32. 二の足踏みのノルニル
32. Norn the Wavy
ナイフの切っ先で引っ掻いただけのような、粗野な傷跡の集まり。
でも、これは確かに、文字だ。
そして、見覚えがある。
僕が市場で買った酒のラベルにも、同じような模様があった。
「↑」
一つだけ、これだけ、覚えている。
ようやく、繋がった。
気が動転して、余りよく覚えていなかったけれど、Fenrir様が、仰っていた気がする。
ヴァイキングの兵士が、戦の前に己を鼓舞するために飲む、弱毒が混じった強い酒だと。
「ええっと、読み上げ、ますね…」
勿論、一文字だって読めない。
だが、伝える術は、教わった。
最大で、3分割せよ。そう教えて下さった。
そうすれば、この文字は、直線の傾きだけで、表現ができる。
「ええと…右、縦、左…縦。」
これで↑を伝える為に、/|\と、|が示される。
同じ要領で、すべての文字を、解体して行けば良い。
「行きます、1行目…」
「縦、左、縦、左、縦…縦、左、右、縦、左、右…縦、左、右、縦、縦、縦…」
「2行目…左、縦、縦…左…左…」
掠れて、その先があるのか、自信が無い。
「終わりです…これで…。」
「……。」
これが、ヴァイキングが操る文字であろうことは、明らかだった。
何を、意味するのだろう。
僕は額に浮かんだ変な汗をぬぐい、その手で口元を覆い思案する。
Fenrir様は、どうして、この銘文の存在を確かめたがったのだろう。
そして、その内容を、僕は知るべき、なのだろうか…?
だが、これで、はっきりした。
この建物は、やはり彼らの息がかかっている。
そして、この二つの文章が、Fenrir様の力になる。
帰投しよう。
取り敢えず、Fenrir様の欲しい情報は手に入った。
また新たな指示があるだろうし、合流した方が良い。
尤も、僕の方は、今何処に彼がいるのか、知らないのだけれど。
また、市場の方に繰り出して、屋根を見上げれば、目につくところから、僕を見降ろして下さっているのに違いない。
“バウゥッ…!!ワウゥ!グルルルルゥゥゥゥッ!!”
「……!?」
突如鳴り響く、けたたましい獣の吠え声。
そこの門からだ。
今のは…Fenrir様?
どうして、そんなに大きな声をあげるのですか?
でも近くにいらっしゃるみたいだ。すぐに、馳せ参じなくては。
壁に手を付き、精いっぱい左足に身体を預けて、半ば片足で飛び跳ねるようにして、移動を始めた。
その、矢先だった。
角で鉢合わせたのは、Fenrir様だけでは無かった。
「な、なんだっ、お前…!!」
お、追われている…!?
「F、Fenrir…これは一体…?」
「急用が出来た。」
彼は小声で囁き、ニタリと笑った。
「は……?」
「後は任せたぞ。Siriki。」
「そ、そんなっ…!?」
「じゃあな。」
「ちょっ…待って…!」
彼は教会の裏手へ、瞬く間に姿を消してしまった。
まるで、丁度よいからこいつらの相手を頼むと言わんばかりだ。
僕の逃げ足が、奪われてしまっているのを良いことに。
如何にも重たそうな鎧を着こんだ相手に、負傷していなければまだ、人込みの中に逃げ果せることもできたかも知れないのに。
「おい、そこの者、止まれ…!!」
最悪だ。とんだ巻き添えを喰らってしまったみたいだぞ。
吠え立てた獣の声を怪しみ追ってみれば、それよりもっと怪しい人影があるでは無いか。
騎士たちの標的は、容易く僕の方へと向けられた。
「違うんです…体調が悪かったから、日陰で休ませて貰っていただけで…決して怪しいものじゃ…」
二人が剣を抜いたのを見て、あっさりと僕は、降伏を選んだ。
簡単に、切り捨てられる。こいつらの中世は、ヴァイキングにある、慈悲の心は無い。
ひょっとして、この兜を外したら、僕が戦線で見た、あの髭もじゃの顔が出て来るのでは無いか、本気でそう思ったほどだ。
とにかく、Fenrir様が助けて下さらないというのなら、もう足掻いても意味が無い。
「また都合よく放り出された気がする…」
此処から、また夜まで一人でどうにか生き抜かないと行けないのか。
「何も盗んじゃいない!どうか…どうか、お助けを…!」
僕は、情けない声で叫んで、両手を上げるのだった。
右脚首から崩れかけたのを、脱走しようと身を捩ったと取られてから、彼らの扱いは更に辛辣になった。
顔面を、鋼鉄の拳で殴りつけられ、あっという間に僕は伸びてしまった。
「さっさと歩け…!少しでも抵抗したら、この場で切り捨てるからなっ!」
片方の騎士に縄で縛り上げられた両腕を背後で掴まれ、もう一人に、首元に巻かれた縄の端が持たれた状態で、礼拝堂の中央を歩かされる。
「あぁっ…う、ぐ…」
無抵抗ですと示すべく、彼らの歩調に合わせるので精いっぱいだ。
どちらの結び目も、きつすぎて、まともに呼吸をさせて貰えない。
