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37. 痛ましい苦境 2

37. Dilema Doloroso 2


お前は始末されるだろう。


対戦相手によって、牙を喉元に差し向けられ、

観衆の興奮は、最高潮に達する。


全ては、我らが神の思し召しの通りである。


その時だ。その瞬間が見たい。

後は、俺の同胞たちに、任せておけば良い。


勝敗を覆してやれ。Siriki。

皆に、口を揃えて叫ばせるんだ。

筋書きが違う、とな。





だけど、決闘のことを思い浮かべても、心がどこにも動かない。

死ぬのかもしれないという実感は、まだ雲の向こうにある。


むしろ、過去の自分が、包丁を振るい、友の血を流したという記憶そのものが、作り話のように思えた。

幾ら勝ち負けの決まった試合であっても、これでは、軽率に命を失うかも知れない。

そんな危機感さえ、他人事。

観客でも、もう少し、興奮するだろう。


「……。」


一度、Fenrir様と二人きりで話す時間が欲しかった。

彼を、Sebaを、どうするおつもりなのですか、と。


頬の傷跡をなぞりながら、僕は牢屋の片隅で膝を抱え込む。

石壁の隙間から漏れる風の音が、潮騒に溶けていく。

天井の僅かな光筋に照らされた埃が、かすかに舞って、僕の娯楽はそれを眺めることだけだった。

夜更けまでこのままか。野宿よりかは、幾分かましであるように思ったけれど、鉄格子の冷たさを遠ざけようにも、四肢枷と首輪が、ずんずんと体温を奪っていく。

身に巻き付けるマントを取り上げられなければ、まだどうにかなったのだろうけれど。もう震える気力さえ起きなかった。


主従関係を、演出することが必要なのはわかる。

しかし、こうして奴隷として、飼い主に残忍に扱われることを屈辱的と思わない程、僕も牙を抜かれてはいないのだ。

同じヴェリフェラート民である貴族が、このような道楽に手を染めている。

いつか靴の裏を舐めさせたいと希って来た絶好の機会を手に入れ、マルボロ侯爵家の人間を購入することに愉悦を感じている同族がいる。

演技だと、何度言い聞かせても、腹の辺りのむかむかが収まらない。


実際、奴隷市場で僕が見降ろしていた買い手の中には、Seba以外にも、ヴェリフェラートの顔がちらほらとあった。

同じ人間を、こうして鎖につないで、扱ってやりたいという欲望が、胸の内にあった奴が、こうして認められる時代が来た。

珍しい商品だと、目を輝かせて眺める様は、根っからの行商人でしかなかった。

それだけは、ヴァイキングの彼らと異なる点だと言えた。


想像したことが無かったとか、強烈な体験だったとか、そういう遺憾ではなくて。

僕にもまた、そのような視点が求められるのだと思うことが怖かった。

こういう人間を、これからは人間と思わないこと、言ってしまえば、ヴァイキングが別人種を劣等に扱うのと同じような感覚。

それを、日常というか、もっと普遍的な判断の結果として落とし込んでしまう。

こいつは、自分より下だから、どれだけぞんざいに扱っても構わない。

代えが利くのだから、金銭や、替えが利く者同士での取引ができる。


そのような脱人間、《dehumanization》の、大衆化。

それを、受け入れること。




駄目だ、だめだ。

そんなことを考えるだけで、侵されていく。

ということは、受け入れる土壌が、出来てしまっているということ。


でもそれが、Fenrir様の意志であると、理解できない限りは。


だから、話したかった。


自我が、芽生えつつある私を、貴方はどう思うのですか、と。

自我と言うよりは、これは不安、いや、嫉妬に近い。


このまま僕は、風だけが皮膚を蝕むような檻の中で、お二人が痛快に繰り広げる物語を、ただ指を咥えて眺めている。置いて行かないでと、鉄格子の隙間から、腕を伸ばして、叫んでいる。


