31. 市場荒らし 2
31. Trash the Port Marché 2
「この辺りの、土地勘はあるのか?」
「ええ、まあ…戦前は、足繁く通っていた所ではあります。」
「週に1回ぐらい。でも、港が見える中心地まで深くは、入り込んだことは、正直殆ど無いです。」
「その挙動不審な様子からして、そうだろうな。」
実際、周囲の人気の多さに、僕はのっけから驚かされていた。
大河の流れに持っていかれるのを恐れるように、足を踏み入れるのを日陰で躊躇っている。
何時かを知らせる鐘の音を皮切りに、一斉に大通りが人で埋め尽くされ、行く先が見えない。
自分が暮らしていた第3、4管区の華やかしい商店街でさえ、早朝から人でごった返すような賑わいは見せなかった。
「仕入れ先は、もっと西区…第4管区との境界辺りでした。お店で使うお酒とかも、そこの方が、安定して手に入りやすかった。」
「もう、顔は出せないでしょうけどね…」
「俺は、酒は嫌いだ。必要無い。」
片足に重心をかけられない自分からすると、あまり人と肩がぶつかるようなことはしたくはなかったが、
これだけの人混みなら、誰かに後を付けられたり、人相を確かめられるようなこともあるまい。
「さっき、鐘の音の鳴った建物があったな、案内しろ。」
「鐘の音…ですか?何処かな…教会だと、思います。承知しました。」
市場の始まりを知らせる、朝の鐘の音だろう。まだ夢の中だったように思ったが、薄ぼんやりと聞こえた覚えがある。
建物自体は、高さがあるだろうから、一度空を見渡せる広い通りに出てしまえば、すぐに方角を確かめられるだろうけど…
この通りでは、それは無理そうだ。
スムーズに案内が出来ないと、Fenrir様のご機嫌を損ねてしまいそうだ。
「あれ…朝食は、よろしいのですか?」
「おお、そうだった!先にそっちだな。」
「下見はしてきたのだが…もう少しゆっくり、見て回りたい。路地の反対側の通りも見せろ、Siriki。」
「ええ、勿論…」
狼は、人間の世界を歩くことを、楽しもうとしている。
すぐに言葉少な気に姿を消すので、この世界、少なくともこの国との干渉は、最小限に留めようとしておられるのかと思ったが、どうやら今回は、僕と行動を共にしてまで達成したい用事があるらしい。
当然、幾ら人混みの中であるにしても、彼が通りを闊歩するには、この街は狭すぎる。
目線をちょっとでも下に向けたなら、自分よりも遥かに体格の優れた狼の、がっしりとした背中の毛並みに、人々は叫び声をあげることだろう。
野犬が食べ物を漁りに、紛れ込んできた、などと、ちょっとした騒ぎになりかねない。
それすらも見過ごされる程、この土地は超越的な存在を見飽きていない。
だから、一緒に歩くと言っても、その構図は、正しく人間と神様のそれだった。
「今度は、あっちですか…?」
僕は、行き交う群衆に揉まれながら、逆光を手のひらで遮り、空を見上げる。
反対側に立ち並ぶ商店街、その屋根の上から、狼が此方を見降ろしている。
耳を凛々しくお立てになって、まるで高峰の頂より縄張り全土を見降ろすボスオオカミのようだ。
彼の佇む屋根の向かい側、そこい陳列されている喰い物を物色せよとの仰せだ。
「はいはい、わかりました…」
ちょっと、表情が険しくなった気がする。
はい、は1回ですよね。
既に5軒のはしご。もう、両手に抱えているだけでも、結構な量です。
この季節には決して手に入らないであろうリンゴ、はちみつがべっとりとかけられたパン、きっと貴方の鼻には、強烈に媚びて来るのでしょうね。
深紅の果実は雪で色褪せた色彩の中で、ことさらに艶めいていた。僕も食べたい。
そして、朝食と呼ぶには余りにも重たすぎるが、多分貴方のメインディッシュであろう、豚の丸焼き。
「はい…2つ…え?持てるかどうかじゃないんです。良いから下さい…」
顎下から貫かれたフックが外されるのを待つ間、ちらと後ろを振り返る。
「あれ…いない…」
ってことは、こっち側の通りにいるな…
また通りの反対側まで泳いで、Fenrir様の欲しいものを探さなきゃ。
山羊の鳴き声と共に、計り売りの声が重なって響く。
燻製肉と香辛料の混じった、胃を刺激する匂いが鼻を擽って、僕はもうふらふらだった。
「はいよっ、まいどありーっ!」
どうか、御慈悲を。
もう、指が千切れる。
「遅いぞ、Siriki。お前がとろいので、空腹は更に増した。」
「こ、これでも満腹になるか、怪しいと仰るのですか…?」
路地裏まで帰って来て、僕はがっくりと膝を折る。
こんなところでする食事じゃない。でもFenrir様を待たせて宿を探すのは、もっと無理な話だと知っていた。
僕の取り分は、無い。初めから知っていましたとも。
「金は、あとどれくらいある。」
「…こんな生活してたら、あと2,3日で底を尽きます。」
「ふうん。まあ、十分だろう。」
僕のお金で、鱈腹喰って、それで捨てられたりしませんよね?
