3.雪化粧
3. Blanco
思いがけぬ一瞥により、掲げかけた尾から、ゆっくりと力が抜けていくのが分かる。
“あ、ああ……”
別段、絶望するほどのことでは無いだろう。
予感は、初めからあったのだ。
しかし、こうして目の当たりにすると、動揺を隠せない。
俺は……大狼では、無くなってしまったのだ。
そう、艶やかな純白を纏った彼女は、俺よりも、僅かに一回り小さくて、それは恐らく、異性にしてはしっかりとした体格を備えていると理解できた。
鑑みれば、この短時間だけでも、世界はやけに、俺を一匹の、ごく普通の狼として扱おうとしてきた。
周囲を見渡せば、白樺林が、俺に対して、こんなにも威圧的に立ち並ぶはずがない。
枝先の被る雪持ちを、毛皮が擦って払い落とすような、在りし日の情緒が湧いてこないのは、俺が本当に縮んでしまったせいだったのだ。
山陵の雪原を泳ぐようにして進む体験も、実は俺が今まで、踝までしか埋まらぬような雪量だっただけと考えれば、あんなにも苦労させられたのも、なんだか滑稽に思えて来る。
それらがすべて、俺がこれから馴染まなくてはならない世界での日常。
いいや、歓迎すべき世界だ。
それを悟ることが出来ただけでも、収穫だと思うことにしよう。
誰かと接触すれば、遅かれ早かれ、否応なしに理解できただろうが。
―ただ、或いは。
或いは、彼女もまた、同類である、という可能性を考えるのは、面白くないだろうか。
いや、同類であることは、疑いようが無いのであるが。
彼女もまた、大狼である。俺は到頭、自分とは別個の意思を持った同胞に出会えたのだ。
そんな薄い線に妄想を掻き立てられるのは。
…流石に、彼女に、失礼か。
“……。”
大き過ぎたショックから逃避しようとする余り、俺は在りもしない妄執に捕らわれかけた。
釘付けにさせられていた俺は、慌てて半開きの口をしまい込み、視線をその雌狼から逸らす。
“怪我を…しているな。”
注意深く観察するまでも無かった。
右後ろ脚を、自分の視線から隠れるように立ち尽くしているが、その背後に伸びる黒いシミは隠せていない。
まだ、衰弱の様子は無く、自力で移動できるようではあるが。
まともに走れまい。自分の居場所を知らしめるような俺の移動に合わせて、一切の動きを見せなかったというのは、そういうことだ。
良くない兆候であることは、言うまでも無かった。
俺が危惧していた通りだ。
彼女は足手纏いになる。
この接触を足掛かりとして、この世界の手掛かりを得ることは難しい。
“どこから来た…?”
そもそもが、愚問だった。
では彼女が、息災なく、元気な雌狼であったなら。
一緒に暫く行動を共にしていたか?
いいや、決してそんなことにはなるまい。
俺に必要なのは、溶け込むのに障壁の少ない、大勢の狼の群れだ。
次の進路が定まり、必要がなくなれば、すぐに姿を晦ますことが可能な、隠れ蓑の群衆。
“元居た群れは…?”
それを彼女から聞き出すのに、必要な行動とは何だ。
俺が一歩、威圧的に踏み出すと、彼女は極めて狼的に、恐怖の感情を耳に示し、姿勢を低く構えようとする。
“あっ……”
だが、雪に埋まった後ろ足には、些か酷な、俊敏な動作であったと見える。彼女はそれだけでバランスを崩してしまったのだ。
前足を肘まで崩し、慌てて立ち上がろうとする姿に、俺までもが慌てふためいている。
この場から、逃げようとしているのだろうか。
一瞬、そのように受け取るべきか迷った。
分からない。俺はいつだって、狼同士の作法に乏しい。
そうしなければならないと感じさせるつもりは無かったのに。
少なくともこの場で悔やんだのは、俺は今までの邂逅から、何一つ学んで来なかったということだ。
“……。”
緊張で張り詰めた尾を翳し、どうにか立ち上がった彼女は、俺をどうにか視線の端でとらえることが出来るぐらいまで顔を背け、晒すようにして、身体の側面をこちらに向けている。
意地でも、右足の傷は見せない、と。
隠し通そうとするのは極めて自然な態度だ。お前が狼でなければ、容易く格好の獲物と見定められる。
毛皮の色味は、雪のような冷たさよりも、温かみがあると思った。
青の世界においても、決して染まることはあるまい。
そして、俺は悟った。
彼女は、無抵抗であることを示そうとしているのでは無い。
俺に、自分の匂いを、挨拶として嗅がせようとしているのだと。
従うのが良いと思った。訝しまれるだけなら、まだ良いが。これ以上、彼女の瞳に、怯えの表情を見出すのは耐えられなかったから。
余りにも、ぎこちないが。
俺は、今度は敵意を示すまいと、ゆっくりと、彼女に、尻の方から接近する。
“……。”
すん、すんと、息を吸い込み、それだけで、俺は、数刻前から張り詰めていた神経の糸が緩んだのが分かった。安心させられてしまったのだ。
鼻先が毛皮を擦るぐらいまで近づけ、何度も、何度も確かめてしまう。
彼女は、狼だ。それだけで、こんなに嬉しくて堪らない。
“ここから東に、三日走ったところです。”
“え……?”
