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2.トランシルヴァニア横断 2

2. Traverse the Transylvania 2


「やれやれ…少しも、収まる気は無いらしいな。」


ブリザードなど、この際もうどうだって良い。どうせ視界が明瞭になったところで、行く先が変わる訳でも無い。


しかし、この深さの雪原は、もう少しましにならないのか。

好ましいかに思えた冠雪の土地が、たとえ狼に対してであっても、例外なくきちんと牙を剥きつつあることに、一抹の焦りを覚えつつあった。


前足を浮かせて、埋まりかけの身体を起こし、目の前の雪塊にぶつかって、道を切り開く。その繰り返し。

軌道修正だって、まともに出来たものでは無かった。

知らぬ間に、俺は大きな円を描き、元の場所に舞い戻ってはいないかと、気が気でない。


その点、早い段階で、勾配の小さな山頂から離れたのは、正解だっただろう。本当に平衡感覚を失い、下山すら出来ぬまま、走らされるところだった。


よもや自分が、する訳がないとは思いつつも。

遭難、その二文字がちらつく前に、早いところ、合流してしまいたい。


中腹も過ぎ、だいぶ、麓へ近づきつつあるはずだ。

緩衝領域の端までやって来たことになる。此処までこれば、一安心。狼の土俵であるように思うが。


「…さあ、あの遠吠えの主は、何処だ?」


その前に、もう一つだけ、懸念すべきことがある…




ズズズッ……


「……?」




もうすぐ、安全圏。その僅かな気の緩みを咎めるように、足元の唸り声に息を潜める。


なんだ、今の…?


「……。」


地面を穴のあくほど見つめて、ようやく気が付いた。


「しまっ…」



ズズズズズッ……!!



地響きが、まるで雷鳴のように腹へ伝わる。

滑っているんだ、この傾斜自体が。

背後から迫る雪崩の轟音が、霧中においてさえ、正しかった俺の進路を示している。


「まさかっ…もう……?」


丸ごと呑み込もうと言うのか、この俺を…?

麓一帯を包み込む、巨大な大口を想像してしまい、皮肉っぷりに我ながら嫌気が差す。


「くそっ…此処まで来て…」


転移してそうそう、やりたくないことだったが。


「やむを得ない、か…!」


“グルルルルゥゥゥゥッ!!”



右前脚の爪先から洩れた青白い光が、罅となって雪面を走っていく。

無数にも枝分かれしたそれらは、小さなひっかき傷の集まりとなって、やがてルーン文字の模様を帯び始めた。


ついさっき、会得させられたばかりの力なんだ。

本来、念入りに仕込んでおくべき文字列だろう。あんまり、ぶっつけ本番で、こんなことをさせないでくれ。


「だが…こんな所で捕まるよりは、ましだ!」


ズゴゥンッ



目前の雪壁が、一瞬で黒い波のようにうねる。

獲物の視点は興味深く、空を覆い、暴走した真っ黒の影となって、俺ごと喰らい尽くそうとしている。


「……つ!?」


その牙先で、俺は腸がふわりと浮くような感覚を味わった。



ああ、まただ。

また、これだ。


成功した、ということだけ分かれば、十分だ。

今度は、雪庇を踏み抜いたような感覚を、夢の中で冷静に悟る死のように俯瞰する。


「う゛っ……!?」


若干だけ残った身体に、押しつぶされるような衝撃が走ったが、

それだけで、視界は途絶えた。




「はぁっ……はぁっ…」


「あ゛ぁっ…うぅっ……」


「……。」




気が付けば、景色を攫う吹雪は、驚くほどに収まり、どうやら今度こそ、本当に安全な疎林へと飛ばされている。


「……。」


そう思って、良いだろうか。

灰色の幹がまばらに点在し、先よりも積雪の少ない一帯に出た。

明るい方角に、かすかな小川のせせらぎが聞こえる。沢が近いようだ。


追っ手は?

あいつらが残した痕跡は?臭いは?


「はぁー……」


幾ら息を潜めて、待ってみても、どうやら本当に思い過ごし出逢ったと分かった時には、あまりの自己嫌悪に、大きく溜め息を吐いてしまった。



まさか、本当に、只の雪崩、だったのか?


くそっ、過剰に反応し過ぎだ。

雪崩を、神々が差し向けた追っ手だと勘違いするなんて…


「もう、気付かれたのだとばかり…」


脳裏では、未だにあの戒めの光景が続き、俺の涙腺をぎゅうと締め付ける。


グレイプニルによって本体の力を制御されているとは言え、仮にも神界より大狼として顕現した身だ。多少の奇跡に頼ることは、したって構わない。


それが、本領の何分の一程度であるか、それは、試してみないことには分からないが、それさえも、憚られている立場であることを、俺は常いかなる時も、心に留めておかねば、ならないのだ。



