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19. マーダー・ミトン

19. Murder Mitten


「う…、あ…?」


なんだ…これは?

頭が、ずきずきと痛む。

そんな表現では、到底物足りない。


頭蓋骨が罅割れて、その内側から、大事な脳液が噴出しているみたいだ。

誰かに、後頭部を、殴られたのだろうか。僕は入店した酔っ払いの徒党に襲われたのかも知れない。


戦地での自分は、よほど運が良かったと言う他無い。

怪我らしい怪我をすることも無く、逃げ帰ってきてしまった。

強いて言えば、拾った行商馬にはじめ気に入って貰えなかったのか、落馬して呼吸が止まるくらい激しく打ち付けられたことぐらいだ。それも、深雪だったから良かったけれど。

そして今も何故か、脱走兵としての罪を咎められずにいる。

きっと、この国それ自体が、もう機能していないからだろうけど。

それすらも、タイミングの良さについては、運が良かったと言うことしかできない。

もっと早い時期の徴募だったら、ヴァイキング相手により善戦していたなら、きっと、こうはなっていない。


「……っ」


初めて感じるような痛みだ。

顔をしかめると、それはもっと激しくなった。

頭を酷くやられていることは、確かなようだ。



辺りを見渡してみても、真っ暗だ。自分が、冷たい床の上を、壁を背にもたれ掛かっていることだけ、わかった。

全部捥がれているみたいに四肢が冷え切っていて、最初、ぞっとしたけれど。

でも、感覚はあった。拘束されたりだとか、そんなことには、なっていない。


そして、次第に眼が慣れてくると、朧気ながらも此処は、自分の家―見慣れた店内だと分かった。

それだけで、心底ほっとする。

誘拐なんて、してもしょうがない身と思っているけれど。それでも先に言ったような、罪の意識は絶えず付き纏っていたから。ある日、何の前触れも無く、気が付いたら拘束され、牢獄に捕らえられていた、なんて展開を想像しては、一人勝手に怯えていた。


それは、殺人鬼に扮した僕が、次なる標的を物色する徘徊の最中で、同じような目的を持った誰かに出逢うことよりも恐怖していたことだ。


何…してたんだっけ、僕…


思い出せない。いや、思い出そうとすること自体が、脳髄まで刺さった楔を抜き取る行為に等しく、思い切れない。


「げほっ…ごっ…ごほっ…」


喉を湿らせていた水分が、全部凍ってしまったように、張り付いていて、まともに声が出せない。

その上、咳をするのに僅かに頭を揺さぶっただけで、吐き気が込み上げて来た。


「うぅ…」



水が飲みたい。

水じゃ、駄目だ。恐ろしいほどに冷え切っているのに、まだ、身体が目を醒ましていないだけで、直に、歯の鳴る音を抑えられないほどに、震えだすだろう。


どっちが先だ?薄っぺらいけれど、外套を身体に巻き付けるのと、

火を起こして、指先からだけでも感覚を取り戻すのと。


まず、灯りだ。

身体が記憶している輪郭だけで動き回るには、余りにも真っ暗だ。


この感じだと、暖炉の火も、消えちゃっているな。

こんな時に限って…面倒なことになった。一から、起こし直さなくちゃ。


一々、着火するのは手間がかかるから、灯したままにするのが普通だ。

それに、この土地で一晩でも暖を失ったまま眠れば、翌日には氷のような低体温になって目覚めるか、最悪そのまま死んでしまうに違いない。


氷漬け、嫌なことを思い出したな。


背中をずりずりと擦り、足を突っ張って、どうにか立ち上がる。

半歩先に手を伸ばせば、ダイニングテーブルの縁に触れる。そこから入り口の方へと伝って行けば棚の奥に、燧石(Firesteel)があったはず。


革袋の感覚が、指先で掴めなかったけれど、大きさで、どうにか、それらしいものを手に取る。

手の平に収まるほどの大きさの、楕円形の金属輪(Straiker)に指を3本通し、震える手で、(Flint)の鋭い歯形を、手で何度も持ち換えて探る。


カチャンっ…


ごとんっ


「くそ…」


握力が無い。打ち付けられた側のフリントが、音を立てて床に転がった。

左手に息を吹きかけ、それでも足りずに首元を掴むと、恐ろしいほどに体温差が感じられなかった。


次第に、背後に言い知れぬ悪寒が、覆いかぶさって来た。

やっぱり、マントを肩に羽織るのが、先だったか。


「早く…しなきゃ」


がっくりと膝を折り、耳だけを頼りに、床の上に手を滑らせる。

そんなに、転がっていない筈だけど。

なんだ…?何か、濡れたものに触れなかっただろうか?


