26. 孤独な群れ率い
26. Lonely Crown
“…Fenrir…さん?”
“先に、群れに、戻っています…”
“必ず、帰って来て下さいね?”
等身大の窪みを、穴の開くほど見つめ、呆然と立ち尽くす俺を置いて、
彼女がそうとだけ言い残し、群れの元へ去るまでに、日は暮れた。
それでも、影は消えずに残っていた。
“化け…物…”
俺が?
初めは、逆境の中で、確かに心臓の高鳴りを感じていた。
ようやく、同期できたと。
激しい脈動に従って、俺の狭い身体に、力が送り込まれていく過程を、これこそが求めていた降臨であると、ほくそ笑んでいたのに。
それが、最後にはどうだ。
“化け物めっ…!”
俺は今後も、こんな胸糞の悪い戦いの中で、薄ら笑いを浮かべていなくてはならないのか。
“アウォォォォォーーー…”
“……?”
Lukaのものではない。
けれども、群れの中の誰かが、始めたのであろうと、推察できる。
この群れは、薄暮薄明に、ひと際大きな合唱を好んだ。
彼らが、残党の集まりであるせいだろうか。中々調子が合わないながらも、一緒になろうとする健気な様に、何度喉を掻き毟られたか分からない。
段々と、見知った声が加わっていく。
周辺の仲間を、こうして集めいているのだ。
しかし、その中に、あの声は無かった。
今日の音色は、不安に満ちていた。
あの、やけに長く尾を引く低音が聞こえない。今夜の遠吠えは、背骨をなぞるような共鳴がどこか足りない。
夕陽に混じった紫の、全部を飲み込んでやろうとする濃さに、はっとさせられるような闇だった。
一匹さえも、欠けてはならない。
それは、彼以外のすべての仲間に対しても同様に言えることだと確信した。
これ以上、失うことを、耐えられないと嘆いている。
戻らなくては。
加わる気が無いのなら、
せめて、姿を見せよ。
しかし引き摺る足取りは、重たい。俺は俺の実態を、こんな小さな狼の身体で運んでいるのか。
“これから、どうする?”
Vojaは、負けた。
新しいリーダーの誕生だ。
その伝令だけが、群れを駆け巡るだろう。
吠え声が聞こえ無かったことを抜きにして、彼はもう、去ったあとに違いあるまい。
群れの外れで、俺達の狩りのお零れに肖って暮らすような奴では無いことは、分かっていた。
どれだけ俺に、狼から外れる正しさを説こうと、あいつは正真正銘のそれだ。その群れの長である矜持を、拭い去ることはできまい。
それに…
“お前と戦って、わかったのだ。”
“俺もようやく、決心がついた。”
…決心、か。
追い詰められた獣は、どんな行動に出るか、分からない。
妙なことを、考えていなければ良いが。
なんて、月並みに身を案じるような言葉で、
余りにも明瞭に見通せるVojaの最期を誤魔化すことが出来ない。
“……。”
厳かな遠吠えの合唱とは、裏腹に…
いや、案の定だ。
彼らを取り持つ空気は、困惑と、恐怖で満ち溢れていた。
しかし俺を見るなり、その表情さえも、尻尾と共にしまわれる。
彼らは、俺を本当の意味で、迎え入れたのだ。
何によって?
否定しようにも、少なくとも、力によってだ。
その対象は、人間だけで良いはずだった。
人間こそが、Vojaがそうしたように、俺の力に対して為すすべなく平伏することになるべきなのだ。
Vojaは、確かに俺に、大事なことを教えてくれた。
手段は、問うな。
狼であることを貫くよりも、優先されなければならないことが、俺にはある。
その為なら、俺はなりそこないと揶揄されようと、どれだけ醜い見てくれだろうと、神様として、振舞う覚悟で、降りて来た。
人間なんぞ。俺が。
“Fenrir…さん…”
“良かった…帰って来てくれたんですね。”
“ああ…”
なのに何故、俺が、彼らに対して、このような眼差しを向けられなければならない。
此処は、俺にとって、今後唯一の、安息の地じゃなかったのか。
Lukaでさえ、今は俺の口元を舐めるような愛情を示すのを、躊躇っている。
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当然、継承に儀礼なんかがある訳では無い。
“ボスに続いて、3匹…”
それでも、こうなってしまった以上、現状を把握する必要に迫られた俺は、ようやく自分から、挨拶も兼ねて、彼らの臭いを嗅いで回ることを始めたのだった。
こんなにも、びくびくと、他の狼の視線に怯えた長が、嘗て君臨できていただろうか。
せわしなく鼻先を濡らし、意識していないと、尻尾も耳も、勝手に及び腰に相手へ媚びていく。
“そうか…”
案の定、昨晩だけで、分派とでも言うべきか、Vojaを信奉していた一部の狼が、群れを離れた。
主戦力であったと言うから、大きな痛手であることは言うまでも無いし、この綻びは、始まりに過ぎないであろうことも、想像に難くない。
“ただ、他は皆、此処に残った。”
“あんたに…着いて行くよ!”
