2.トランシルヴァニア横断
2. Traverse the Transylvania
ウォォォオオーーーン……
アゥゥォオオオオーーーーーーー……
その美しい二吠えが、初めて聞いた彼女の言葉だった。
まさか、反応があるとは思いも寄らなかった。
ある種、そんな期待を込めていた自分を、否定しない訳では無いが。
こんなにも早く、この世界の住民と出逢える機会を手にできて、まずは一安心と言ったところか。
「直ぐにでも、接触を試みたいところだが…」
「くそっ……」
この猛吹雪、迂闊には動けまい。
「あまり、歓迎されちゃ、いないようだな…」
これが知悉した嘗ての縄張りの中であったとしても、出立を躊躇うほど、劣悪な気候条件だったのだ。
少し周囲を歩いただけで分かったが、相当に厳しい環境を、ここらのパックは生き抜いている。
第一に、この積雪量。降り立った場所が悪いのもあるだろうが、俺の身体が、ともすれば顔まで埋まりかけるほどの雪原だ。
これでは、遅かれ早かれ勾配感覚を失い、山麓をどちらと見定め進んで行けば良いのか、見当もつかなくなるだろう。
実際、僅かに垣間見た全貌も見失い、今の俺は、周囲の地形が、全くと言って良いほど掴めていない。
ホワイトアウトに見舞われれば、あっさりと方向感覚を見失い、元居た場所すら戻れなくなると想像できる。
第二に、越えるべき山陵が、余りにも険しいことだ。
極低温こそ、さして俺の身体には応えなかったものの、自分自身の息の浅さが、物語っている。
此処は明らかに、狼が暮らして良い高度じゃない。
寒さこそ微塵も感じられなかったが、いつまでもこの吹雪の中に当てられれば、体力は物凄い勢いで消耗して行くだろう。獲物だって、寄り付かないに違いない。
不本意ではあったが、初めから狼としてすべてが与えられていた俺には、洗礼と呼ぶのが、相応しいのかも知れない。
俺は幸せだった。あの狼が、全てを託してくれてたから、俺は一匹でも、どうにか生き抜いて来れた。
そこで培われた経験など、この環境の前では、少しも役に立ちはしないのでは無いかと、不安に駆られる暇は無いのに。
吹雪で足が沈み込むたびに余計な体力を使わされる煩わしさを感じつつ、あの遠吠えを思い返す。
「しかし、妙だ…」
吹雪に混じった微かな音色。
それが、俺以外の狼の存在を示すことは、疑いようも無かったが。
その声自体は、明らかに良くない兆候を示していたからだ。
「一匹だけ、だったように聞こえたぞ…」
本来であれば、有り得ないことだ。
しかしそう聞こえただけ、ということが、俺の耳において、万に一つもあり得るだろうか。
遠吠えは、複数によって行われ、更に実際の吠え手の数以上に聞き取れるよう、重ねるようにして謳われるのが常だ。
つまり、その狼は今、限定的に一匹で行動していることになるだろう。
そして、俺の吠え声を聞きつけたということは、俺が余所者―縄張りへの侵入者を検知したことを意味する。
にも拘らず、返された掠れ吠えは、一切の警戒の音色を伴わなかった。
遠吠えが互いの群れの諍いを避ける役割を、まるで果たしていない。
意味するところは、何だ。
その狼は、完全に孤立している、ということだ。
「一匹狼、だと…?」
この時期に…?
相当に恐れ知らずな狼がすることだと言って良い。
踏み切るとしても、繁殖期の番が見つかる、春先にすべきだ。
土地勘が無いので、何とも言えないが、少なくとも今は、雪解けの季節ではあるまい。
つまり、そうせざるを得なくなった―パック内での衝突か何かがあって、逸れた狼が、この近くにいる。
どうやらパックを離れた狼は、新たな新天地を求める代償として、こうした死線の峠を越えることを強いられていると見える。
その狼の存在と合わせて、ようやく理解できた。
此処は、緩衝領域であるのだ。
隣接する群れと群れが、過剰な争いを避けるため、縄張り同士の間に設けられた、僅かな隙間のことを指す。
曖昧に広げられた境界と言っても良い。そこはどちらのものでもないが、その先へは決して踏み入ってはならないと互いに了解した、言わば信頼が生み出した歪み。
それ故、緩衝領域には、狼の標的となる動物たちが安全な住処として集まりやすく、
どちらの群れにも属さぬ半端物が、番を求めて彷徨う、密地でもあるのだ。
山陵が境界となることは、極めて自然で、それ故に産まれてしまった、死の領域。
そして、次なる出会いを求める狼の命運を分ける分水嶺に、こうして何も知らぬ愚か者がまた一匹、迷い込んでしまったと言う訳だ。
「……。」
…だとしたら、あまり、有望な接触相手では無いか。
接触の目的は、人間の住処の特定だ。
それまでの仮住まいとして、パックに溶け込むことが出来れば、生存率も高まり、情報網も増やせる。
そう考えると、得られる情報も乏しく、狩りにおいても、足手纏いになるだけか。
よんどころない事情での離脱と考えれば、怪我を負っている可能性が十分に高い。
現状を鑑みれば、益々、取りたい戦略とは言い難い。
これだけ大きな肉球で踏みしめて尚、数歩進むたびに、ズブズブと沼のように沈み込む脚。
歩調を休め、周囲の地形を探ろうと鼻を上げるも、風雪で何も匂いが分からないままだ。
「しかし、あの声…」
助けを求めているように聞こえたのは、俺自身の逆境の鏡写し、それだけだろうか。
とても、無視して突き進むことは出来なかったのだ。
「……。」
聞こえた方角だけが、目隠しをされた脳内の世界に、木魂することなく、明瞭に示されている。
彼方の方から、あれから一度も呼びかける声は無かったが。
もしや既に、力尽きてしまった後、だろうか。
「そいつから、逸れた元の群れの居場所を聞くとしよう。」
それが、今できる最良の選択だ。
次にいつ、接触の機会にありつけるかも分からないのだ。
この好機を逃す手こそ、寧ろ無いと思いなおした。
怖がる必要なんて、何もない。
役に立ちそうに無いと分かれば、その場で見捨てれば良いだけの話でもある。
利用できるものは、何でも利用して行けば良い。
それに。
それに、放っておくのだけは、自分自身に対して、許せない気がしたのだ。
誰であっても良い。
まずは、この世界との繋がりを持つことだ。
そうすれば、きっと物語は、そちらの方から景色を早めてくれる。
彼方の、方角だな。
「待っていろ……」




