30. 渡り鳥の経路 4
30. Migratory Parcours 4
それから、数十秒後。確かに聞こえた。
“ウッフ…ウッフ……!”
自分のことで精いっぱいだったから、今まで全く気付かなかったけれど、なるほど、何気なかった。
微かに、遥か後ろの方から聞こえている。
そして、その直後、僕のいる家屋の真下辺りで、何人かの反応があった。
見逃しては貰えていなかった。、もう殆ど、見つかってしまっていたのだ。
「ウッフ…ウォォーー……」
「ウルルル…」
このとき僕は、やっぱり本物とは比べ物にならないな、と思った。
人間が真似たそれとの聞き分けは、驚くほどすんなり僕の耳に理解された。
“ウッフ!アゥォォオオオオーーーー”
彼らには、それが分からないのだろうか?
続いて、また別の地点から、Fenrir様でも、また狼でもない返答がある。
「聞いたか…?」
「仕方ない…行くぞ。」
そのような、やや不服そうな会話だけが人間によって為されたのち、
押し殺した足音が暫く響き、やがて犬の一匹も吠えなくなった。
「……。」
Fenrir様の誘導は、上手く行ったらしい。
けれども分からない、本当に、この辺りの捜索を続けている追手が、全員掃けたのだろうか。
或いは、そういう命令を含んだ暗号を、Fenrir様は、既に理解しているのか。
信じるしかない。
僕は深呼吸をして、今いる屋根の頂上までよじ登り、屋根の天辺まで辿り着いたところで、待機することにした。
眼下に、それ以降の動きは見られない。
…助かったようだ。
白い息は、通りから見えるほどでは無いだろうか。隣に狼がいなくなっただけで、一挙手一投足に危機感が芽生えて来る。
…やっぱり、甘えていたんだ、僕。
「……。」
意を決して、裾を捲り、足の具合を確かめた。
「いっ……!」
触った直後に、熱を持っているのが分かった。
びりびり痺れる程度だけれど、暫くしたら、どくどくと痛み始めるに違いない。
見つかったら、終わりか。
初めからそうだった、明日以降も、きっとそうだ。
ずっと、こうして神様以外の目だけを気にしながら、怯えて生きていくのだろう。
僕はもう一度、襲撃の時に目にした2つの勢力のことを考えていた。
自分が狙われている理由に、Fenrir様との関連性がある可能性について、きちんと後で、お伺いを立てようと思う。
ヴァイキングが信奉する神様なら、確かにその一派は、弾圧される運命にあるのかも知れない。
でも、この国は、彼らを受け入れるしか、無いんじゃないのか?
僕は寧ろ、これから大多数になる側のはずだ。
じゃあ、この集団は、国の為にもならない抵抗を…?
この国に、彼らを受け入れない選択肢なんて、ある筈が無い。
仮に、国の為に暗躍する、そういう集団があったとしてもだ。
少なくとも異教徒の一人として僕を追うだけで、崇高な任務が達成されるだろうか。
本来、走りながら、そんな考えに耽る予定でいたけれど。想像以上に険しい道のりだった。
それに、きっと一人で考えても、答えは得られそうになかったから。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
汗はすっかり冷えて、僕はいよいよ一人で動き出さなくてはならないかと心配し出し始めていた。
それともまだ待機すべきか、踏ん切りがつかずに、血眼になって、地上の人っ子一人いない表裏の通りを交互に凝視する。
あの路地裏から、出て来るかな。
いや、それとも、あっちから?
