36. 波止場の恐喝者 2
36.Dockside Extortionist 2
『はいよ、確かに受け取ったぜ…』
1,000,000 Denierだ。
縺れに縺れた落札値は、僕があと、999回戦地で死ぬ思いをして、ようやく稼げる額。
心底ばからしいと思った。たかが刺激的な娯楽の為に、此処までの大金を叩けるなんて。
全部金貨だとして、あの布袋は、僕の死体よりも重いだろう。
立ち上がることさえ出来ない高さの檻の前で会話する、3人の足元が見える。
その内の4つは、僕の胴ほどあるだろう太さの脹脛で、それ故、奴隷が逃げ出さないようにする見張りと、商取引を成立させるためのディーラーであると理解できた。
『これで、購入手続きは、完了だ。何処にでも持っていきな。』
そして…もう一人。
黒の外套の裾から覗かせる、茶革のブーツ。
雪の上を歩いても寒さを感じないという、市民には到底手が届かない高級品。
そんな装いを見せつけられては、金持ちを通り越して、貴族では無かろうかと勘繰ってしまう。
『しっかし、兄ちゃんも、悪趣味なこった。こんなことに金をつぎ込んでいられるのも、今のうちだと思うぜ?』
「彼は…何と?」
「オ前サンミタイナ奴ガ、俺達ノ遊ビニ混ジッテ、一人前ノツモリカ、ダトヨ!」
「力でねじ伏せるのでなく、金での取引を所望したのは、そちらの方では?」
「ヘッ!ムカツクガキダゼ…」
「ダガ…気ヲツケロヨ?コイツ、オ前ト同ジ、コノ国ノ生マレダロウ?飼イ犬ニ手ヲ噛マレテモ、知ラネエゼ?」
「…余計なお世話だ。さっさと二人きりにして貰えるか?」
『ははっ…仮に情が移ったのだとしても、こいつの死に場所は、もう決まっているんだ。逃げ場はないけどな。』
「フン…マア良イ、好キニシロ。モウコイツハ、オ前ノモンダ。何処ニデモ持ッテイキヤガレ!」
そんな捨て台詞と共に、ヴァイキングの二人は去って行った。
「……。」
辺りは静まり返り、いや…少し遠くの方から、まだ騒ぎ声がまだ聞こえる。
奴隷市の続きが行われているのだろう。品数が豊富で、夜通し続いているのだろうか。
今回ばかりは、彼らの言い分に頷かずにはいられなかった。
拘束さえ解いて貰えたなら、こいつにだったら、取っ組み合いになっても、勝てそうな気がしている。
もちろん、身を窶しているだけという、前提を、忘れてはならないのだけれど。
今の僕にとっては、ヴァイキングよりも憎い存在と言っても過言では無かった。一挙手一投足に、腹が立って仕方がない。心が自然とその成金の粗を探しているのだ。
有り得ない、同じ国の人間を、召使いなどでなく、奴隷として購入するだなんて。
我が主とは、こいつじゃない。僕には、全身全霊を捧げる神様がいるんだ。
その決闘が終わるまでの辛抱だと思いたいけれど、絶対に、媚び諂ったり、屈辱的な命令に服従などするものか。抱えていた膝を掴む手に、自然と力が籠る。
でも…
彼に嗾けたのは、Fenrir様だ。
舞台上に気を取られ、他の誰も、気が付いていない様子だったけれど。
最前席に座る彼の隣で、腹這いに座る巨大な影を、僕は見た。
本当に、あのお方だったかどうかは、正直確証が無い。
他にも狼を、この港の何処かに、紛れ込ませていると仰っていたから、その内の一匹である可能性もあるけれど。
しかし、此処まで、予定通り。この流れは、必然であると信じるしかない。
僕の買い手は、彼である必要があった。
檻の前に、青年の両足が並んだ。
その顔が降ろされたら、ありったけの憎しみを込めて、睨みつけるつもりだった。
唾も、吐いてやろうか。いや、僕がそうされる側なのかな。
しかし、彼が屈み、マントの裾が降ろされたところで、僕の内側で燃えていた不純な怒りは消えた。
「これ、お返し致しますね。」
フードを捲り上げた彼はそのマントを脱ぎ捨て、僕の肩に羽織らせたのだ。