その方が、Fenrir様の、神としての降臨への道が近いのなら、

本当に、起こりかねない筋書きだった。


地位も、冨も、名誉も、彼の舌を満足させるご馳走の山も、全て持っている彼なら。




僕に問われていることを、僕が推測すること、それ自体が、貴方との契約に反することだ。


でも、もしかしたら、僕は彼のことを、殺したいと思うかも知れない。

立場が逆転する瞬間を、始末する機会を、望んでいるのでは。



ただ、今は、彼を知りたいと思う気持ちを、大切にしたい。

折角、Fenrir様が引き合わせて下さった、ご友人なのだ。


彼方に、僕を隷属的に扱う気持ちが無い以上、僕もそれに応えたいと思っている。




コツ、コツ、コツ…


しなやかな靴底が、石畳の床を撫でる音。


檻の中は、独白を、内省を、猛烈に促す。

早く、此処から出してくれ。


ご主人様。




踝まで垂れたマントが、天上の低い檻の目の前で止まる。

紺色の布地に、金色の刺繍が施され、裏生地の映える赤紫のシルクは、羽織の内側から湯気が立ち上っているようだった。


「良く眠れただろうか…?」


靴の爪先が、カン、カンと鉄格子を叩き、僕に、起きて見える位置まで出て来いと指示をする。


手も足も、それから首輪に繋がれた鎖が音を立てて床を引き摺り、僕は老犬のような足取りで靴の先端へと近づいてく。

実際、全身は鎖に耐えきれない程に重かった。

自由が利かないことを、四肢を広げる必要が無いことを、身体がたったの一晩で、覚えてしまっている。

こうやって、鎖につながれて、縮こまっているだけで良いと、身体ばかりでなく、精神までもが隷属したならば、先までの野心が取り除かれるのも、そう長くはかからないのだろう。


目の前まで、来てやりましたよ。

いやらしい角度だ。天板に遮られ、主人の顔を、見上げることも許されない。


しかし、靴の先端は、檻の中に入れられたままだ。

何かを、要求されているのか…?


そう悟ったと同時に、目の前まで、先端が押し出された。



「っ……。」


何も、そこまで徹底しなくても。

僕は渋々、両手で革靴を包み込み、震える口先を先端へ近づけ、恭しく接吻の御挨拶をして見せた。


これで、宜しいでしょうか?


すぐさま、荒々しく靴は取り除かれ、振り向いた外套の裾へ隠されていく。

そのせいで、唇が切れた。


「痛っ…」


そのまま頭を踏みつけられるような気さえして、僕は慌てて檻の中へと身を引っ込める。


…本当に、演技だろうか?

元々、そういう行為を許される地位にあり、当然の所作と生得的に身に着けていたのだと気付かされる。

昨晩、目にした光景よりも、益々威厳があったが。

今は、温かそうな外套の裾を引っ張って剥ぎ取りたいという感想しか、浮かばない。


背後の従者と思しき男が、僕の檻の鍵を開いた。


「出て来い、マルボロ侯爵の御子息殿。」


「酷い顔つきだな。ご家族が今のお前を見たら、どう思うだろうか…?」


しっかりと、劣情を煽ることも忘れない。

その思考が口を突いて出るのは、予てより抱いて来たどす黒い本性が見え隠れしているからか。

少なくとも、Fenrir様の台本とご主人様の名演が合わされなければ、こんな屈辱的な奴隷の気分は味わえない。



その顔を見て、納得する。

ああ、彼もまた、僕と同じ。

駒であることを、悦んでいるのだ。




「決闘の時間だ。会場までは、自分の足で歩け。」


こんな陰気臭い地下、長居をさせるな。

そうとだけ告げると、彼はマントを翻し、早々に牢を後にする。


Fenrir様が仰った通り。そういう人間は、本当に存在するのだ。


「精々…抗うことだな。」


「是非とも、楽しませてくれたまえよ。」




「…我が、ご友人。」




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