そんな神様の悪戯の為に、仕方なかったとは言え、罪の無い人を殺して、心当たりの無い罪で何度も命を脅かされるなんて。
神を語る狼に、まんまと騙された。そんな寓話が僕の頭の中で読み聞かされる。
「あの…興味本位で、聞いても良いですか?Fenrir。」
「なんだ…食事の邪魔にならぬようにすることを、今後覚えるのなら、許してやろう。」
犬系特有の、牙を突き立てた食べ物を、何度か頭を振り、咥えなおして飲み込む仕草を眺めながら、自分も口にパンを運ぶ。
「神様も、やっぱり、食べないと、生きて行けないのでしょうか?」
「……。」
Fenrir様は、目を瞬かせ、溜飲の所作を停止する。
そんなことを、尋ねるのかと、顔に書いてある。
「あ、あの…Fenrir様の存在が、神と呼ぶ以外に考えられないことは、もう疑いようがありません!ただ、神様の世界でも、人間と同じように、飲み食いをするのかな、と…その…」
「お前、何で俺の喰い物に手を出している。」
「え……?」
「その手に持っている奴だっ!随分と思い上がった行動だな!」
「はぃっ…すみませ…」
1個だけなら、許されるかと思ったのだ。
やっぱり、駄目だったか。
すっごい、美味しかったのに。
一口、味覚を刺激してしまったばっかりに、猛烈な空腹が僕を襲った。
「全く…お前には、きちんと狼の構造を学んで貰わなくてはならないな。」
「群れの位が高いものが、満足するまで、喰らう権利を有するのだ。お前のような下層はお零れにありつけるまで待つんだ。当然だろう?」
「も、申し訳ございません…」
お零れなんて、端から期待しない方が良さそうだ。
「いいや、前言撤回だ。お前のような奴を、群れ仲間のように扱うこと自体が、屈辱的だ。そんなことをしてやる理由が、一体どこにある!?この不届き者め…」
「は、はい……」
自分で言っておいて、そんな憤慨しなくても…
こんなに機嫌が悪くなるなんて。今度から、絶対にFenrir様のお食事中に話しかけるのは止めようと思った。
「…神様というのはな、確かに本来は飲み食いしなくても、生き永らえることが出来るのが普通だ。」
……?