檻の頭上で、声がする。
「いやあ、見ものだったぞ、Siriki。」
「……!?」
「檻の中で惨めに過ごすお前を見物するのは、実に爽快だった。」
「Fenrir様っ…」
ゴンっ…
天井に頭が激突し、呻いて抑えようとして、両腕の間の鎖がぴんと張って手首を痛めつける。
「う゛っ…」
「これから、気に喰わないことがあるたびに、牢屋に押し込めてやることにしようか。」
――――――――――――――――――――――
「つ、つまり…貴方は、僕の主人では無く…」
留め具の外れたマントを肩に巻きつけ、僕は震える息を吐く。
安堵、では無い。けれども、僕はFenrir様以外で初めてまともに会話のできる相手との会話の機会に、
緊張の糸が解れない訳が無かった。
第一印象は、何処へやら、今なら戯れにご主人様と何の躊躇いも無く膝を付ける。
「支援者である、と…?」
しかし、どうやら事情は想像より複雑そうだ。
僕らは、波止場の裏手、荷の空樽やロープが打ち捨てられたごみ捨て場のような場所にいた。
今日は野宿だ。石畳は潮に濡れ、足元から冷たさが這い上がってくるが、それでも、空の見えぬ鉄檻の中より、数倍まし。
海風を遮るものは何もなく、どこかから漏れる笑い声が背後で反響している。
空っぽの木樽の影に身を潜めているのは、隠れていなければならない理由があるのだと、空気が教えていた。
「賭けに参加する為には、駒の持ち主が必要だというのが分かってな。」
多分、この青年に集って、買って貰ったのであろう。
とびきり大きな骨付き肉に齧り付き、見せたことのないようなあどけなさで頬を綻ばせる。
「どうしても…その役は俺では演じられないのでね。」
「こいつに落札して貰ったという訳だ。参加権も、こいつが持っている。」
「初めまして…」
顎でしゃくられた青年は、礼儀正しく頭を下げた。
「Sebaと、申します。」
彼の髪は風に逆らうように前へ流れ、薄い栗色が篝火の下で赤銅色に輝いた。
年の頃は僕とそう変わらない。けれどもその眼差しには、主人らしき冷たさも、傲慢さもなかった。
鼻筋が通った整った顔立ちに、かすかに童さが残っている。多分だけれど、僕よりも幾つか幼いぐらい。
だが、その静かな口調は、大人びようとする僕よりも濃い影が差していた。
そして、狼が言葉を話す超常現象を、既に受け入れている所を見るに、彼もまた、Fenrir様に、興味を持たれた人間ということになる。
彼に、特別な力がある訳ではきっと無い。
選ばれた、などと思い上がるな。契約の前に、そうFenrir様は仰っていた。
しかし、僕と同じように…
そう、Fenrir様に利用される駒となることを、心から欲している。
目的を同じくする訳では無いにしても、その一点で、同志であると言うことも出来た。
そして、できるなら、
形式的な主従関係を超えて、友達に。
一蹴されるような甘ったれた願望であるのは理解している。
彼の唸り声にも似た咳払いは、きっと、そんなきらいを鋭敏に嗅ぎ取ったのに違いない。
「お前も見て分かったと思うが、連中の過熱具合は異常だ。」
「相当に退屈しているのだろう。案外このゲームが盛り上がっているものだから、俺の所望の対戦カードを実現するのに、一工夫施してやらねばならなくなったのさ。」
「狼の対戦相手は、挑戦状を叩きつけるだけでは、駄目だった、ということですね。」
「ああ、それなりに実績のある、戦っていて面白いものになると期待される奴でなければな。」
「そして、その対戦日程は、既に組まれていたのだ。」
「じゃあ本来、その狼と戦うはずだった相手に、僕がなるためには…」
「そう、替え玉だ。」
「奴隷として買われ、その剣闘士に成り済ますまでは良い。だが単なる一介の奴隷として売りに出されたお前では、到底すぐには実現しない。勝ち上がる時間も惜しい。こうするのが一番手っ取り早かったという訳さ。」
