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31. 市場荒らし

31. Trash the Port Marché 


「寒い…」


思わず、そんな弱音が、漏れてしまった。

歯はがちがちと鳴りやまず、まともな言葉として紡がれてはいなかったけれど。


吹き曝しの屋根上より、幾らかましかに思えたが、路地裏を吹き荒ぶ風は、そんな僕を嘲笑うかのように忙しなく駆けて行く。


外套を纏うこともできずに冷え切ってしまった指先はおろか、身体中の関節が軋んで動かない。

ならば、痛覚は幾らか鈍くなっている筈だった。

それなのに、今になって、耳の辺りから、唇まで伸びる3本の傷跡が、じくじくと痛む。


まだ、流血しているのかと思うほどだ。自分の顔が、どれだけ醜く腫れあがっているのか、見てみたい。


右脚に至っては、地上への着地で、短い悲鳴を上げる程に悪化していた。

当面は、引き摺って歩くことしか、出来ないだろう。


朝まで、耐えろ。

もう少しだ。

そうすれば、あっという間に底をつきかけた、なけなしの報酬で、食糧と寝床が手に入る。


Fenrir様のお考えを窺おう。

この方は、お忙しい。また僕に命令を下し、姿を消すだろう。


そうしたなら、夜まで、また休める筈だ。

きっと、回復する。

どん底のような体調からは、抜け出せるはずだ。


でも、幾ら膝を抱えて、目を閉じて見ても、震えが収まらない。

身体は休んでも、少しも良い方に向かっている気がしない。


温もりが欲しかった。

揺らぐ焔先は、ぼんやりと眺めることで、苦痛と向き合う時間を減らすだろう。

火のようで無くても良い。

自分の代わりに、


「……。」


隣では、一定の距離を取って、Fenrir様が眠っている。

段々と輪郭を取り戻した世界の中でも、狼で在ることを見逃してしまいそうだ。丸まった大きな毛皮は、すうすうと膨らんでは元の大きさに戻ることで、生き物であることを主張する。


ぶるぶると震える僕の手を、決して貴方は毛皮に触れさせようとしてくれない。

貴方はお許しにならない。

もしそんなことをすれば、忽ちに覚醒して、気怠そうに首を振り、何処かへ姿を消してしまうだろう。



さっき、ちらとだけ見せてくれた優しさを、

もう一度、見せては下さいませんか。


そんなものは、必要ないと、心にもない覚悟を見せたからですか。

貴方は、きっと丸まった毛皮の中で、突いて来られるかだけを見ていれば良いと嘯いた僕の、被害者ぶった様子に呆れている。


ふと、思った。

僕はどのように導かれ、何者になるのだろう。

ヴァイキングが齎した、Fenrir様を崇める、新興宗教の教祖かな。

或いは、どんな汚れ仕事も忠実に熟す、神出鬼没の殺人鬼?

―それとも、このまま。


このまま路地裏で浮浪者と同じように、蹲って朝を待つだけの日々だとしても。

この方と一緒に最後まで足掻くだろうか。


僕は思い出した。もし、僕が、お店を出すのに失敗して、路頭に迷うことになったとしても。

リフィアと一緒に、貧しい暮らしの中でも、笑っていられるかな、と。

同じようにして、自分に覚悟を問うたのだ。


試されているのだと思うことにした。



眠ってしまったら、もう終わりだ。

体温を全て奪われ、取り返しの付かないことになる。


でも…もう、限界だ。


ぐわり、ぐわりと背中から迫る、言い知れない苦痛から暫し逃れる為なら、


割に合う取引であるように、思われたのだ。




――――――――――――――――――――――




「おい、Siriki。」


「さっさと、目を醒ませ。本当に、置いて行くぞ。」


「……?」



「……様?」


鼻先が、すんすんと僕の眼前で鳴らされ、舌先で、頬をべろりと舐められる。


「化膿は、していないな。」


そう呟きそっぽを向くと、前脚に全身を預けて後ろ脚の伸びをし、身体から尾にかけて、毛皮をぶるぶると震わせた。リラックスした、その所作に、戸惑いを隠せない。


「なら、治してやる必要も無さそうだ。」


「え…と…?」


頭を壁に倒してやると、白んだ空が家屋の隙間から顔を覗かせていた。

朝焼けに照らされた、凍った石畳を歩く人影はまだないが、冷気に霞む煙突窓の煙が、背後の住人の生活はとりわけ早いことを告げている。


「朝…か…」


長かった。

夜を、生き残ったのだ。


小さな冬を乗り越える為に、白湯の一杯でも啜って、ほっと白い溜め息を上げたい。

そうしたならきっと、ぐったりとした身体の奥に、温もりが灯る。


でも、そんな僕を気に留めることもしない。

急ぎ足で僕の前を通り過ぎ、明るい通りの様子を、目を細めて窺う。


神様。出来るのなら、惜しみの無い慈悲をもっと、僕にかけて下さいませんか。

そう希いたい気持ちは山々だったが、気にかけて下さっているだけでも、もう十分であると考え直した。


「さて…散歩でもするか。」



――――――――――――――――――――――




「ぐっ…?」


突如、腹の辺りに走った鈍痛で目が醒めた。


「おうっと、わりい。生きてたか。」


「こんな所で寝転がってっと、風邪ひくぜ?もっと、人目の届かない所で野垂れ死んでな。」


相手の顔を確認する間もなく、再び、今度は顔面に靴の先端が飛び込んでくる。


「い゛っ…」


しまった…!

追っ手が、もうこんな所にまで…


つい眠ってしまって、情けない夢に腑抜けた笑みを浮かべていた。


そうだ…Fenrir様…Fenrir様は?


顔を上げようとしても、路地のもう一発飛んでくる気がして、身を縮こめることしかできない。


「おすすめは、少なくとも、此処じゃねえ。」


「もっと湿気た、お前みたいなやつの沢山居る管区で、物乞いをすることだ。」


何故、此処が分かったんだ?

僕らの足跡は、屋根の上にしか、残されていなかったはずなのに。

逃げなきゃ、でも、足がきっと、言うことを聞かない。


「親切で言ってやっているんだ。」


「そうさ、俺達じゃなくて良かったと思いな。」


「絡まれる相手が違えば、奴隷市場行きだぜ?へっへっへ…!」


腫れた頬に唾を吐きかけられ、

それで、鬱憤が収まったのか、一頻りの笑い声と共に、彼らは去って行った。


「……。」


只の、一般市民…か?

僕を、殺しに来た訳では無い…






惨めだった。

これも、夢だろうか。


「うぅ……っ」


駄目だ、起き上がる気力も無い。

全身を襲う耐え難い悪寒もまた、一つの覚醒によって拭い去られるのを信じて待つ。



しかし、代わりに訪れたのは。


「ふーむ…ぱっと見て回っただけでも、魅力的な匂いばかりだ。…迷うな。」


彼らが去るのを待っていたのだろう。路地裏の奥から、堂々と姿を現す。

上機嫌に揺らされた尻尾。鼻歌でも聞こえてきそうな調子だ。


「全部欲しい。」


「おい、Siriki。金は足りそうか?」


そうですよね。

チンピラなんぞに、貴方の姿をお見せする訳には行かない。



僕は、道化。

滑稽でも、誇り高いとか、そんなことは決してあり得ない。

唯々、汚い。裏路地の掃きだめよりも。



それでも背後に鎮座する神様の存在を悟られること無く、狼のお役に立てていれば良いのだ。







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