あった、これだ…よな?

手先が、厚手の手袋を嵌めているように鈍くて、いまいち確信が持てない。


先の一撃で、火花は僅かに散ったのが見えた。

今度は、火種の上で、擦ろう。


よろよろと足を引き摺り、テーブルの向こうへと壁伝いに歩いて行く。

その間にも、体温は煉瓦に擦りつけられて行った。道中で、自分の外套が掛けてあるコートスタンドに寄り道をすべきだったけれど、気付いた頃には、後戻りする時間さえも惜しい。

真っ暗闇の店内を縦断するだけが、無限に続く廻廊を思わせるなんて、勘弁だ。

すぐ終わる。




でも、何だろう。

道中…凄く、誰かの気配がする。


「ここに……」


どうにか、暖炉の前まで辿り着くと、薪が置いてある籠の隣にある棚を弄った。


ガシャーン!


やってしまった。多分飾っていた大皿が割れた。柄が気に入って、市場で衝動買いしたやつかな。

もういい。夜が明けたら掃除すれば。


「あぁっ…もうっ…」


そう思った途端に、全ての動作が雑になる。

火口箱を取り零し、僕は結局、床の上に撒き散らした火口茸に火花を落すことにする。


手に、濡れた感覚だけがある。箱から零した火口をかき集めようとした時に、さっき落とした皿の破片で切ったらしい。


段々と、自分に、腹がって来た。

こんな夜更けに、僕はどうして、こんな所で、眠ってしまったのだっけ。

それは、きっとこの灯火が明らかにしてくれることだろう。


そう思い込むことで、僕は火を起こす行為に全神経を集中させた。


カチンッ…カチャ、カチャ…


そもそも、僕はもっと、こうして自暴自棄になるべきだったんだ。

腹の辺りが熱くなるのを感じたのを良いことに、僕はここぞとばかりに、その思考に縋った。

もっと、酒に溺れて、路上で野垂れ死ぬか、大人しく反逆者として殺されるぐらいに、死に急ぐことを、どうしてしない?



僕は、妻を、

リフィアを、失ったんだぞ?






「点いた…!」


見た目は、何も変わっていないが、臭いで、そう分かった。

慌てて顔を近づけ、息を何度も吹きかけ、眼で見て分かるようになるまで加勢する。


そこに、テーブルから掴んだ燭台を傾け、ようやく僕は光を得た。


「ふぅーー……」


次は、それを暖炉に移して、マントを取って来て、椅子に座って、火にあたる。

火床に乗せられている鍋の料理も、食べてしまおう。吐き気はまだ収まらないけど、何故か同時に腹が減った感覚もある。

そうこうしている内に、朝が来て、僕は平熱と日常を取り戻すんだ。


中身、何だったっけ…思い出せない。昨日の夕飯。


待てよ、ひょっとして、空かも?

しまった。来客の一人も、来ないから、面倒になって、作り置きのスープも、止めちゃったんだ。


ダイニングに戻ろう。

そっちには、昨日の残りが、あるはずだから。

それを火にかければ、もう少し早く、まともに動けるようになるはず。


でも、本当に、何を食べたか。いや、作っていたか、思い出せない。



参ったな、こんなに、耄碌してしまうだなんて。

でも、願ったり叶ったりの、荒廃ぶりじゃないだろうか。

まだ罅の入ったままのような頭に手をやり、僕は誰にでもなく微笑む。



その時だった。






「っ…!?」


カウンターを覗き込んだ直後だった。


いつもの、入店を知らせる鐘の音も無かった。

それなのに、誰かが来た、と判った。


‘口’ が先に、動いたからだ。


勿論、出せる声なんて無かったけれど。



「……え?」


誰も、店に入った様子は無い。

しかし何故か、扉が開け放たれている。


「何…だよ、これ…」


月明かりは、暖炉で息継ぐこともままならない火種よりも、遥かに鮮明に部屋の様子を映し出した。



どうにか震えながらも身体を支えていた膝が、一度に崩れた。

背中から、ずるずると腰を落とし、僕は時間を巻き戻したように、初めの位置で目を瞑る。



店主ともあろうものが、昨日のメニューさえ、覚えていない。

それも、そのはずだ。







「…いらっしゃいませ。」




だって、賓客を持成す晩餐は、

まさにこれから、始まるみたいだったから。



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