「なるほど…それで、その本来戦うべきだった相手、というのは…」
「なんでも、王族の子だそうだ。きっと盛り上がるだろうな。悲劇の主人公と呼ぶにふさわしいだろう。いやあ、お前がその役を演じるのは惜しい。」
それで、合点が行った。
どうりで出品された僕に、とんでもない値段が付けられていた訳だ。
「それも、中々に勇敢でな。一応、3連勝ってことで、だいぶ奮闘しているってことになっているらしい。」
「らしい、と言うのは…?」
「鈍いな、八百長試合だからに決まっているだろう。…それでもきっと、観る側の期待は大きかっただろうがな。」
「ってことは、その賭場自体も、裏では主催者が仕組んで戦わせているのですね?」
僕が成り済ましている奴隷を、どうして以前の持ち主が手離すことを決めたのか、疑問だったが、どのみち失うことになると知らされていたのだろうか。早々に手離したいところに、何も知らない間抜けなヴェリフェラートの金持ちが大金を叩いてきた。
「楽しめれば、それで良いとは思わないか?どんな形であれ、娯楽は娯楽だ。」
つまり、その奴隷は既に僕に代わって自由の身を手に入れ、脱出済み。そして僕はその子の代わりとしてすぐに奴隷市場で売られ、Fenrir様の息がかかった、新たな買い手…Sebaさんの元に収まった。それで間違いないですね?
「まあ、そんなところだ。」
「…事情は、理解できました。」
終わりのない戦いに、身を投じていたその子のことを思うと、やりきれない。
奴隷として、望まぬ殺しを強いられ、僕だったら、もうとっくに諦めているような気がする。
せめて、自由の身を謳歌して、彼らの手の届かない場所で、幸せに暮らして欲しい。
「だが次の試合で、お前の快進撃もストップだ。血も涙もない凶暴なボス狼に殺される筋書きになっている。」
「そ、それが、僕が接触する必要のある、対戦相手…」
「そう言うことだ。明日のメインイベントのようだぞ。」
「僕が、王族から落ちた奴隷の、替え玉…」
「幸い、性別も背丈も似ているしな。そもそも、同じ人種のようだから、あっちからすれば、あまり問題無いだろう。」
「そう、ですか…?」
「彼らにとっては、お前が非業の死さえ遂げてくれれば、それで万々歳なのだ。」
「悲劇は良い。想像してみろ。王族の生まれで、何不自由なく過ごしてきた青年が、捕虜として捕らえられた挙句に、奴隷として戦わされるのだ。勝ち抜けば、自由が与えられる、その言葉だけを信じて、あと一勝というところまで、辿り着くも、最後の対戦相手に、無残にも喉を喰い千切られて息絶える。こんな筋書きが、聴衆の涙を誘わずにいると思うか?」
「え、縁起でもないこと、言わないでください…」
僕は、つばを飲み込むのに違和感があった。
「それに、どうせ王族の血筋なんて、嘘っぱちに決まっているでしょう?盛り上げるための…何ていうか、いわくつきだ…」
「そうだな。血の味は、お前とまるで、変わるまいよ。」
意味ありげに呟き、舌なめずりをする。
Fenrir様は、人間の味がきっとわかるのだ。
「ですが…何も、僕を同じヴェリフェラートの人に購入させなくても。」
もう少し、配慮して頂いても、良かったのですよ。
僕は、会話に黙って耳を傾け、隣で気まずそうにしている主人に臆することなく、不平を零した。
「ごめんなさい…さぞかし、私のことを下衆…いいえ、悪魔か何かだとお思いになったでしょう…?」
Sebaは、その僕の言葉にはっとして、頭を下げたりなどする。
しかし血も涙もないのは、ヴァイキングでも、ヴェリフェラート民でも無く、我が大神のほうだった。
「配慮だと?俺がお前なんぞの為に?笑わせるな…!お前のみすぼらしい姿は、もうたっぷり笑わせてもらったんだ!」
にやりと牙を晒し、加虐的な妄想を口にする。
