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30. 渡り鳥の経路 

30. Migratory Parcours


初めて、我が狼の、神性を見た。


実際にこうして目にするまで、彼の存在を疑っていたわけでは、決してないけれど。



窓に収まりきらない程の大きさで、瞳が覗いている。


ぎょろ、ぎょろとした動きは、それ単一である種の魔性の生き物であるように見える。

それでいて、目から見て取れる表情は笑っている。

彼は、僕の窮地を見て、上機嫌であるのだ。


別世界と、繋がれてしまったのだとしたら。この窓には、荷が重すぎると言えるだろう。


外に、壁一枚向こう側に、いる。


こんな家屋など、見下ろすのに首を垂れなければならない程に巨大な、


… 'オオカミ' が。


「これが…」


気迫が、びりびりと皮膚を剥ぐような痛みで伝わって来る。

全身を駆けたそれを鳥肌と呼ぶには、余りにも生温くて、一向に収まらない。


「神…さま…」



僕はそのとき、はっきりと悟った。

Fenrir様は、神の遣いでは無い。

神、そのものなのだと。



「さっさと此処から出るぞ。着いてこい。」


「……。」


「お前に言っているのだぞ。Siriki。」


「はっ、はい…っ!」


いつまでも、神々しさに酔っている場合では無い。

その言葉で我に返った僕は、今度は立ち上がれるかと、全身に力を込める。

なんとか、なってそうか。まだ、右耳にきーんと耳鳴りが残っているけれど、目も見えるし、ふらつく感じも無い。


「こいつらは、ルームメイトか?人を殺しておいて、相部屋を選ぶ胆力があるとは流石だ。それとも、金を惜しんでの苦渋の策か?後者だろうな、無為に終わったようだが…」


「違います、こいつらっ…が…早く…」


「お別れの挨拶が、済んでいないのなら、早くしろよ。」


「……っ?」


残党の獣たちは、命令よりも先に、背筋に這い上がる絶望の感覚に捕らわれていたようだった。

だから、完全なるFenrir様の存在に気を取られていたのだと、人間の僕でも否応なしに理解できる。


彼らの怯えは、獣らしい尻尾が見えずとも見て取れる。

それでも、任務を失敗することの恐れが勝ったのだろう。危機感を覚えた生き残りの二人が動いた。

逃がしてなるものか、本玉を獲らんと動き出す。


「うっ…あっ…?」


それをぼうっと眺めていたことの言い訳をさせて貰えるとは思っていない。

でも実際のところ、Fenrir様が来たからには、もう安心だと思い込んでいたんだ。


「Fen…rir様っ!?」


彼らが初めの暗殺者と同様、部屋を貫通して向こう側へ吹き飛んでしまわないことに、本気で焦るのさえ遅かった。

助走をつけて飛び上がり、それでも軌道を変えないのを見て、今さら盾となってくれそうな戸板が無いかと床板を掻き毟る。


「Fenrir様っっ!!うぁぁぁぁぁぁーーーーーー!?」



両腕で顔面を覆い、情けない叫び声をあげる。


「うあ゛あ゛っ!?」


ばんっ…


「ギャアアアアアッッツーーー!!」


「……?」


…い、今のは?