見逃してはならない。
“ウッフ…ウゥゥゥゥーーー”
「……?」
気のせい、だろうか。
聞き逃してしまいそうなほど今度は、はるか遠くからだった。
そしてそれを、自分に十分な判断能力がある確信も持てぬまま、僕は今、狼に依るものだと判断した。
内心、凄く焦った。
もう、あんなに遠くまで、おひとりで行ってしまわれたのかと。
僕は、Fenrir様の命令を聞き謝ったのか。
本当は、今のような微かな誘導を重ねられながら、あそこまで進軍を続けていなければならなかったんだ。
真っ暗闇で、方角も定かでは無いけれど、あちらがコンスタンツァ港であるのに違いない。
何をのうのうと、休んでいたんだ。
地上からアシストして下さると、仰っていたのに。
冷え切って益々質の悪い痛みを伴い始めた足首に顔をしかめ、僕は腰を上げる。
「よう、待たせたな。」
「……っ!!」
その声は、真後ろから。
僕は、ああ言って置きながら、少しもFenrir様の思考に沿うた追跡が出来ていない。
それも、首筋に口付けるような距離で、彼は囁いたのだ。
狼の狩りとは、此処まで完璧だったのか。
本当に驚いたときは、声も出せない。それが逆に助かった。
「クックック…お前は、狼の言葉を、よく信じるのだな。実に従順で、扱いやすい。」
「Fenrir様っ……!!」
再会の喜びは、満面の笑みだけにしておくしかない。
抱き着いたりでもしたら、それこそ屋根の下へ真っ逆さまだ。
その直後、僕は咄嗟にまた、Fenrir様と言ってしまったことに気付いて、口を噤む。
「あ……えっと…すみません…Fenrir…」
「はぁ…あと何回、お前に気色悪い敬称で呼ばれなきゃならないのだろうな。」
「言っておくが、お前がそういうたびに、お前に要求する褒賞は大きくなっていくことを忘れるなよ。」
「もちろん…構いません。噛みつかれたりしなければ、全然。」
「それ以上舐めた態度を取っていると、お前のその足首、庇うどころでは済まされなくなるぞ。」
「わ、わかってます…唸ったら、聞こえちゃいますから、ね…?」
「ふん……」
「しかし、思ったような反応は、得られなかったな。」
「…?と、仰いますと?素晴らしい陽動だったように、思いますが。」
「それは、ついでだ。俺が本当に炙り出したかったのは…まあお前には、分からないだろうな。」
「はあ…」
ひょっとして、Fenrir様は、狼の吠え声を、聞きたかったんじゃないのかな?
実は、さっき僕も、人間の吠え真似とは全然違うのだという気づきを得たのです。
Fenrir様の本当の意図を知りたかったのだが、
そのように言っても、媚び諂っていると思われるだけだろう。
それからも、僕らは何度も進路をジグザクに曲げながら、地上をうろつく影の集団の目に止まらぬよう、移動を続けた。
段々と、要領を得て来た。
Fenrir様が、じっと動きを止めて、耳を回しているときは、多分周囲の音を集めているのだと思う。
此方を振り返った時は、近く、もしくは真下にいるとき。
その時はじっと屋根に張り付いて、やり過ごす。
貴重な休憩時間だ。そろそろと移動するのも、さっきみたいに滑落しそうで、もう出来ない。
‘駄目そうだ、Siriki。隣に移るぞ。’
多分、そう仰っているのだと思う。
僕は無言で頷き、Fenrir様が向かう方向の屋根へ匍匐で進む。
狼の視力がどれくらいのものか分からなかったが、それで通じると信じた。
進路方向に、彼らが潜伏していれば、別の屋根を迂回して、東部を目指して動く。
暗闇の中で、方角もすぐに分からなくなってしまったが。
それでも、僕は必至にFenrir様の姿を、目を凝らして探しながら、夜の空を歩いて行ったのだった。
「しっ…」
「下にいる。」
「彼らの縄張りの境界辺りか?少なくとも、その近くまでは来られたようだぞ。」
僕は声を押し殺し、Fenrir様に尋ねた。
「…どうします?此処を飛び越えるのは、音でばれてしまいます。」
「あいつらが、お前の部屋に押しかけて来たのか?」
「…違います。あれは、僕を襲った自衛団じゃない。」
騎士だ。二人で、小声で話し込んでいる。
Fenrir様なら、会話を盗み聞きできるだろうが、僕にはその内容までは掴めない。
「昼間に、一度見ました。珍しいですよね、街中にあんな…」
