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34. 刺激的な娯楽 2

34. Killing Contents 2


右手で僕より先へと足早に流れていくのが、ドナウ・黒海運河だ。


僕らが満腹になって一休みしている間に、空模様は神より恐ろしく気まぐれに、僕らから雪解けの季節を奪っていた。

雪雲が垂れこめている。

この空模様は、僕らヴェリフェラート市民なら、誰でも知っている。

眠っている間に、ドカ雪が降って、翌朝は雪掻きから始まるんだ。


考えただけで、憂鬱だった。

これから、酷い目に遭う。そうと知っていて、泥濘に足を浸けるのに、気分が落ち込まない筈が無かった。


コンスタンツァ港。

実際にその市場へと足を踏み入れるのは、これが初めてだった。

一介の商人が足を踏み入れることを許される場所では無いからだ。

ここでの取引は、途方もない金額のものになる。個人が購入できるような取引は無い。

船から降ろされたばかりの、かなりのまとまった量の輸入品。


それらは、この港に着いて初めて値札が付けられる。

競りに参加できるのは、国内でそれらの商品を捌き売ることができる、本当に資金がある商人だけだ。


いつかは、こんな場所で取引が出来る程、大きな店を構えたい。

商いに従事する者であれば、一度は訪れてみたいと思う、憧れの土地であった。


だから、こうして、職を失い、手を汚し、神様の使途として、港町を訪れることになるとは。

顔を売ることも、名乗ることもできないのは、やはりもどかしい。


これが、戦前の僕だったら、なんて思うだろう。

考えるまでも無いことだった。きっと、リフィアを一緒に連れて行く。


何も出来ないまま、雰囲気に気圧されて終わるだろう。

二人で顔を見合わせて、あんな大きい船、始めて見た、凄い場所だったねって。

まだ、そんな呑気なことを言っていられる。


余りにも、色々なことがあり過ぎた。

頭を整理する時間が無くて、立て続けに僕に選択を迫ってくれて、心から有難いと思っている。

まだ、面と向き合わずに済んでいる。

戦線で、あとどれくらいで、帰れるだろうか、君に会えるだろうかと、その瞬間を待ち遠しく思う日々と、何ら変わらずにいられることが、どれだけ幸せか。


だから、ひと段落した時…そんな時がやって来るのか、正直分からないけど。その時に襲いかかる実感が堪らなく恐ろしい。

暴利に似たようなものだろう。面と向かわず、のらりくらりと逃げ続けて来た期間が長い程、対峙すべき瞬間に訪れる絶望は、傷跡では言い表せないほど深いものになる。

別離と言う点で、悲しみに深さなんて無いのだ。


ちゃんと向き合いたい。僕が死ぬ前に、その時が来ることを願うばかり。

それでいて、こうして忠実に神のお告げに従い続ける心地よさを、ずっと味わってもいたい。




そんな思いを胸にしていれば、行き交う人々の視線など、気にならなかった。

素晴らしいことだ。僕は、人を殺めた罪の意識からさえも、遠ざかる術を覚えている。


カーン…カーン…カーン…


「あ…」


遥か遠くから響く教会の鐘の音に、僕は振り返った。


「今日の市場は、もうおしまいだ…」


鈍く濁った音色は風に乗り、波止場沿いの街並みへと吸われて行った。

沈みかけた空の下、窓という窓が一斉に閉ざされ、人の流れが急速に途絶えていく。


店仕舞いに駆け込む、客たちを捌いてしまえば、まあ、それが長いんだけど、束の間の休息を得られる。

明日の為に英気を養い、また、その日にあった出来事を語り合う場所に、彼らは集まって行く。

だから僕にとっては、此処からが仕事の本番という気分になる。

鐘の音は、自然と僕に気持ちの切り替えをさせてくれた。


此処でもその事情は変わらない筈。

問題は、その酒場が、コンスタンツァ港に、どれだけあるかだ。


その何れかで、情報を集める必要がある。

怪しい賭場が開かれている場所が何処なのか、聞き出すことから始めよう。

此処までは、僕の考えで間違いないとFenrir様も仰って下さった。



鐘の音の反響が止むまで、暫しその方角を振り返って、歩みを止める。


Fenrir様のような、狼の耳には、これがどれだけ長く響くのだろう。

部屋を出る頃には、まだ眠っていましたけれど。

場所が分かったら、呼んでくれ、ですって。


そんな。遠吠えでも、したら良いのですかね。

いつでも見守ってくださっているのは、知っていますから、その命令については、特段何の意味も為さないだろうとは知っていますけれど。


一緒に眠らせて頂ける日が来ると良いな。

床で雑魚寝するのは、全然構いませんけれど、フードを被って外套をきつく巻き付けても、やっぱり寒くて堪らない。

温もりが欲しい。その艶やかな毛皮に触れたい。

親密な関係とは、貴方が一番望んでいないものであるのは、重々承知の上で、そんな野望を密やかに抱いています。


「よし…」


マントの留め具を掴んで、ぎゅっと首元に寄せる。

早鐘を打つ心臓に、この空気は冷たすぎて痛かった。


とにかく、まずは常連の顔をして潜り込むことだ。知らない人達の会話に入り込むのには、慣れている。

店仕舞いを終えて間もなくまでの、この僅かな時間に、同業者らが、大声で会話しながら歩く流れが、何処かにあるだろう。


薄明かりの中、肩を揺らしながら歩く同業者たちの顔ぶれを、窓から眺めていれば、何となくでも、その日にあったことが分かる。

彼らの衣の泥の付き方と、背負う麻袋の容量。今日の商いが上手くいったことが、口ぶりからも伝わってくるものだ。


こういう者たちの足取りが、最も信頼できる“地図”になる。

きっとその先に、行きつけの酒場があるはずだ。


これから行く道へと向き直って、僕は短く息を吐く。


「……?」


ぞわりと、首筋を長い舌で舐められるような悪寒が走った。




何だ…この違和感?




急に、先までの賑わっていた空気が、変わった。

もしや、あれって。



「Fenrir様…」



「思ったよりも、僕らが向かう先は、貴方にとって優しくは無いようです。」



外を歩いている人間の様子が、違う。



どうやら、鐘の音が、合図だったらしい。


「ですが…」


「当たり、みたいですね。」




確かなことは、此処から先、此れからの時間、戦前の活況は、今のそれとはかけ離れているであろうことだけだった。





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