空腹と、失血も相俟って、僕は本当に眩暈を抑えられなくなっていた。
けど、こんな状況でも、僕はFenrir様が、自分を内部へ通してくれる為に、一芝居買ってくれたのだと信じよう。
ひっ捕らえられた不審者に、じっくり見物させて貰える余裕なんてある筈も無かったが、僕は腫れた瞼を目いっぱいに開き、内装を見渡す。
外からの視界を遮るように、窓は無かった。
上部に開けられた明り取りから差し込む光と、数本の蝋燭だけが、内部を照らしている。
入り口をくぐってすぐの柱には、二つ、人間とも、動物とも取れないような、不気味なマスクが括りつけられている。
屋根の上に鎮座していた頭と言い、彼らは別の何かの存在を、身近に置きたがっているような印象を抱いた。
2階には、建物の壁に沿って囲われた回廊があった。木板をX字に交差させた柵が並んでいて、その奥で、誰かが入場者を見降ろしている。
「……!」
フードを被っていても、下からなら、その人種が、僕と違うことは分かった。
やっぱり、そうだ。
此処は、僕の知っている、カトリックが集まる教会では無い。
殺してやる。
達成されるはずも無い憎しみが、僕の中で疼いた。
決して、信心深い方では無かったが、それでも、こうして、自分の住む国が、蹂躙される様を目の当たりにすると、こうしてのうのうと特権を享受している彼らに対して、自然と妬ましい感情が湧いて来る。
いつだって、僕が行動を起こせるのは、そういった、醜い動機からだった。
どうして、僕だけ。
「……。」
そして、最奥。
やはり十字架が高々と掲げられた、礼拝堂がある。
燭台の数々と、説教の為に置かれた演説台の向こうで、誰かが祈っていた。
「騒がしいですね…一体、どうされたのですか…?」
意外だった。
此方を振り返った、修道女と思しき女性は、所謂この国の何処にでもいそうな、風貌をしていたのだ。
少なくとも、喋り方にも、外国人という感じはしない。
「この教会を嗅ぎまわっていた怪しい奴が居た。きっと奴らの手先だろう。」
奴ら…?
やっぱり、この騎士たちは、ヴェリフェラートの為に生きていない。
「…真っ青じゃありませんか。大丈夫ですか?貴方…」
昨日から、まともな休息を得られていない僕の様子を見て、その修道女は口を押えた。
「慈悲をくれてやる必要は無いよ。少なくとも、あんたを殺そうとしている側の、人間なんだからな。」
「ち、ちが…」
声を発しただけで、後頭部を殴られ、僕は地面に膝を追って伏せる。
「持ち物は…これだけでした。」
目の前に、どさりと、身ぐるみ剝がされた所持品が投げ捨てられる。
未だに保身用に携行していた包丁と、狼の食欲を満たすのにだいぶ使わされた財布袋。それから、もう裾が擦り切れている外套。それだけ…
「……。」
その裏ポケットから、何かがひらりと舞って床を滑った。
……これは、
羊皮紙?
そんなもの、携帯していた記憶は無いけれど…
騎士の一人が、それを拾い上げ、兜を外して
「きっと、指令か何かを記した、メモだろう。読めやしねえだろうが…」
「一つは…何だ、この国の文字で書かれているな。」
「in the evening at St. Olav's Mass (オーラヴ2世のミサの夕刻に)」
「え…」
「そんで、もう一つは…」
「Ave Maria (アヴェ・マリア)。」
「……!?」
修道女の顔つきが、一瞬にして変わった。
「なんだ?これだけだ。何かの暗号か…」
「まさか…?」
な、何だ…?
「貴方たち、この方の拘束を解きなさい!」
「何をしているの?今すぐに!」
それまでの態度が、急に威圧的なそれに変わった。
騎士たちは、甲冑の中に表情を読み取ることは出来ずとも、戸惑いを隠せていない。
「し、しかし…俺たちとしては、教父様に引き渡さねえと、務めにならぬのだが…」
「私から、お伝えしておきます。それで、何が不満だと言うのですか?」
「し、しかし……」
「この方は、我々の同志なのです。受け入れるべきかどうかは、我々が決めます。」
「……。」
「どうか、貴方がたは、貴方がたの、務めをお果たしになって下さい。」
「さあ、お行きなさい!早く!」
彼らは、仕方が無いなと言った様子で、僕の拘束を解く。
そして、外套を翻すと、持ち場の入り口の外へと、戻って行ったのだった。
一体、何が起こっている…?
「ようこそ、おいで下さいました。」
呆然とその場に跪いていると、肩に彼女の手が触れた。
「私は、アーデリン…このボルグンド・スターヴ教会で、修道女を務めさせて頂いております。」
「大丈夫。この国に住む貴方にとって、なじみの深い主が、此処を見守って下さっています。」
「お名前を、お聞かせいただけますか?」
「シ、シリキ…です…」
「良かった…」
「お待ちしておりました、シリキさん。」
「我が同志よ。」
「我々は、貴方の味方でございます。」




