
その後、思考の時間がどれくらいかで、相手が戸惑っているかどうかを判別するつもりだった。
もし挟み撃ちの脅威を即座に察知し、退くようなら、きちんと聴力は機能しており、頼り切っている。利用して裏を掻くことに活路を見出せるかもしれなかった。
逆に、落ち着いて、動かずに警戒を続ける場合、離れた2点での物音を理解しているのか、歓声に掻き消されて、鈍っているのかの見分けがつかない。
だから、前者と解釈できるようなサインは、喜ばしいことであるように思えた。
まさに、このような反応だ、と期待したものでは無かったが、近づいて、予測不能な闇雲な攻撃に遭うより、よっぽどまし…
「なっ……!?」
そう、僅かに胸を撫で下ろした直後だった。
“グルルルルゥゥゥゥッ……!”
正確に、僕の方へ向き直り、突進してきたのだ。
なんで、なんでだ…!?
投げる瞬間の、僅かな息の乱れを聞きつけたのか?
いや、それだったら、靴の落下を待たずに、攻勢に出る筈。
音を聞いてから、僕の位置を割り出している…?
武器を握りしめていた手は、絶対に離さないと決めていたのが、裏目に出たんだ。
片方の手から投げるにしても、時差が必要だった。
それだけの知性があって、何ら不思議じゃない。
軌道の対称性が、彼に幾何学的な追尾を可能にしている。
恐らくは、落下地点の、垂直二等分線上に、投擲主がいると、瞬時に辿り着いた。
そして、前後の2択を、今の確信へと導いたのは…
「しまっ……」
腰の引けた僕が漏らした、小さな叫び声。
左手で覆っても、もう遅い。
間合いも、割れた。
上唇を剥き出しにして、
飛び掛かって来る…!
足首の捻挫など、無くても結果は同じだったろう。
あっさりと腰を抜かし、身体が後ろへ倒れていく。
まるでそのまま押し倒してくださいと言わんばかり。
「あ、あ……!!」
最善席の柵を叩いて叫ぶ野次が、はっきりと聞こえる。
集中が途切れたのだ。客観視と言った冷静さでは無い。
いずれは、毛皮と揉み合う近さでの乱闘に縺れ込む。それは分かっていた。
でもそれは、覚悟が伴っていたという意味では無い。
相手の力量をきちんと推し量ったところで、狼が動きを止めるのは、僕を仕留めた時か、喉笛を描き切られた時だけ。
それが、思ったよりも早くやって来ただけのこと。
狼の黒い影が、視界を覆う。
Fenrir様をずっと眺めて来た。それでも、この巨体に圧し掛かられることの恐怖を知るには足りなかった。僕の神様は、僕に慈悲深かったから。
「はっ…はぁっ…」
構えろ、この包丁だけが、僕に与えられた牙なんだ。
ずっと握りしめるだけでどうする?
尻餅を搗く寸前、反射的に、ナイフを振り回すぐらいのことはできた。
と言っても、腕の動く範囲で、空を振りぬいただけの、お粗末な抵抗でしかない。
刃先は盲獣の毛皮を掠めすらせず、そのまま顔面が飛び込んでくる。
右手から肩にかけての衝撃で、僕の身体は勢いよく後頭部から倒れ込んだ。
「がぁっ…!?」
“ヴヴゥゥゥッ!!”
彼は、殆どすべてを奪われながらも、
雑念に、視界を少しも曇らせることは無かった。
怒りに、微塵も狂ってなどいなかった。
人間の体格を、極めて正確に想像した上で、局部を狙っていたのだろうと思う。
最初に触れた肉が、突っ張った腕だとして、その先の付け根が胴体だ。
それを、両前脚で逃さぬよう、がっちりと掴む。これで、もう小賢しい駆け引きはおしまいだ。
そう思ったが、違った。
彼の前脚を見て、またしても僕は、自分の身体に当てはめて、痛みを分け合ってやろうなどとする。
でも、余りにも、何処までも、惨かったのだ。
爪が、無かったのだ。
まさか…抑えられないよう、剥がされているのか…?
その必死さが、なおさら胸を締め付ける。
Fenrir様。どうしてこの狼への加護を、お与えにならなかったのです?
「うぅっ……ぐっ……?」
前脚が胸元からずるりと落ち、接吻の距離まで鼻先が詰まる。
吐き出される猛獣の荒い息が頬を焦がす。次の瞬間、あの折れた牙が肉を裂いた。
胴体から生えた肉のうち、一番太いのが、首だ。狼と変わらない。
狙いは正確、外しはしない。
「ぎゃああぁっっ!!」
そうして噛みついた先は、
「あ゛あ゛っ…あ゛ぎゃああぁっっ?」
僕の、左肩だった。
ごりごりごりっ…
欠けた牙先など、お構いなしに、凄まじい咬合力で、喰い込んでいく。
「あぎゃあああああああああっっーーーーー!!」
自分の悲鳴で、狼の垂らした臭いで、
頭の中で、何かが弾け飛ぶ。
視界が薄汚く滲み、歓声が脳へとねじ込まれていく。
‘…どこだ?…は…何処に…?’




