24. 真昼の決闘 5
24. High Noon 5
Vojaの両耳の間の毛の模様を、ずっと眺めていた。
距離感が、失われていく。このまま飛び込めば、あの毛皮の上に埋もれてしまいそうな、それだけの広さを備えている一面の絨毯に思えていた。
確実に、彼の首根っこに齧りつける。
お前が息絶えるまで、絶対に離してやるものか。
体格が互角なら、振り落とされる道理は無いんだ。
徐々に近づいて来る獲物の大きさに負けないよう、大口をがぱりと開き、待つ。
助走の伴わない、自然な落下であったが故か、Vojaはまだ気づいた素振りを見せない。
それでも彼が完全に警戒を解いている訳ではないのは、分かっていた。
“……っ!?”
だが、それでもこいつの反応は、
予め示し合わせているそれのようにしか、見えなかったのだ。
Vojaは、空を見上げることなく、前脚を浮かせて、樹皮に肉球を合わせ、
そして、俺の爪痕と同じ場所に、自分のそれを喰いこませたのだ。
そして、俺がそうしたように、登って来る…!
俺が腹の毛皮を樹皮に押し付けて、じりじりとよじ登るのに対し、
宙を浮いたVojaの身体は、とても狼の巨体とは思えないほど軽やかだった。
薄皮を纏った剥製か、背中に翼が生えているか、そのどちらかとしか。
彼が、立木に後ろ足を合わせたのは、一歩だけだった。
その一点に力を込めたのに、違いない。
Vojaの隆々とした前脚が、ふわりと木肌から離れ、
ゆっくりと喉の毛皮を見せ、倒れていく。
その過程で一度だけ、彼と目が合った。
勝機の瞬間に、目を見開くでも無く、
此処しかない瞬間に、全身全霊を込めるでも無い。
飽くまで、俺に、対処してきやがった。
ぎゅっ、というグリップの音と共に、彼の身体が半回転する。
“あ…ぁ……っ!”
声を出すことが出来ないと知りながら、吐くような叫び声をあげずにいられない。
俺とVojaの体勢が、向かい合って揃う。
互いが腹の毛皮を見せ合う格好になり、俺は悟った。
無防備だ、と。
Vojaの背中に掴みかかることだけを考えていた俺は、両腕を地面に向かってピンと伸ばすだけの、何とも間抜けな着地の姿勢しか取れていなかった。
その隙だらけの腹に向かって、幹を蹴ることで勢いを得たVojaの身体が、飛び込んでくる。
“ふぐぅっ…?”
落下点が変わった。俺の姿勢も。
背中から、落ちていく…!
まずい…っ!
本気で焦った。
身体をどうにかして捩じろうにも、余りにも高さが無く、逆転の目は無かった。
せめて、受け身だけでも、取らせて…
ばごんっ…!
“ぐっぇっ…”
雪は、幾らか、Vojaの全体重が俺を圧し潰す衝撃を、幾らか緩和してくれたのだと信じたい。
それでも、バウンスした後頭部に走る衝撃、腹の内側で弾けた臓物の痛みは、
俺が神様としての傷跡を覚えていたので無ければ、容易く失神させられていたところだ。
そして―
“…やはり、人間仕込みの業を隠し持っていやがったか。”
首元にしっかりと押し込まれた、
Vojaの牙から、どくどくと溢れる、血。
“だが、残念だったな。”
“こちらも、対人間用の備えは出来ている。”
“奴らは相手を、騙すことを念頭に置いて動く。”
“生身でのぶつかり合いでは、敵わないからだ。”
“初めは足元に、罠を蒔いた。それで狼を絡めとるのには、十分だと考えたからだ。”
“そして、それが実を結ばぬと知るや否や、彼らは翼をもたぬのに、上空から鉄の牙が付いた枝の雨を降らせることを選んだのだ。”
“風を切る音だけで、空飛ぶ枝の切っ先を躱すのは、簡単なことじゃなかった。”
“誰かの毛皮に深々と埋められて、初めて、そいつの方角が分かることだって、何度もあった。”
“立て、Fenrir。”
Vojaは、血の滴る牙を、ぐちゅりと音を立てて抜き取り、口の中に仕舞う。
酷なことを言うものだ。
四肢を張ったまま、ひくひくと痙攣させている俺に対して。
まだ、戦う意思があると見做している。
まだ、俺には、彼の憎悪を注ぎ込む余地があると、いや、そうしなくては、気が済まないと、
今や彼の尾や、表情、一挙手一投足から読み取れるほどに、滾っている。
“だが、それさえも、群れへの十分な接近を許さぬ立ち回りと、それを可能にしてくれる縄張りへの敬意があれば、乗り越えられた…!”
“立てと言っているっっ!!立てっっ…Fenrirっ!!”
“それでも、俺達は負けたのだ…!”