俺は、逃亡者(renegade)だから。



「……。」


ルーン文字をなぞった爪先が、氷上を歩いても感じられなかった冷たさで痺れている。


いずれは、天に寝そべる神々に向けて己の力を誇示するときが来るだろう。

だがそれまでは、俺は一匹の狼に扮し、泥臭く、立ち回らなければならない。

上から覗かれて、目立つようじゃあ、まずいんだ。


神様の力の一旦を見せざるを得ない時が、いずれ訪れるとしても。

十分に注意を払わなくてはならない。

俺はこれからも、神様らしく振舞うか、一介の狼として闊歩するか、数多くの選択を迫られるだろう。


そして今の場合、自らを安全な場所へとリスポーンする行為は、明らかにするべきじゃなかった。


一瞬でここまで逃げられた安堵と同時に、これが命取りになるかもしれないという恐怖に胸が騒ぐ―そんな矛盾の中で、俺はしばし立ちすくんだ。


最も手っ取り早く、あの窮地から抜け出せると、咄嗟に判断して唱えたこと自体は責められるべきではないかも知れないが。

転送・召喚、及び自身の移動は、全て痕跡として臭いを残す。

それは、俺が出逢って来た神々が示している。

鼻の利かぬ彼らにとっても、手掛かりとなることは間違いない。


俺はもう、彼らと同じ業、ルーンの規律に頼れそうにない。

同じ力の担い手こそ、もっとも鋭敏にその存在を嗅ぎ取れるであろうことは、想像に難くない。


飽くまで、狼として、致命的な一踏みを回避し続けないことには。

俺は野望を実らせる前に、摘み取られるだろう。


狼としての潜伏。それが最善だ。




「さて…」




それで、此処は何処だ?


遠くまでは来ていないようだが。

行き先を、まるで制御出来ていない。高度だけでも担保できている辺り、埋め込みの恐怖に怯えずに済むだけ、ありがたいと言ったところか。

しかし、あいつの精度をどうせ越えられないのだから、文句は次に会えた時に、言ってやるとしよう。



例の一匹狼との合流は、すぐそこだと感じている。



だがもし、先の雪崩れで、ここら一帯に潜伏していたそいつが飲み込まれてしまっていたら?


同じ一匹狼の思考だ。彼方から、山頂に向かって接近を試みることも、十分に考えられた。

まさか、土地勘のある奴が、そんな危険な探索に乗り出すとは思えないが。

一刻も早く捜し出したいと急かす胸騒ぎは何だ。


「やむを得ない、か…」



此方から、相手の様子を一方的に確認した上で、接触するかを決める算段だったが。

どうやら、此方から先に、自分の存在を知らせざるを得ないらしい。



“……アウゥォォォオオーーーー……”



“どこだ……?どこにいる…!?”



どうだ、らしくやれているか。


この世界は良い。


誰かが返してくれるかもと期待して、

狼として、吠えることに、何ら憚られることがないから。




“……。”



再び、世界に、青の帳が降りようとしている。


陽の色を失った黄昏時、立ち並ぶ冬樹の奥の色をじっと見つめていると、

どうしてか、懐かしさが込み上げてくる。


この森を選べたことを幸運に思った。

もしかすると、貴方とさえ、逢瀬が叶うかも。

そんな世界が、降りる時間があるだけで。




“ーゥゥォオオオオ……”



“っ!?”



そして静寂を破る、またしても一匹の吠え声。


良かった。先よりも、覇気が薄れているように聞こえたが、まだ、生きていた。

そして、反響の度合いからして、驚いたことに、すぐそこにいる。




そいつは、もっと、驚いたことだろう。


何故って、自分の聴覚が十分及ぶ領域に、突如として、狼の存在を知覚したのだから。

まるで、魔法のように、忽然と。





“ハァッ…ハァッ…ハァッ……”


自然と、駆け足になってしまう。

先までの、慎重な立ち回りも忘れて。


もうすぐ、逢えるのだ。


どうしてか分からぬ。こんな高揚感。


単に、確かめたかったのだろうと思う。


自分がどのように見られるかを。

きちんと、同じ狼として、見て貰えるかを。


それだけなら、誰でも良かっただろうに。

きっと、人間が相手であったなら、決してこのようには、成りえなかった。




“何処だ……?”


“…この辺りから、だったように思ったが。”


立ち昇る吐息に、自分だけが、こんなにはしゃいでいると分かって、嫌気が差す。



しかし相手も、そうである訳が無い。

あんなに急に、接触を試みられれば、寧ろこんな風に気配を殺し、身を潜めるのも、納得がいく。

ましてや、こんな図体だ…




俺は、ふいと背後を向いて、自分の尻尾の具合を確かめる。


無意識のうちに、ご機嫌に振ってなどいないか、不安になったからだ。

いつもこいつは、俺に余計な恥をかかされてきた。


せめて、初対面の相手にぐらい、高く、まっすぐに保とうでは無いか。





そうして振り返った、視界の端。

俺は凍り付く。





「……!?」




一瞬、こんもりと積もった雪塊をそれと勘違いするほど。







此方を窺うようにして佇む彼女の毛皮は、自分のそれとかけ離れていたのだ。





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