視界が遮られる直前、横殴りの突風に遭ったかのように、そいつの身体が吹き飛んでいった。

さっき、僕を助けて下さったときと同じだ。

今は僕みたいに蹲って、痛みに悶えている。


「お前、本当にいい加減にしないと、見捨てるぞ。」


「ごめんなさいっ…ごめんなさい…」



「後な、お前の為に言っておくが、あんまり真夜中に叫び声を上げるのは、感心しないぞ。」


「折角、来客側が事を荒立てぬよう配慮してくれているのに、それを無下にして、お前に良いことは一つも無い。」


「そして、まだ分かっていないようだから、はっきりと言ってやるが…」


「どれだけ霞んだ声で叫んだって、お前を救ってくれるような奴は、此処に誰一人いないぞ?」


「……。」



「お願いです、置いてかないでっ…!」


腰が抜けた四つん這いから、どうにか立ち上がり、窓までの僅かな距離で助走する。


「Fenrir…っ!!」


「助けて下さい…」


「絶対、貴方の役に立ちますから…!」


「フェンリルッッ!!」


「ふん……」


大きく瞬くと、目玉は窓枠の外へと消えていった。


飛び上がった僕の背後で、また、ぐしゃりと、最後の追っ手を叩き潰す衝撃音が鳴る。


「ギャウゥゥゥゥッ…!?ウゥッ!?ウォォォォオオッッ!!」


「やはり、飾りだったか。」


振り返るのは、やめた。

盲目に、後ろを見る意味は無い。

Fenrir様に死に物狂いで着いて行くことだけ、考えろ。


そうして、窓の向こう側へ。



「う゛っ…」


飛び出したは良いが、僕は獣のように身のこなしが軽くない。

膝を窓枠に直撃させ、無駄なうねりを伴いながら、顔面から無様に屋根板へ激突する。


「ぎゃっ…?」


窓の外は、当然、庇だけの、小さな足場だった。

その上に転がり、落っこちる前に、仰向けに寝そべって勢いを殺す。


「うぅっ…はぁ…はぁっ…あ、ぁっ……っ」


「……。」


また、助かった、と思ってしまった。


「あ、ありがとう…ございます。」


「Fenrir…」


僕だって、こうして夜空を見上げるのは、もっと心穏やかな時分にしたい。

そんな瞬間は、永遠にやって来ないのかも知れないけれど。


狼が隣で謳う合唱に、耳を傾けるような悠長さを、二人で分け合う場面。

この時、僕は鮮明に想像した。

後で、きっと、それはデジャヴであったと思い込める日が、ちゃんと来ることを信じて。


こうして、余韻に浸っている暇なんて、ありませんね。

僕たちは、これから、長い夜を、逃げ切らなくてはならない。

でもまずは、お礼を述べさせてください。



「……?」


「あ、れ……?」


しかし、彼は、姿を忽然と消してしまわれたのだ。


上体を起こして、辺りを見渡すも、

そこに、屋内の小人たちを覗き込んでいた大狼は、いなかった。


先程まで空を覆っていた巨大な眼差しは、まるで幻だったかのように消え去り。

代わりに、僕のことを気怠そうに憐れんで眺める、いつものFenrir様がいるだけ。


「どうした。Siriki。」


「えっ…い、今…窓の外、に…」


「外に、何だ?」


「部屋から、俺じゃない何かでも、見えていたのか?」


「いえ…その…」


「何でも、ありません…」


くっくと笑い、はぐらかされてしまう。

これからも、そういう調子で、気まぐれに神のお力の一旦を垣間見せられるのだろうな。僕は、それに付き合わされ、いや、何度も翻弄されるのに違いない。




「それより、Fenrir…」


「貴方…怪我を…なさっているのですか?」


そう、気になることがあった。

Fenrir様の毛皮の所々に、噛み傷のようなものが見受けられ、鼻先の右側面は、傷こそ無けれど、瘤のような腫れが夜空の下でもはっきりと出ていたからだ。

昼間なら、毛皮に血が染みついているのでは無いか。


「ああ…これか?」


「掠り傷だ。今のお前に比べれば。」


「もしかして、此処に来る前に、Fenrirも襲撃に…?」


「そんなところだ、気にするな。普通の狼のふりをしていたら手こずって…まあ、何でもよい。」


「そっちは、どうだ?逃亡初日にしては、随分と多難であるようだが?」


「は、はい。えっと…」


まず、何から報告したら良い?


申し訳ございません。何をしくじったのかさえ、良く分からない。

潜伏は、失敗に終わりました。これからどうしたら?


そうだ、さっきの奴らは、何者なのです?

それと、彼らに襲われる前に、別の集団にも、部屋を調べられました。


そっちは、もっと大きな集団を統率して、僕を探しています。


Fenrir様、教えてください。Fenrir…様…


「ふうん、人気者だな。Siriki。」


僕が要領を得ずに喋るのを見て、彼は狼らしく首を傾げて一言。


「そいつらに心当たりは、全くないが…」


「それだけ追い回されるのなら、確かに理由がありそうだ。」


「お前、もしかしたら、お前が思っているよりも、沢山の悪事をして来たのかもな?」


「自分に自覚が、無いだけで。」


「……?」


「どういう…こと、です?」


「別に、何も?」




「これ以上の話は後だ。まず、朝まで生き延びなければ、お前に未来は無いぞ。」


「で、でも、辺りは…僕を襲った、別の部隊が…」


「そのようだな。随分賑やかな夜だ。お前の言うような、敗戦国の過疎地とは思えん。」




「路地裏は、使えそうにありません…」


「雪も降った、足跡も人間が追えるぐらいに、残るだろう。」


「では、どうしたら…」


「まあ、俺自身も、この国で自由に動ける方法を探していたところだ。」


「ひとまずは…空から、攻めた方が、良さそうだな。」





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