“俺達は…仲間が助けを求めていたのなら、何処へだって飛び込む…!”
“あいつらは、それを嘲笑うように、利用したのだ!!”
“人間の土俵で勝とうとしても、絶対に無理だ。”
“あいつらの真似事で、あいつらに太刀打ちできるはずがない。”
“お前はそれを、分かっていると思っていた…!!”
“俺は、お前に、期待していたんだっ!!”
“お前が、狼から外れることを…”
“だがそれは、人間らしさを見せることなんかじゃなかった…!!”
“見込み違いだったか!?”
“本当に、お前は…?”
こんなに、速いのか…?
それとも、己の衰弱ぶりに、気付けない程、手遅れなのか?
いよいよ、乖離し始めた。
噛み付きの攻撃に反応しきれていない。
直感に基づいた狼の動作、それに身を委ねるのを怖がり始めている。
一度の敗北は、確実に俺から自信と言う名の毛皮を剥いでいった。
“うぅっ…?”
さっき、学んだだろう?
一度体制を崩されたなら、脚を突っ張ってでも、相手の口元を自分から突き放すんだ。
でないと、腹の薄い毛皮に
“……っっ!!”
柔らかく、深々と刺さる。
声にならない悲鳴が、喉にいがいがと絡まって痒い。
Vojaはすっと地面を蹴って距離を取ると、また俺が反撃の目を光らせるかどうかを慎重に探った。
後は、俺を沈める為の作業。
どうしたら、負けないかを考える、相手の光を潰す、慎重でいて、傲慢な手続きだった。
“ひゅーぅ…ひゅぅぅ…ひゅぅぅ…”
“どれだけの仲間を、あいつらに奪われたと思う?”
“俺の家族は、5匹だっ…!そう言ったな!?”
“後ろ足を縛られて吊るされ、叫び声をあげるためだけに、俺にその声を聞かせるためだけに、殴られ続けたんだっ…!!”
“そうして…息絶えるまで…っ!!”
“……っ”
“俺の仲間は、数えきれないほど死んでいったっ!!”
“今のお前は、そいつらより幸せだと言ってやるぞ、Fenrir!!”
“助けを呼ぶ、彼らの辛さを想えば……っ”
“あいつらにっ…あいつらにっ…!糧とされたのだっ!!”
“人間同士が戦う為だけの血にっ…!!”
駄目だ、動けない。
確固たる意志を持って、動けない。
どう仕掛けても、手酷く返される。畏怖の観念に、囚われ始めているのが、自分でもわかった。
俺は、棒立ちのまま、虚ろに空を眺めた。
どうして俺は、意地っ張りだ。
本気で焦らなくてはならない。
身体が、重たい。彼の警告した通り、甘噛みの出血量では無いはずだ。
身体の自由を奪われるのは、もう沢山なのだがな。
しかし何が起こっているかを理解するのさえ、ままならない程、頭に血が回っていないのだ。
二つに一つだ。
負けを認めて転がり、命大事に弱々しく尻尾を振るか。
今後の関係を顧みず、力の一端を…
何を考えているのだ。そんな選択肢は、端から無い。
俺はこいつに、生身で勝ちたい。
でなきゃ、俺のことを、誰も狼と認めてくれない。
彼女でさえ、俺を、
怪物として、見るだろう。
はっきりと、わかったんだ。
誰も、この世界で、期待しちゃいない。
俺が狼であることを。
俺は、前脚を広げて構えた鼻面を支えきれず、到頭地面に落としてしまった。
“決して、自分から…腹を見せてはくれないのだな。”
“それで良いさ、Fenrir。”
“こうやって、脚でお前を転がしてやることも出来るが…”
“それも、俺のやりたいことじゃない。”
グシャッ
頭の中で、何かが弾けた。
ああ、がっかりだ。
心底、失望させられた。
俺は、自分よりも強い相手に出くわした時、わくわくさえしない奴なのだ。
こいつより強く在りたいだとか、どうにかして打ち負かしてやりたいだとか。
そう言った類の感情が、まるで湧いてこない。
じゃあ、どうして、あんなに足掻けたのだろう。
運命から逃れるために、必死だった。
果たして、そうだったか?
俺は、もっとお利口な仔狼だったはずだ。
皆が幸せに思うのなら、俺がこうして、雁字搦めに縛り上げらることで、皆が喜ぶのなら、
その方が良いと考えるような、都合の良い人間だったはずだ。
どうして、最後まで、あいつの名を呼んだ。
どうして。
俺はまだ、拠り所を、自分に置くことが出来ない。
生きる意味は…
自分に在れ。
貴方は、そう言った。
その意味が、まだ、この期に及んで、わからない。
Lukaが、傍らに立っている。
毛皮が、温かい。
俺の首元に、何かが触れている。
俺の首の下に、毛皮を埋めて。
手遅れだと分かっているのに。
止血しようと、必死になっている。