「だが、その代わりに、そいつらを生かす糧となるものが必要なのだ。何かわかるか?」
「か、糧…ですか?」
Fenrir様は、口元をべろりと舐め、再び豚の丸焼きの背中に開いた噛み跡を広げる。
結局、教えては下さるのですね。
「見当もつきません…食べ物で無いとなると、魔法のような源になるでしょうか。」
「まあ、そんなに外れていない。」
「端的に言えば、’信仰’ だ。」
「信仰…ですか?」
神を、神たらしめるのは、人間によるそれ以外に在り得ない。
人々から必要とされ、また崇められる限りは、神は年を取ることも無く、その力を彼らの為に振い続けることが出来るのだ。
「逆に言えば、俺はこの世界の新入りな訳でな。」
「信奉者が少ないのだ。」
「とてもそれだけでは、喰って行かれない。」
「だから、お前がこれ以上、財布を軽くしたくなかったら、同胞を探すことだ。お前と同じか、それ以上の献身を厭わないような人間が増えれば増える程、お前の負担は減り…俺がお前にしてやれることも増えていく。」
「なるほど…」
神様としての力を増す、か…
「実際、お前と接触して以降、だいぶ動きやすい状況には、なりつつある。」
「そう…なんですか?」
「この国の混沌具合は、凄まじい…良い隠れ蓑を見つけることが出来たな。此処なら、俺も幾らか暴れることが出来る。」
隠れる…誰からだろうと、聞くまでも無い。
僕を追っている、謎の武装集団のことだ。彼らは、Fenrir様をやはり追っている。
今までは痕跡を残さぬよう立ち回って来たけれど、これからは、反撃に出られるのですね。
「的外れだ。Siriki。」
「え……?」
「俺が戦うべき相手は、もっと大きい。」
「空から見下ろしても、俺だと分からぬような、都合の良い縄張りが必要だった。」
「分からないか?他にも、神様が…同業者がいるんだ。」
「神様…が…?」
僕は、一口のパンに味を占めた唾を、ごくりと飲み込んだ。
ヴェリフェラートに根付いた、信仰。
キリスト教の正教会に属する独立教会が、此処にもある。
しかしそれも、僕が宿を探していた13管区。此処で言う、同業者とは、違うだろう。
「ヴァイキングが信仰する神様は、貴方だけでは無いのですか!?」
「と言うか、俺はそいつらが有用として崇める候補にすら上がっていない。俺は確かに、そいつらの崇める神様と同じ出身だが、まだまだ無名なんだよ。」
「北欧神話、そう呼ばれている。」
「俺はそこの神々と、同じか、それ以上の力を使える。」
「…だから、此処で使っても、他の神様に、怪しまれない、と。」
「段々と判って来たようだな。勿論、俺自身の存在を拠り所とする力に頼るのが、一番好ましいんだが、そいつを誇示するのは、もっと後の話だ。」
「…探している奴がいる。」
Fenrir様は、声を潜めて、僕の背後だろうか、通りの群衆を睨んでいた。
「お前、俺以外に狼を見なかったか?」
「Fenrir…以外の狼を、ですか?」
「他にも、狼の神様が、いらっしゃるのですか。」
「馬鹿、そんなんじゃない。」
「あ、違うのですね…。」
「でも、いいえ。見たことは…」
「いや…足跡、だけなら、あったかも知れません。」
「ほう…?いつだ?」
「13区で、宿を探していた時です。路地に、複数の足跡があったので、てっきりFenrirかな、と思っていたのですが…」
空から僕の居場所を突き止めた貴方でないのなら、探している狼によるものかも知れません。
「やはり、あいつも此処へ来ていたか。予想通りと言うべきか。」
「その方も…Fenrirの同志なのですか?」
「全然違うが。まあ、協力者ぐらいに言っておこう。」
「ふぅ…喰った喰った。」
「のんびり夕方まで、昼寝したいところだが、こんな居心地の悪い路地では、惰眠も捗らぬな。」
「先に、雑用を済ませて置くとしよう。」
「さっき言ったな。鐘の音を鳴らしていた、教会。お前もさっき、見ただろう。」
「はい…流石に、分かりました。見かけない形だったので。」
確かに、一番高い屋根の下に、黒塗りの鐘が見えた。
本来、その位置を知らせる為に、他の建物よりも高く作られるのが、教会や関所門だったが、
その中でも、ひと際異彩を放っていたので、人混みの中でも、十分に見て取ることができた。
梁と柱を組み合わせた3段にものぼる高屋根。表面の瓦の様子が、少し違った。あれは、瓦の色ではない。タールのようなもので、黒く塗りつぶされていた。
「ヴァイキングによる、建築だろう。」
「移住者による誇示と拠り所…差し詰め、教会と言ったところか。」
「あれが、教会だなんて…」
北欧神話における主神とは、どのような方ですか?
貴方は、それに楯突こうとしている、野心ある神様であると?
いや、違う。
復讐を、果たそうとしている。
口には出さなくても、違いますか?
市場の始まりを知らせる鐘が、ヴァイキングを象徴する建物から鳴らされる。
僕が思っているよりも、この国の侵食は、深く、そして表層に見えるぐらいまで入り込んでいるらしい。




