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22. 月の出の狼煙

22. Beacon of Ithil


「ふぅ…思ったより、長居してしまったぞ。」


収穫はあった。

あいつはもう、俺に心酔しきっている。多少罪の意識があろうとも、これからは盲目的に仕事をこなすだろう。


夜明けには、群れに合流する予定でいたのだが、

見とれて、しまった。

あんなに、手際が悪く、締まらない寸劇に付き合わされたのに。


悪くない、と思った。


人間にしか、出来ない所業だ。

これこそが、俺が求めていた、最もやりたくなくて、それ故人間を操りたいと希っていた理由である気がしたのだ。


実際に、街並みが青の世界を迎えるまで、見物していただけの俺でさえ、腹と胸を行ったり来たりする、興奮と罪悪感を混ぜ合わせた気分は凄まじい新鮮さがあった。


強がることを、せずに言おう。朝が来なければ、俺は、あれを見続けることが、出来ないだろうとさえ思った。

だから、俺が降り立った世界に、ミッドガルドに太陽があって良かった。


しかしあいつは、別だ。

Sirikiには、喩え日に光の届かない地下世界でさえ、あの所業を厭わず続けられる人間であって貰う必要がある。



何という、表現形態で呼べば良い。あれは。



兎に角、これで契約は、完了した。

もう、反故にすることは許されない。


彼方にも晩には顔を出すと言ったが、暫くは、Sirikiの方は、放っておいて良いだろう。

俺が一度、ヴェリフェラートから姿を消すと言った時の、あの絶望した表情、見ものだったな。

まるで、檻から出られない獣が、また会いに来てくれるよねと、媚びるようだった。

そんな顔をしなくたって、ちゃんとお前は俺の興味を惹くことをやり遂げたさ。


やれやれ、二つの世界を行ったり来たり、忙しいことこの上ないぞ。

‘身体が二つ欲しい’ などとは、良く言ったものだな。






城壁を抜け、俺は強烈に吹き上げる春風に目を細める。


“……っ!!”


気持ち良いなど、普段の心持ちであれば、浮かび上がって来ないような感情の噴出に、戸惑ってしまう。

俺が捨てられた森で経験した、飢餓の苦しみから、死の淵から救われた直後に見た春の景色が胸を打つ衝撃とは程遠いけれど。

俺は余程、Sirikiの回答に、鬱屈させられていたらしい。


この風も、雪を完璧には溶かさないだろうな。どうかこのまま、冠雪の地であってくれ。

どうせそう願っても、春はやって来るのだろうけれど。


「Luka…怒っているだろうな…」


手土産の一つも、持って来てやれなかった、

これでは、機嫌を直すことも、難しいのでは無いか。



正直、昨日の衝撃が大きすぎた。恥ずかしながら、Lukaのことが気になりだしたのは、Sirikiが家を燃やす為に、暖炉の火を、燃えそうな調度品に片っ端から移し始めてからのことだった。

だから、腹ごしらえと言う名の貢物を要求するには遅すぎたのだ。


あいつの所持金から数枚の金貨をお布施として頂戴すれば良かった。火事場の見物で機能していない近隣を抜け、早朝の市場まで何か買って来いと使い走らせることも、後から考えれば、出来なくも無かったか。

