34. 刺激的な娯楽 3
34. Killing Contents 3
「……違う。」
僕の知っている港町は、もっと明るかった。
市場の終い際には、屋台から漂う湯気の匂いと、焼き魚の焦げた音があったはずだ。
明かりの灯った店先で、売れ残りを手に交渉を始める商人たちの声が、夜の訪れを拒むように響いていた。
酒場から漏れる笑い声。誰かが失敗談を誇張して話して、椅子が軋んで、拍手と野次が飛んだ。
でも、今は――
通りを抜ける風が冷たく、音もなく耳元を通り過ぎていく。
看板の文字は黒ずみ、軒先の火はひとつ、またひとつと静かに消えていった。
人々は俯きながら足早に去っていく。まるで「ここにはもう何もない」とでも言わんばかりに。
急に、僕はこの場所で、誰の名前も、過去の出来事さえも呼び出してはならないような気がした。
これが、僕の憧れていたコンスタンツァなのか――それとも、誰かに奪われてしまった“もう一つの街”なのか。
やっぱり、此処は、どこかおかしい。
どうして、初めから、気が付かなかったのだろう。
当然、そうあるべきだった。
寧ろ、彼らは僕らに対して、とびきり寛大であるとさえ言えたのだ。
移民の土地、そう言って差し支え無かった。
何処から湧いてきたのだろう。
戦地で目にした、膂力に優れた屈強な体格の人影が、大通りを彷徨きはじめる。
教会の内部で見かけた、ヴァイキングの人影を思い出した。
彼らは、待っていたんだ。
彼らを、魔物か何かだと思ったことは一度も無かった
少なくとも、野蛮、いや、狂った、同じ人間であると。
どちらの方が、彼らを異質な存在として捉えるだろう。
実際に戦場に赴き、彼らが鎚を振るい、敵軍の首を跳ね飛ばす様を目の当たりにした僕と、
ある日、海の向こうより渡り、実質的にこの街を支配し始めた彼らに怯える市民では。
これでは、まるで、怪物だ。
港一帯に住む商人たちが、彼らをおとぎ話に現われる吸血鬼のように考えている。
そうだとしても、全く笑えない話では無いほど、辺りは吸い難い瘴気が立ち込めていた。
歯がガチガチと震えてしまいそうで、僕は思わずマントの左翼を手繰り寄せて口元を覆う。
たった今、この街は、本当の支配者のものになった。
敗戦が商業区域に残した、最も深い傷跡はこれだ。
鐘の音が鳴ってからの時間に、僕ら一般市民が出歩くことは許されない。
もし仮に、何かをされても、何も文句は言えないし、誰にも助けては貰えない。
暗がりの中で、大男の輪郭がゆらりとぼやける。
此方を振り返ったのでは無いか、そう考えだけで、脚は竦み、膝は嗤った。
そのまま尻餅を突く前に、僕はすぐさまフードを目深に被り、裏道へと逃げ込んだ。
突如として、戦地に佇むほどの緊張が走る。
「ど、どうします…Fenrir様…」
僕は心の中で、きっといつも自分のことを見守ってくれているであろう我が主に語り掛けた。
彼らの目から逃れつつ、生活に溶け込むのは、無理だ。
僕が情報を得るために取り入りたい相手は、どこの酒場にもいないのでは無いか。
同じヴェリフェラート国民で出逢えるとすれば、それはヴァイキングの為に渋々場所を提供している店主だけだろう。
日中に見かけた、騎士たちによって蹂躙された飲食店が脳裏にちらつく。
反逆した相手とは、言うまでも無く、ヴァイキングらだろう。
発端は、きっと、些細なことに違いない。
夜な夜な、いつ機嫌を損ねてしまうかと怯えながら奉仕をしているのだと思うと、同業者として、居た堪れない。
けれど…取り入るのなら、そこしか、無いか。
他に選択肢など無い。
Fenrir様の仰せの通りに出来ないなんてことは、有り得ないのだから。
――――――――――――――――――――――
『Tavern Dale』
何処でも良いと思って選んだ訳では無いけれど。
尋常でない寒さが僕を早く何処かに入れてやらないと、と急かすのだ。
良い店だ。それは間違いない。窓ガラスが、大きく店内の様子を外へ曝け出している。
問題なのは、室内の熱気で結露しているのか、曇って全然見えないことなのだけれど。
ガタガタと震えだして、終いにはそれを恐怖と錯覚してしまう前に、そして、店前でうろうろしているところを、誰かに見られる前に、飛び込む必要がある。
「もう春だと思ったのに…どうして、こんなに寒いんだ…」
食事をたんまりFenrir様に振舞って貰って、床の上だけれど、何の心配も無く眠らせて貰えて。
僕はようやく、身体の正常な感覚を取り戻しつつあった。
昨晩、傷つけられた、耳から頬にかけての傷に、僕が頬を引きつらせるだけで罅が入ったような違和感がある。鏡で見て見ないことには分からないが、教会で出逢った修道女が、僕を心底苦しそうな表情で介抱してくれたのも、納得だった。
Fenrir様は、化膿していないと仰っていたから、大丈夫だとは思うけれど。
あれ?夢の中での話だったかなあ?