ふいに挙げられた声で、我に返る。
うっとりと目を細めていた自分が馬鹿らしい。
しかし危うく、俊敏に後退る愚行に走るところだった。
唐突に、彼女が狼の言葉を発したことに、
その言葉の意味を理解する以前の問題として、
俺は酷く驚き、
そして必要以上に心を搔き乱されている
“そこに、私が逸れた、群れ仲間がいます…”
“……?”
彼女は、従順に、俺の質問に答えただけ。そうだっただろうか。
いいや、そうじゃない。
聡明な彼女は…その実、俺が未熟で、見え透ていただけか。
彼女は俺の尻尾から、あっさりと腹積もりを見透かし、自分と馴れ合いを続ける意思が無いと、鋭敏に感じ取ってしまったのだ。
“貴方は?貴方は何処から…来たのでしょうか?”
此処の者では無いこともまた、見え透いているだろう。
“北部にある山脈の向こうから渡って来た。…俺もお前と同じ、逸れものだ。”
“え…?あの山を越えて…?”
“…そ、そうだ。”
でっち上げの嘘だと、気付かれただろうか。
狼とて、越えられる壁では無いとしたら、容易には信じがたいかも知れない。
それだったら、近場の他の群れだと仄めかした方が賢明だったか。
だが、それで、その群れに案内して欲しいなどと話を広げられれば、面倒なことに…
いや、待て。
どうして俺は、この雌狼のこれからを、案じているのだ。
“…だったら、心配はいりませんね。”
“……何?”
“きっと貴方なら、すぐに合流できると思います。”
…違う、違うのだ。
“皆、良い狼たちです。きっと、受け入れてくれますよ。”
どうして俺の思った通りに、ことを運ばせようとする。
“だから、もし、彼らに会えたら、伝えて貰えませんか?”
“私は、元気にやっていますって。”
そう言って、彼女は屈託なく笑ったのだ。
“……。”
つまり、彼女の怪我の理由は、彼らとの対立が故では無い、と?
それでも、自分から、群れを離れることを決めたのだ。
どうしてだ?
その負傷は、そんなにも致命的だと言うのか。
足手纏いになるぐらいなら、群れの生存を願っての決断であるとすれば。
彼女の俺に対しての態度にも、幾らか合点がいく。
“わ、分かった。”
“東の方角、だな。”
“ええ、そこが、皆の縄張りです。”
“……。”
“貴重な情報提供、感謝する。”
“その群れに、会おうと思う。”
“だが、その群れに、お前のことを伝えるには、手土産が必要だ。”
“だから…”
“だから、お前の匂いを、分けてくれるか?”
見下ろし、鼻先で愛撫するだけであったはずが。
鼻先を、毛皮に埋めるだけじゃ、足りなかった。
俺は、彼女と同じ方向を向くと、後ろから、胴の毛皮がゆっくりと擦れあうように歩いた。
同じ大きさの狼が、こうして触れあっている。
毛皮が優しく撫でられる感覚に、彼女が抵抗せず、その所作を受け入れている事実に、
俺はどうにか、取り乱さずに済んだ。
“十分だ。”
“…ありがとう。”
“いいえ、こちらこそ。”
“ありがとうございます。”
俺は、次に彼女が言葉を発する前に、
或いは、彼女もまた、自分の匂いを嗅ぎたいと申し出る前に。
親切に指し示された方角とは真反対であることにも気づかず、
その場から逃げるように、走り出していたのだった。




