18. 会食恐怖症 2
18. Deipnophobia 2
“Fenrirさん、待って…”
彼女が、俺の後ろを追いかけているというだけで、気分が良かった。
それだけで、俺はVojaとの決闘に、勝利したようなものだ。
あいつがどんな顔をして、群れ仲間に当たり散らしているか、想像しただけで胸がすく。
“待ってください…!!”
魅惑的にとは行かないが、今は思わせぶりに尻尾を揺らして、俺と並ぶまで、歩調を緩めてやらない。それぐらいしても良い。
“お願い…皆のところへ、戻って…!”
“一緒に来る気が無いなら、大人しく留守番していろ。”
“Vojaは、言い過ぎだわ…新しく入ってきたばかりの貴方に辛く、当たり過ぎてる。ちゃんと、謝って貰うように、私からも…”
“ああ言ったが、仲間に迎え入れるべきかを決めるのは、あいつだ。そこは何とも思っていない。”
“でもVojaは、本心では、貴方のことを、頼りたいと思ってます。”
“狩りには、これからも参加して、力を貸すと言った筈だ。”
“良かった…!じゃあ、戻って来てくれるんですよね?”
“あっちでの、用事が済んだなら、また顔を出す。”
“ほとぼりが冷めてからってことですか…?駄目です、それじゃあ、もう関係はずっとこのまま…”
“聞こえなかったか?Luka…”
ちょうど、雪解けの進んだ、開けた荒野に出たところ、
あの重々しい城壁が、幾分か鮮明に見えた丘の上で、立ち止まった。
湿った春の臭い。忌々しいこと、この上ない。
この世界は、この土地は、俺の降臨を歓迎しているのでは無かったのか。
追いついた彼女は、息の上がった吐息を立ち昇らせて、視界の端から、鼻先を口元に近づけようとする。
“呼んでいるのだ。”
“行かなくちゃならない。”
“一緒に来るのか?どうなんだ?”
“怖いか?”
“……。”
俺が、ぐいと顔面を近づけると、彼女は存外に可愛げな表情で戸惑った。
へたっぴな後退りも、愛嬌があって良い。
“そ、それって…私たちよりも、大事なことですか…?”
“そうだ。”
俺は間髪を入れずに、そう答えた。一切の躊躇も、彼女が嗅ぎ取ってはならなかったからだ。
“私の耳には、届きま…せんでした…”
“よ、呼んでいるって…”
“誰が…?”
“もしかして…”
“人間の縄張りにも、狼がいるんですか?”
あ、良い嘘だ、と思った。
どうして、それが最初に、思いつかなかったのだろう。
それならば、俺は幾らでも嘘で塗り固めながらも、狼同士の交流に勤しんでいるだけの変わり者を演じられただろうに。
いや、俺が持ち込む臭いで、そんな張りぼて、すぐに崩れてしまうか。
それに、そこから、幻想の別の群れへの移住、謁見を所望する狼が現れれば、それこそ大問題に発展する。
“それとも…人間の群れが、Fenrirさんのことを…?”
それもそれで、ちょっと、返答に迷った。
俺が、人間と密接な関わりを持っていることは、こうして既に、あの群れ全体に示された。
今頃、丹念に人間の料理の臭いを嗅ぎ、覚えようとしているに違いない。
願わくば、自分たちの縄張りの範囲で、それに出逢おうとするだろうが。それ自体は、大して、彼らの行動規範を変容させることはあるまい。
俺が、人間の群れの一員であると、此処で告げたなら、彼らの理解は変わるだろうか。
人間の中に、俺がこの群れよりも密接に関わり、大事に思っている奴がいると、知ったなら。
Vojaは、一体、どんな顔をするだろう。
裏切り者は、此処に居たのだ。そんな決意を決め込んで、今度こそ、俺を噛み殺すことに、命を賭すだろうか。
その材料を、自分で揃えてしまっている。浅はかだった。
これからだって、馴れ合いなど、一切してやるつもりは無かったが、俺が携えた土産は、彼らからの友好の印であると受け取られてもおかしくないような代物。誤解されるのに、十分過ぎるのは確かだった。
“貴方にとって、人間って…何なの…!?”
俺が今更、真に自分の利益の為に、人間を利用していると言っても、もう遅いところまで、来ている。
“……。”
『俺が、あいつらを、支配している』と言わない限り。
彼らから捧げられた、供物を裾分けしているだけだ、と。
直に、そうなる。
それは、明らかなことだ。
そうなれば、群れの皆が受けられる恩恵とは、俺のそれに等しいのだ。
だから、もうしばらく、待つが良い。
しかし、そうやって自己を顕示することは、
己が狼を逸脱していることを意味する。
それは、嫌だった。
どうして、なんて、説明できるものではない。
言葉で、どうしても説明してと言うなら。
これは、俺が、この世界に落ちたことで、初めて達成できそうな、自己だったからだ。
どれだけ、人間の形をした友との関りを持とうと、
ずっと、変わらなかった。
俺は人間になれないと知るや、寧ろ否定されると知るや、
しがみつくように、狼であることに固執した。
そして、狼という拠り所さえ、失ってしまった。
最後には、やはり怪物と言い放たれたままの身体で。
俺は、永遠とも言うべき琥珀の牢の中に囚われ、今も縛り上げられている。
“そうか…それで、わかりました…”
……?