ヴァイキングたちの服装は、僕には到底考えられないようなものだった。
肩に毛皮のベストのようなものを羽織っているだけで、胸当てや籠手の隙間から肌が覗かせているような軽装で、彼らは寒さをまるで感じていないようだった。
北方より進軍を続けて来たと言うから、此処よりも厳しい気候を生き抜いてきたからなのだろうけれど、僕にとっては、分厚い毛皮を纏った狼でなければ、この冬を生き抜くことなんて出来るはずが無いと思う。
これから僕が参加することになる、狼との八百長試合。
上手く行ったら、一体どれくらいの賞金が貰えるだろうか。
もし許されるのであれば、やっぱり厚手のマントを買っても良いですか。
こうして貴方様の手足となって動くために、人相を覆いながら、身体を温める衣装が欲しいです。
そうだなあ、ちょっと奮発して、2重回しになっているやつが欲しい。
足元まで長く垂れたマントに、腰上までのケープを被せている奴だ。
最近、と言っても戦地へ赴く前だけれど、流行り始めていたので、朝早く市場に出掛けることが億劫になり始めていた僕はファッション性よりも、防寒具として気になっていた。
きっと温かいだろう。この様子じゃ、当分春まで長引きそうだし。
ああ、フードに、ファーが着いている奴も良いよな…
ご褒美があれば、頑張れると言うものです。
どうか、僕に与える飴と鞭の振るい方を、学んでください。Fenrir様。
結局、何と言おうと、貴方様はこれから沢山の人々を導いて行かなければならないんだ。政を為すに当たって、僕を実験台にでも使って欲しい。
さあ、今更尻込みなんて、したってしょうがないんだ。
臆病風が吹く前に、僕は、吹雪から逃げ込んできた旅人よろしく、勢いよく扉を開く。
ダンッ…
チリンチリーン
「……。」
入店の鈴の合図に振り返り、
皆が僕のことを注視する。
堂々としていることが大事だ。
何だ、こいつ。
此処が何処で、俺達が何者か、知らないのか?
そんな疑念の視線を全て断ち切り、話しかけやすそうなグループの脇に座るんだ。
その覚悟があった上で、酒場の扉を開いたのだったが。
「え…?」
僕のことなど、誰も見向きもしなかった。
その自分の声さえも、男たちの談笑で掻き消されてしまう。
扉一枚向こう側から、盛り上がっている様子は、分かっていたことではあった。
けれどもこれは…想像以上だ。
このままそっと扉を閉じて後にしても、誰一人気が付かないのではないか。
そう想わせる程、酒場はどんちゃん騒ぎだった。
お客は、思った通り、全員コンスタンツァ港に降り立ったヴァイキングらしい。
辺りからは、知らない歌が響き、また知らない言葉で野次が飛ばされる。
まるで獣の鳴き声みたいだ。
厨房は、見るからにてんやわんやだった。
満席であるだけでも、死に物狂いで料理を回しても追いつかないというのに、彼らが大食漢であることは、火を見るよりも明らかなことだった。
職業病だ、勝手に今注文が届いていない席の数なんかを確かめて、作らなきゃいけない数量と、どの食材に手をつけなきゃならないかを、頭の中で必死に考えてしまっている。
いや…待てよ?
