4. 山積みのご馳走
4. My Lies Piled Up
脇目も降らずに、樹海の深奥へと走り続けて行った。
「はぁっ…はぁっ……ぅっ…はぁっ……!!」
息が持たなくなるまで、トップスピードから緩めずにいれば、いずれこの動悸に相応しい肉体の限界が訪れると思ったからだ。
その限界を迎えるには、この現身は頑強過ぎた。
結局俺が、耐え難い羞恥に追いつかれることを許す気になったのは、
段々と輪郭の曖昧になった白樺の幹に、左半身の毛皮を掠めかけてからのことである。
「う……うぅ…」
とぼとぼと歩みを進め、到頭その場に立ち尽くすような、そんなしょぼくれ方はしない。
まるで、横たわる獲物に喰らい付くように、その場でがむしゃらに雪を、ガブガブと口へ頬張り込む。
舌先で溶けぬままの粗目が、腹の辺りを冷やすだけで、苦しい胸に何もしないのが苛立たしかった。
「グルルルルゥゥゥゥッ……!!」
何度も、爪先に力を込めて叩き、額を雪面にぐりぐりと擦りつけるも、一向に、目頭は痛く腫れたまま、火照った頭は冷めやらない。
「あぁ……」
命からがら逃げて来たこの世から、今すぐに己を消し去ってしまいたいとさえ思えた。
本当に、何をしているのだ。
行動に移す勇気も無かった癖に。
そういう、中途半端な優しさを湛えて近づく輩が、俺自身、一番嫌いなのだ。
そんな自己嫌悪ばかりが募って、ますます頬は焼け付く。
彼女と出逢ってしまったことを、死ぬまで、後悔するだろう。
臭いを己に刻み付けたことは、もっとだ。死後尚、そいつは俺に付き纏う気がしてならない。
どうして、何もしてやろうとしなかった。
俺は、いずれ神界に君臨する大神である。そのようなに気取って、全能の様を見せつけてやるぐらいの驕りが、何故なかった。
嘗て、俺を生かすと言ってくれた神様は、それくらいの器量があった。
俺は産まれてすぐに、故郷であった神々の国、アースガルズから追放の裁きを受け、彼らによって与えられた縄張りで暮らすことを余儀なくされた。
怪物的に成長を続けた俺は、何も知らずに、そこにあった餌を、一匹残らず喰い荒らした。
気付いた頃には、もう手遅れだった。
神様を喰い物にする勇気さえ無かった俺は、その檻の中で野垂れ死ぬことを選んだ。
だが、そうはならなかった。
飢餓に陥った俺の元に現われたあいつは、手土産の一つを持って、こう言ったのだ。
それは、たった一頭の牡鹿だったが。
腹が減っているんじゃないかと思って。
ほら、遠慮せずに食べなよ。
そう笑って、彼は、俺のことを救ってしまった。
本当に、誇張なく救ってしまったのだ。
俺のことを、ああ、もう大丈夫なんだと、すっかり安心させてしまうぐらい。
あいつは、誰かを救える神様だった。
…それが、俺はどうだ?
一匹で、ひっそりと息を引き取りたい。
彼女は、恐らく、潔く諦めているのだろう。
少なくとも自分では、そう考えている筈だ。
だが、その実、違うのだ。
誰かに見透かされるのを、待っていた。
誰かが、自分のことを、ひょっとしたら、救ってくれるんじゃないかって。
こんな状況になっても、自分でもバカみたいと思えるぐらい、まだ、一縷の望みを持って。
でないと、遠吠えになんて、応えない。
思わず吠え返してしまった彼女は、どんな心境で、俺の音色を聞いただろう。
そして、俺に出逢い、俺の本音を悟ったときに、どれだけすっきりとした気持ちになれただろうか。
やっぱり、これで良い。諦めが着いた。
これで、変な希望に惑わされずにすむ。
だから、
ありがとう、と。
あの神様に、俺のことは救えないと悟った時に、どれだけ気分が晴れたか、今でも鮮明に覚えている。
「俺が、お前の…」
そして、俺の決意など知る由もなく、容易く覆して来た、あのお人好しの勇気に、どれだけ絶望させられたか。
決して忘れまい。
決して。
「……。」
夜の帳が降りた森は、俺に一層の独白を促していけない。
「ふぅー……」
ようやく、向かって来る突風の冷たさを毛皮が覚え、心地よく思っている。
俺はずっと、東西に延びた山麓に沿って、深い樹林を走り続けていたらしかった。
いや、そうは言っても、慣れない林間を走り抜けていただけだから、そんなに距離は踏めていないのかも知れない。
見知らぬ森を歩くと、得てしてそういった経験が多い。
今来た道を戻ると、突き進むのにかけた時間が馬鹿らしく思える程、あっという間なのだ。
見知った土地というのが、どれだけ狩りに大きく寄与するかを、思い知らされる。
皆、寝静まっている。驚くほどに静かだ。
幸運なことに、周囲に他の群れ、少なくとも同胞の存在は知覚出来ていない。
闇雲に走り続けていたが、正直言って、褒められた猛省の術では無かった。
丹念にマーキングの痕跡を辿る行為を疎かに、安易に余所者が縄張りに踏み入った場合、報復の手段が択ばれることは無いに等しいだろう。
地理的な把握は当分先になりそうだが、未だ緩衝領域を出ていないと見て、問題あるまい。
それは、俺が周辺の動物たちに手出しが出来る状況にあることも意味した。
別の捕食者の存在には、絶えず注意しなくてはならないとしても。
よくよく鑑みれば、新たな干渉は、歓迎するところでもあるのだから。
「…腹が、減ったな。」
口にすると、その実感が伴って来た。
思えば、半日間、ずっと移動しっぱなしだ。
明日以降の移動をスムーズにする為にも、そろそろ、腹に何か収めておきたい。
西風が運んできた臭いと、沢の微かな潺に、俺は運よく狼と獲物、分け隔てなく利用される公用路が近いことを悟った。
十分に注意すれば、かなりの距離まで、接近できるだろう。
夜明け前には、終わらせてしまいたい。
そうすれば、俺自身の痕跡も、残さずに済むだろう。
彼女との邂逅によって、俺は己が存在を、怪物から、ちっぽけな森の住民へと大きく縮小させられた。
そしてこの世界において、まだ見ぬ獲物は、強大な標的へと変貌を遂げるだろうか。
そんなことは無い。
彼らは、その大きさだけを保存し、俺が神界で出逢って来た狼と同じように、狩られるであろう。
しかし、少なくとも、一匹で容易く仕留められるような、そんな代物では最早あるまい。
「だが…その分、食べ応えだけは、あると信じたいな。」
それでも、揺るぐことのない自信は、嘗てより変わらぬ、我が狼の矜持である。
ずっと、密かに憧れていたのだ。全開まで広げた大口でさえ、丸呑みできないぐらい巨怪な獲物を、心行くまで喰い散らかすような贅沢を。
「…そうすれば、幾らかは平らげずに、残して置けるだろうから。」
一介の狼に成り下がったとて、変わることは無い。
見せてやろうとも。
狩りの最高峰を。