「舞台に引き上げられる前に、従順さを与える、ちょっとした調教が加えられていたなら、完璧だったのだが…」
「なっ…なんてことを…」
「じゃあ何だ、お前はヴァイキングの輩に飼われた方がましだと思っているのか?」
憎むのなら、もっと単純な気持ちでそうしたい。そう頷くと、Fenrir様はふと真顔になって、僕の意見に反駁した。
「俺としては、寧ろ逆だったと思っているがな。」
「……。」
まっすぐに、ヴァイキングの方が酷いと。
彼の言葉に、憎悪が滲み出たのが分かった。
一瞬だったが、獣の殺気とは、別種の凄みに、押し黙ってしまう。
「無論、そのような配慮の上で、こいつに購入させた訳じゃないが。」
彼は一度立ち上がって、毛皮をゆるゆると震わせると、尻の毛皮に鼻先を埋めて座りなおす。
「しかし、新たな買い手として、全く不自然に映らない。寧ろ、こいつの存在を誰もがそれらしいと認めるだろう。」
「…こんな物好きな富豪が。ですか?」
「そりゃあ、居たっておかしくは無いだろう。」
「強い方の味方って考え方の、お前と同じ人間は、お前を別の人間として扱うだろう、ということさ。」
「気持ち良いと思うぞ?権力だか金だか知らないが、そういうものを振り翳して、今までは大手を振って出来なかったような、陰湿で淫乱な行為に励むことが出来るのだから。」
「これほど楽しい現実逃避もあるまい。」
にんまりと微笑んで、両腕の間に顔を沈ませる。
是非とも、自分がそのような立場に収まりたいと夢見ているようで、僕は醒めに醒めた。
「……。」
「何だ、その眼は。」
「俺は、お前が共感してくれるものと思っていたが。」
「そ、そんなこと…」
「ああ、一度こうして、される側の気持ちになって、心を入れ替えたと言うのだな。」
「良い経験になったろうと言いたいところだが、決してそんなことは無いと断言してやろう。お前が、誰かを好きに玩んで良い環境に身を置かれたなら、喜んで猟奇的な趣向に金と時間を費やすような奴だと、俺はよくよく知っている。」
「……。」
「しかし、お前に確固たる殺意が芽生えたのであれば、結果として本望だ。」
「お前は、彼らを人間だと思ってはならない。」
「神様だとも、だ。わかるな?」
「分かりました…Fenrir。」
「でも、やっぱりまだ納得が行きません。教えてください。」
「何故、この人を、僕の持ち主に、選んだのですか?」
僕の興味は、自然とSebaの横顔に向いた。
細く長い睫毛が伏せられ、口元には小さく緊張が残っている。
きっと彼も、僕と同じぐらいこの場所に馴染んでいない。
それが、少しだけ救いだった。
Fenrir様は、人間を、価値を見抜いて僕とすることはしない。それは分かっている。
ヴェリフェラートの人間であれば、誰でも良い中で、
それでも、このSebaという青年は、Fenrir様にとって役に立つと見做された。
「理由が、知りたいだと?」
「はい…」
「本当に、ちゃんと餌をやらないと、鈍い頭をしているんだな。飼い主は、そのことをきちんと心に留めておくことを、強く推奨したい。」
「お、お腹、空いていらっしゃるのですね…?こんな時間ですが、すぐに、何か手に入るものを…」
「甘やかすな。昼間にたっぷり喰わせた。」
「ごめんなさい。Fenrir。」
そのやり取りに心地よさを感じている場合では無い。
僕は、至って落ち着き払って、尚も食い下がる。
「それでは、私のご主人様に、直接お伺いしても?」
「……。」
その理由を、知っておくことで、僕は彼と親密になれる気がしたのだ。
願うらくは、彼もまた。
誰かを殺していて欲しいと。
「はあー…」
「そうだな、間違っちゃいない。理由が無ければ…いや何でもない。」
「しかし、まだ分からないか?」
Fenrir様は、冗談のような口調で、恐るべき事実を、口にしたのだ。
「お前が代わる相手が、こいつだからだよ。」