であれば、演じることも、出来なくはないのでは無いか。
マントを入り口の外套掛けに垂らし、腕を捲る。
「すみません…すみませんね、ちょと…」
焼けた脂と、濃い酒と、汗の混ざった匂いが鼻を刺す。
僕は中央のテーブルのすぐ傍を突っ切り、敢えて堂々と厨房のあるカウンターへ向かって行く。
「うおっと…?」
頭上をかすめて飛んだのは、何だ?誰かの投げた骨付き肉の骨かな。
ジョッキの可能性もある。当たったら痛いぞ。
「Hei, frate! Vrei să te lupți cu mine? Dacă câștigi, îți dau un rând de băutură!」
「はい…?」
不意に肩を掴まれたかと思えば、笑いながら僕に腕っぷしを見せつけるような仕草をされる。
何を言っているか分からない、喉の奥を鳴らすようなその言葉に、僕はただ笑って受け流すしかなかった。
少し彼らの口から漏れる匂いを嗅いだだけで喉が焼けそうだ。
気を悪くした様子も無く、彼らは声を上げて飲み干し、雄叫びをあげ、次の杯を手に取る。
店の隅では、誰かが誰かの髭を掴んで笑いながら殴り合っていた。
血が出てもお構いなしに酒をかけあい、次の笑いを誘っている。
それが、彼らの“祝い方”なのだと、誰も咎めない。
今は、そんなことはどうでも良い。
気圧されている場合じゃないんだ。僕が取り入るべきは、こいつらじゃない。
「ごめんなさーい、遅くなっちゃって…!」
僕は、見ず知らずの、店員の一人に声を掛けた。
見るからに疲弊しきっている。反応がはじめ無かった。
「今日も忙しそうだ…!これ、どのテーブルのお客さん?」
「…?あ、あっちの角だけ、ど…」
びくりと肩を震わせたが、声量だけは、きちんと店内での意思疎通に必要なもので答えてくれる。
「了解!注文取るのはこっちに任せて!厨房を頼みますよ。」
「え?あ、あんた…」
「オイ、ソコノ兄チャン!」
「アト3杯ビール持ッテコイ!今スグダ!」
ああ、現地の言葉を喋る奴もいるのか。こいつは話が早くて助かる。
もう、会話をすべき相手も、決まったようなものだ。
「はーい!今すぐに!」
小声で何かを伝えられる空間では無い。代わりに、精一杯の目配せで、この場をやり過ごすことにした。
「早く!お客さん待たせないで!」
「あ、ああ…助かる…」
震える手で酒瓶を渡され、またカウンターの誰かの視線に射竦められたのか、俯いてしまう。
「お礼は後です!まずは今あるもの捌き切りましょう!」
そうだ。常連客としてではなく、もっと適した役が、僕にはあった。
下積み時代を思い出す。
厨房で料理に手をつけさせて貰えるまでに、誰もが通る道だ。
喧騒に身を投じられるのは、僕にとってまたとない現実逃避の機会だった。
身体が勝手に動く。覚えているもんだなあ。
僕らの店では、リフィアが注文を取ってくれたけれど、生憎こんなに繁盛することは結局無かった。
彼女を初めて見かけたのも、こんな、隣の声さえも聞き取るのに苦労する大宴会の席の片隅だったっけ。
騒がしいところは、苦手そうにしていたけれど、実は、けっこうお酒が強い。
一緒に飲むと、気付いたら僕だけが、どろどろに蕩けていて、
緊張を紛らわすためにと浴びたつもりが、
好きだ、と告白したことを、当の本人は覚えていない。
これが二人の馴れ初めに纏わる鉄板だった。
じわりと、鼻先が痒くなった。
やっぱり僕、この仕事、好きだったんだなあ。
いつか、戻れるかなあ。こんな生活に。
無理だよなあ、当たり前だ。Fenrir様と、そう契約したのだから。
分かっている。分かっているけれど。
だけど…
「オイ!コッチダ!早クシロ!!」
「はーい!!ちょっと待ってね…!!」
ああ、同じ人間なのだ。
その人熱に、滑稽なことに、僕は酷く安心させられたのだ。
少なくとも、その一面がある、というだけで、こうして僕らは、同じ空間で息が出来る。
「はーい、おまちどう…さま…?」
怒声の元へ、
両手に3つずつ、ジョッキを掴み、高く掲げてお客の間を縫って進む。
「何だ…あれ…?」
誰かが、馬鹿をやっているみたい。
ああして、寄って集って、笑い物にするのが、楽しいのだ。