上の空で、報告を聞いていた俺は、ちらとだけ、目の前の壮狼に一瞥をくれた。
“ならば何故…“
”Vojaのことをまだ、ボスと?”
“あっ…その…それは…“
”す、すまない…つい…口が…”
“ひっ…ひぃ…!”
俺が唇に皺を寄せたのでも無いのに、そいつは耳を引いて、ごろりとその場に転がった。
“わっ、悪気は無かったんだ…!許してくれっ!絶対っ、あんたの力になるからっ!”
“……。”
“何処へ向かって行ったか、思い当たる節があれば、教えて欲しい。”
“し、知らない…本当だ!あんたに隠すことなんて、一つも!”
“…そうか。”
“わかった。報告、感謝する。”
歯牙にもかける気が起きなかったことは、言うまでもない。
Vojaの周囲には、いつも彼を慕い、口先に触れようと尾を回して近づく狼が絶えなかった。
それに引き換え、群れの間を、存在を知らしめるように歩くことが、果たして挨拶と言えるだろうか?
でも、自分から、はたらきかけなければ、彼らは離れていく一方だ。
一夜にして、狩りの主要メンバーを4匹失ったのだ。
総崩れにならない方が、寧ろおかしいだろう。
それでも何とかして…食い止めなくては。
捨て置くべきだと分かっていても、小競り合いが気になる。
ちょっと唸り声が湧き上がっただけで、それが下層の狼が日常的に受ける圧力であっても、俺はその場を通り過ぎることを意識した。
調停者を気取りたかったからではなく、過度なストレスの捌け口となっていれば、純粋に俺のせいだと思ったからだ。
登場するだけで、沈静化するのは、俺がこのみすぼらしいオメガを一匹で蹂躙する権利を譲ろうとしているからなのか。彼らは気まずそうに目を逸らして、その場からすごすごと立ち去って行く。
“お前…大丈夫か?”
“うぅっ…?は、はい……”
“す、すみません……”
“……。”
“…なら良い。邪魔したな。”
俺にできることとは、何だろうか。
俺が狩りに参加する限りは、群れの食糧は保証できる。
早ければ明日の夜中にでも、一匹でひっそりと繰り出そうと思う。
数頭仕留めれば、1週間分くらいにはなるか。
春も近い。Vojaが選んだと思しき雌狼の出産も、近いだろう。
彼女が去らなかったのは、意外だった。もとより、産前でなければそうしたに違いないが。
群れの存続の中で、最も重要な行事だ、早急に安心させてやらなくては。
だが、それもすべて、彼らの為にならないのだということを、俺は嫌と言う程経験してきた。
俺は、彼らを、実践を通じて、育てなくてはならない。
彼らに、巧みな協力という、狼が最も得意とする戦術の中で、最大限活躍させてやる。
自分たちにも、できるのだ、と。思わせてやらなくてはならない。
それこそが、俺に求められる、狩りにおいての役割だ。
そしてあいつは、それを、見ていてこちらが、手柄を挙げられたのは自分のおかげだと錯覚させられてしまう程の器量で、何気なくこなしていた。
“面倒ごとを、押し付けやがって…”
安全面にも、目を向けてやる必要がある。
この群れが、これ以上脅かされることは、仲間を失うことは無いと、どうやったら納得して貰えるだろうか。
人間は、狼に指一本触れることさえ出来ないだろう。
もし、彼らから、何らかの介入があったなら、俺があいつに対して振るった力を、そのままぶつけてやれば良い。
Vojaが俺に託さずとも、きっとやり遂げて見せるだろう。
それであいつは本望だ。
そしてあいつは、俺を今度は、悪魔だとかだと笑う。
…それでこの力は、狼の為に在るか?
もう、彼らに対してさえ、俺の正体を隠す気力も、薄れつつあると思った。
なぜ、狼に対してまで、
俺は神様であらねば、ならないのか?
この世界でさえ。
俺は、狼になれないか?
“…俺には、無理だ。”
これが、今の俺の狼の形だ。
泣きそうだった。
お前は、それを、慰めてくれるか?
それとも、やっぱり、彼じゃないと、務まらないと言って、せせら笑うか?
どの世界でも、こんなにも理想は程遠い。
それでも、一歩ずつ、着実に進んで行かなくてはならない。
どんな犠牲を払おうとも。
この世界は、俺の帰還の為の足掛かり。
仮初の踏み台に過ぎないのだから。
また、目を醒ましたのか。
不安で眠れないのも、無理はないよな。
“Luka…暫く、留守にする。”
今度こそ、ちゃんと良い仔に、していてくれるな?
“群れを捨てることは、絶対にしない。信じて欲しい。”
“俺が、この群れを生かそう。”
“そのために…”
“必ずあいつを、連れ戻すから。”
“帰って来てください。”
“…ちゃんと、あなた自身のためにも。”
向かうべき場所は、分かっている。どの道、足を運ばなくてはならなかった。
吸い寄せられるように、役者は舞台へと集められて行くのだから。