「俺も、見かけたな。その時は城壁の上で警備に当たっているように見えたが…」
彼らもまた、お前を狙っているかどうかまでは、分からない。
しかし、別勢力であるかさえも、情報が足りない。
そういうことだろう。
彼らは、その場から一歩も動かない。
幾ら立派で分厚いマントを纏っているとはいえ、板金鎧なんて、こんな夜中では、凍え死んでしまわないだろうか。
「…やり過ごす以外に、手は無いだろうな。」
「あの渡り廊下の尾根の上、歩けるか。」
どうしても、東西を縦断する大通りの反対側に移動するには、このゲートハウスを経由するしか無い。
二つの大きな建物の間に設けられた、一本の稜線。
この脚では、渡り切れない。
跨って、そろそろと進みたいところだったが、彼らはちょうど、軒下にいる。
一晩でそれなりに積もった雪が彼らの兜に不自然に落ち、上を見上げられれば、それでお終いだ。
「…わかりました。」
僕は手首をぶらぶらと揺らし、それから稜線を担う一本の丸太に、皺の隙間も無いくらいに、ぴたりと合わせる。
「何を、する気だ?」
「……っ」
その場でゆっくりと、生きている左足を蹴った。
突拍子も無く、映るだろう。
自分でも有り得ないと思った。
屋根の天辺で、逆立ちをしたのだ。
「ほーう……」
姿勢が安定するのを待ってから、ゆっくりと、雪の纏わりついた天板の上に、手を滑らせる。
ゆっくり、滑る路面を靴の裏で踏むのと同じ。そのまま、押し固めるように。
高熱の夢を見るような恐怖だった。
風で煽られ、次の瞬間には、頭から落ちて、死んでいそう。
視界の先に、逆さになったFenrir様がついて来る。
余り、見ないようにした。目を合わせたくなかったからじゃなくて、少しでも、固定された視界を保たないと、簡単に傾いてしまう。
半分まで、来ただろうか。
行く先が見えない不安。
乗り越えなくちゃ。
立ち止まったら、もう次に重心を移動させる感覚を掴める気がしない。
「はぁっ…はぁっ…あぁっ…あぁ……」
手汗が、雪を猛烈な勢いで溶かしているような気がする。
滑る感じはしないが、どんどん一歩の確信が薄れていく。
やるときは、冷静に落下を堪能できるだろう。
心臓が、ドクドクと波打っている。
頭に血が上って、瞼が破裂しそうだ。
「く……っ、ぅ……っ」
腕がぷるぷると震え、今にもがくんと肘から折れて、身を持ち崩してしまうかと思われたその刹那、
目の前から、Fenrir様の姿が消えた。
「……!!」
足場が広くなった証拠だ。
身体を逸らして、両足を地面に付ける余裕さえ無い。
最後には、手前に倒れ込まぬように、前転するので精いっぱいだった。
「はぁっ…はぁっ………っ、あぁっ……っ」
「やるじゃないか。俺が下に降りて、また退かしてやっても良かったんだが…」
「それなら、そうと…!」
「でも、彼らは、此処を守るのが仕事です。きっと、移動はしなかったでしょう…」
「違いないな。」
「お前にそういう特技が、あったとはな。知らなかった。」
「死にたくないとは言いつつも…躊躇いは、無かったです。」
答えになっていなかったような気がして、僕は慌てて付け加える。
「それに、料理人になる前は、色々やってまして…お金なかったから。」
「ふうん。溶け込むのに、苦労したのだな。」
「え…?ええ…」
息も絶え絶え、笑いたい頬が引き攣って、言うことを聞かない。
「まあ、よく頑張った方だ。此処まで来れば、一先ず危機は、去ったのでは無いか。」
「ほら、見ろ。着いたようだぞ。」
「え…?」
「……!!」
夜明けだった。
水平線に、仄かな光が見える。
辿り着いたんだ。
「Port Constanța《コンスタンツァ港》…」
逃げ切ったのだ。
こんなにも静かで、清々しい港の朝を迎えられたことを、僕は狼の毛皮に触れようとする躊躇いでしか現すことが出来ない。
なんだろう、この感覚。
「降りるぞ。Siriki。」
「日が昇るまでは、路地裏で眠る。」
「はい…Fenrir。」
「その後、市場と言うやつを、案内するのだ。」
「次の潜伏地を、探すためですね…?」
「それもあるが、本当のところは、少し違う。」
「お前は、俺の舌に合う料理を良く知っている。」
「助けてやった俺に、その持ち金を全部使って、朝飯を腹いっぱい食わせろ。いいな?」