でも、あの顔では、動揺を抑えきれず、一般市民として振舞うことさえ、難しそうだったものな。

かと言って、自力で調達するには、あいつと一緒に時間を潰し過ぎた。

日中に盗みを働けるほど、この国は犬や狼に寛容では無いらしい。


また、ヴォジャの狩りに参加し、手柄を立てるぐらいの埋め合わせは、しなくては。

余り時間を空けると、狩りの腕も鈍る。今回は、本心から乗り気であると示せるだろう。

人間臭い街の空気は、うんざりするし、狼として生きる時間も、ある程度は確保したい。

そもそも、俺の潜伏先として、群れで暮らすことは必須なのだ。

今のところ、上手く立ち回れてはいる。


大狼としての、いや、神様としての力を意図的に行使してしまう点に目を瞑れば、の話だが。

感情を制御出来ていないと言いたいわけでは無い。

ただ、やはりこの身体では、人間の補助無しに事を為すのは不便過ぎる。

駒も手に入ったことだし、いずれ、完全に身を隠すことが出来ると信じよう。


幸い、この国は、思った以上に荒れている。通常、敗戦国となるには、余りにも惜しい規模のそれだ。

神様の介入があったことは、まず間違いない。その残滓が、多少なりとも、俺の痕跡を追いづらくしているのは、僥倖であると言えた。


が、更に一歩踏み込んだ行使、ルーン文字に頼った、神様としての活躍は、もう少し我慢だ。

ヴァイキング勢力の手が、ヴェリフェラートの深い根まで渡るまでは、待とう。

ルーンの力が横行した国内でなら、俺が綴った呪文も探知されることなく、自由に動けるようになる。

俺が、嗅ぎ当てられるようになる頃が、そのサインになるだろう。

それがいつになるかは、此方からのアプローチ次第だ。


そんなに、受け身でいるつもりは無い。罠だとしても、寧ろ、飛び込んでいくつもりだ。

駒を手放すことになれば、それは惜しいが、切り離せる意味で、既にリスクは取れる形なのだから。



…まあ、今はじっくりと骨休めだ。

こうして、人間の領域と、狼の領域で居場所を確保できるまで、大変だった。

初めから、どちらか一方だけでも与えられていたのなら、それは恵まれていたのだと痛感させられる。


流石に疲れた。彼女の隣で、ゆっくり丸まって眠りたい。



Lukaと袂を分かった場所を、敢えて通り過ぎるようなことをする。

振り返れば、くすんだ鼠色の王壁が見える。あの中に吸い込まれていく俺の姿を、彼女はいつまで見送っていただろう。一度も、振り返ってやることを、しなかった。


臭いは勿論、まだ強烈に残っていた。半日と少しも経っていない訳だし、雨でも降らなければ、まず狼が見失うことは無い。


しかし、風の運んだ僅かな積雪が、その場であったらしい出来事を、見た目には覆い隠してしまっていた。

微笑みを湛えるような表情で臭いを鼻の裏に集め、毛皮を擦りつけようと膝を折ったところで、凍り付く。


“……っ!?”



血だ。獲物の臭いも、少し混じっているが、濃すぎる。


彼女のものか。

いつ、どうして?





―――


“お願い…行かないで…!”


“私…”


“苦しい、んです……”


“俺は忙しい。Vojaに…介抱して貰うが良かろう!”


“そんなんじゃない…!そんなんじゃなくって…!”


―――




“ば、馬鹿なっ…!?”


あれから、何があった?


まさか、狩人に襲われたのか…?

いや、違う。あの場に、半径数キロに、そんな殺気は無かった。

引き摺るような臭いのトレイルも無い。怪我をしているのでも、無いのだ。

であれば、これは、嘔吐の痕だと結論するのが自然。

彼女の胃袋から吐き出された獲物に、血反吐が混じっている。


病気か?だとしたら、その前兆に何故、気付けなかった?

ずっと一緒にいたのだ。見逃すはずが無い。

気のせいだと、思いたかった。


“Lukaっ…!!”



“ウッフ…ウッフ…!!”


“返事をしてくれ…Luka…何処にいるっ!?”


自分で、群れまで戻れる距離…いや、病床では、そんな目測、少しも当てにならない。

近くで、衰弱したまま、埋もれていないか?




嫌だ。嫌だ。嫌だ。




頭が真っ白になった。俺は追われる獲物のような余裕の無さで走りだす。

そんな形容が出来るのも、俺もまた、狼に命を追い回されるような経験があったからだ。


後ろ脚の噛み傷を懸命に庇いながら、四肢を立てる彼女の姿が脳裏に浮かぶ。

あのときのLukaは、まだ目に生気を宿していた。

きっと、自分の呼びかけに応えてくれた俺が、助けてくれると、信じていたからだ。


今や、そんな希望も打ち捨てられ、きっと、今度こそ、のた打ち回る気力も削がれているに違いない。


苦しい、よなあ。




“そうだ…っ、遠吠え。”


なんで、そんなことも、狼の基本的な伝達手段でさえも、見過ごしてしまうんだ。

よっぽど、動揺しているんだな。


喩え彼女が、吠え返してくれなかったとしても、群れの誰かが、情報をくれるはず…


“アウォオオッ…ゥゥゥゥッ、オオオオオオーーーー……”


息が乱れて、聞くに堪えない。

産まれて間もない若狼でも、もっと上手く吠える。


“俺だっー!!…Fenrirだっーーー……!”


“Lukaはっ…Lukaは群れにいるかっ…!?”


“居たら、教えてくれぇっー…返事を、してくれぇっ…!!”


“頼むーっ…”


“ルカァァァッッッ……っ!!”




“……。”




駄目だ。


すぐ、そこにいるのに。


“くそっ……”


きっと、ヴォジャのせいだ。あいつが、俺に呼応することを許す筈が無い。

他のメンバーは、小さな唸り声だけで、合唱を止めるだろう。

それとも、誰も、吠える資格がないとでも思っているのか。

昨日の自分を、激しく罵ってやりたい。何故、あんな風にして、勝ち誇ったような気分で、群れを去るような真似をしたんだ…。




どうしよう。もし、群れに彼女が、戻っていなかったら。

俺は、ヴォジャに、どの面を下げて、謝れば良い?


きっと、見つけ出して、介抱して見せる。

喩え神様としての一面が白日の下に晒されようと、知ったことか。




“Lukaっ…”


“ルカァァァ…”


雪解けが、俺の藻掻くような足取りを、ますます脆くする。


“るかぁ……あ、ぁぁ……”


“……。”



高熱に魘された、病床の獣は、

息が切れると分かっていながらも、繰り返し彼女の名を口にする、寧ろ俺の方であるらしかった。





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