何が、分かったと言うのだ。
人間との関りが、どういうものかを、か?
まあ、どのように邪推してくれても、構わない。
その通りだと言って、安心させてやるとしよう。
“その…前にお話していた…”
“テュールさんって方”
“っ……!!”
しかし、違った。
彼女の嗅覚とは、凡そ狼のそれを越えていた。
“…やっぱり、”
“『人間』、なんですね?”
“グルルゥッ…っ!!”
今度は俺が、Vojaの代わりに取り乱す番だった。
“だったら、何だと言うのだっ!!”
“貴方が殺したかったのが、人間だったってことです!!”
彼女はぎゅうと目を瞑って、抵抗するように吠えた。
それなのに、俺は益々語気を強めて、言い放つ。
“そうだっ!何か問題でもあるのかっ!?”
“でも、貴方が、探している人が、そこにいる筈ない…”
“何ぃ…?”
“だって、Fenrirさんは、あの北の山脈を越えて来たんでしょう?”
“ああそうだ!だが、誰でも良いとまでは言わないが、それでもあの城国にいるのは、あいつと同じ人間だ!”
“ねえっ…昔は、友達だったんですよね?”
“お互いの縄張りを、歩いて回ったって…”
“そのテュールさんって人が住んでいる場所も、Fenrirさんの縄張りも…”
“わからないっ!今、貴方がしようとしていることって…!”
“Lukaっ!!”
“くどいぞっ、お前がどんな風に願おうと、あいつの元へ戻るつもりは無いっ!”
“じゃあ、私は?”
“…?”
“……。”
“だから、お前が付いてきてくれると、嬉しいと思っていた。”
“それは、本当だ。”
ちらとだけ、想像した。
俺とお前が、どきどきとしながら、野良犬が潜んでいた路地裏を抜け出し、人の絶えた大通の中心を急ぎ足で歩く姿を。
“本当に、そう思っていたのだ。”
見せてやりたかった。
ちょうど俺が、あいつを俺の背中に乗せ、知悉した縄張りの中でも、選りすぐり絶景に、立たせてやったように。色んなことを説明しながら、時として、ちょっと驚かせるような演劇を仕組んだり。
死ぬほど後悔したような、介抱の失敗だって、しないだろう。
俺は、完全に、彼女の案内役になってやれる。
きっと、楽しい。
けれど。
“済まない。Luka…”
“三晩もせず、帰って来るから。”
“Luka…!お土産は、何が良い。”
“私も、行きます…”
“駄目だ。お前は帰れ。”
“どうして…!”
“今、お前が話してくれた中で、わかったからだ。”
“とんだ、お人好しであると。”
やはり、そうだな。
何処まで、近づいたのだ。
あの城国は、狼を狩るような風習を持たない。それはVojaが、俺を油断させるために吐いた嘘だと思っていたが。これではっきりした。
その、右脚の歯形。
人間が、仕掛けた罠によるものだろう。
それは、お前達の群れを壊滅に追い込んだという、蛮族による仕業では無い。
定住のものでなければ、こんなパッシブ・アプローチは取らない。
常習犯、だったのだな。
お前は、人間の群れに、それも普通では有り得ないレベルまで、近づいていた。
まさかお前、本気で思っていたなんてな。
“人間と友達になりたい、などと。”
早く気が付いて良かった。
危ないところだったな。
“Luka、お前のような奴だけは、絶対に連れて行けない。”
“お前のような狼が、いとも容易く、彼らに捕らえられるのだ。”
“そうなれば、俺は何て、Vojaに謝れば良い?”
“でも、でもぉ…”
“Fenrirさんが、私のことを、護ってくれるんじゃないんですか?”
勿論、そのつもりだ。
そう言えないことが、もどかしくて堪らない。
“今は、無理だ。”
俺が、早く、
一刻も早く、人間にとっての神様にならなくては。
そうしたなら、すぐ、俺はお前の、狼に。
“すぐ、迎えに行くから。”
“待って…Fenrirさんっ!”
俺は、到頭、尻尾を翻して、逃げ出してしまった。
彼女の足が速いことは、知っている。走効率では、俺より段違いで優れている。
狼として、競争したなら、俺は数時間の縺れの上で、彼女のペースに着いて行けなくなるだろう。
でも、今なら。
涙で覆い尽くされ、前の見えない、今のうちなら。
“お願い…行かないで…!”
“私…”
“苦しい、んです……”
“俺は忙しい。Vojaに…介抱して貰うが良かろう!”
“そんなんじゃない…!そんなんじゃなくって…!”
俺は、お前が間違って夢見た、狼だったんだと。
そう思って貰える。




