17.一切れの利益
17. Cut of the Profits
「なにぃ?…逃げられただあ…?」
ドン、と、ジョッキが置かれる音が響き、卓上のグラスが小刻みに揺れる。
お客さんは、5人だけ。
カウンターに並ぶ彼らが口を噤むだけで、店内は不気味なほどに静まり返った。
「お前が?リフィアに?」
イーライは、零れ落ちそうなほどに大きく見開かれた目を、眠たそうに瞬かせた。
縮れた髭の下に覗かせた笑顔が、みるみるうちに失せていく。
「あんな、お前にべた惚れしてた彼女が?」
「だから、言ったろ。きっと、愛想尽かされちゃったんだって。」
「おいおい…まじかよ…」
「ほんとさ。真夜中に逃げ帰って来て、ベッドを覗いてみたら、もぬけの殻だったって訳。完全に、冷え切っちゃってた。」
「シリキ、お前が帰って来たのは、いつだって言ったっけ…」
「えーっと…先週、末?」
僕はカウンターの後ろに屈みこみ、何かを取る振りをしながら、生返事をする。
「そんなこと、あると思うか?なあ?」
「…もしかしたら、何か、あったんじゃないか?」
「クロヴァドの言う通りだ。最近、物騒なのは、暫くぶりのお前だって分かるだろう?」
腰を上げると、彼は口元の髭を撫で、探偵のような面持ちで宙を睨んでいる。
「何かの事件に巻き込まれたってことか…?」
「まあ、そう思うのが、普通だよね。それは、僕だって疑ったよ。」
「でも、特段、荒らされた様子も無いんだ。見たらわかるでしょ?」
そう言って、僕は自分でも、店内をもう一度見渡した。
小さな飲食店ではあったが、それでも、カウンターに、こうして5人のお客さんを迎えて、後方に2つの4人掛けのテーブルと、中央に8人掛けの長机が並んでいる。
彼女が突っ伏していた、あの席ですら、傷一つ無かった。
だから、その日の食事だけ片付けて、そのまま使っている。
「食糧庫だって、たっぷりあった。客足が全然無かったのが、すぐに分かっちゃうぐらいにね…」
「じゃあ、誘拐…?」
「物騒って言うのが、どれぐらいのことを言っているのか、分らないですけど。僕は、困窮した市民が、些細な盗み…万引きをするので、商いをする側は困っているとか、そのレベルだと思ってました。」
「女一人狙って、というつもりこそ無かったにせよだ。酒を飲んで酔っ払った結果、手の付けられない悪事に走った徒党がいても、おかしくないだろうが。」
「イーライ…!」
「っと、すまん…」
イーライが苦い顔をしてビールを煽り、閉口する。
「まあ、そんな話、ここいらじゃ聞かない。ヴァイキングが好き放題やってるってのは、もっと都心部だ。治安は、まだマシな方だよ…」
クロヴァドはそう取り直し、僕に気まずそうに微笑みかける。
「良いんです、仮にもしそうだとしても。」
「それって、自分から姿を消したのと、何も変わりませんよ。」
「…僕にとっては、ですけど。」
「シリキ…」
コルク抜きを指で弄びながら、できるだけ、平静を装って、吐き捨てるように呟くつもりだった。
でも、二言目には、もう感情的だった。
「盗むものが、違うってだけでしょう!?」
「…リフィアのことが欲しかった、ってだけだ。」
「相手側から無理やりに奪ったにせよ、彼女は抵抗もしなかったんだ。消息を絶ったことに、誰も気付けないぐらいには、助けを求めることも、しなかった。」
「だったら、僕は、そう思った方が楽だって、そう言っているんです。」
「彼女自身が、酷い目に遭っていなければ、それで良いし。僕はそう思いたい。」
「……。」
「ごめんなさい。まだ、ちょっと受け入れられては、いなくて。」
「そりゃあ……そうだよ、な…」
「済まないな、何も確証もないのに、こんなこと言って…」
「ごめんなさい。僕の方こそ…」
「いけないな。ご飯も、お酒も、不味くなる。」
「腕が、鈍りました…大事なことを、忘れてる。」
「そうは言っても、一応、知っていたら教えて欲しいんです。」
「ウィルのところも、何も聞いて無い、ですよね?」
「ローワン。彼女のことを最後に見たの、いつだい?」
「ええ…ごめんなさい。シリキ。買い物の途中で見かけたりとかも…。私も、暫く彼女と会ってなかったわ。」
「そう、ですか…」
僕とリフィアも、彼らケンリス夫婦とは、家族ぐるみで、仲良くやっていたので、何か手がかりがあるかと思ったが、残念だ。
「探すつもりは、無いんだよ。全然。僕は、彼女の気持ちを、誰よりも尊重したいし。」
僕は笑って暗い表情を誤魔化し、二人にありがとうと伝えて、空のグラスにワインを注ぐ。
尤も、本当に、何かを知っているのだとしても、彼らは彼女からのお願い、口止めを優先することだろう。こんな風に聞き出しても、無意味であることは、この場の全員が、承知していることだ。
…何故だか、こんなに気まずい雰囲気なのに、僕はやっぱり気分が良かった。
僕だけが、嘘を吐いていながら。
誰よりも共感を集めているこの構図に、ある種の全能感があったのだ。
悲劇の主人公を、まさか自分が、こんなにも美しく演じられるだなんて、思ってもみなかった。
でも、実際、こうして、恰も一部の人にだけ打ち明けるような形で、皆に噂を広めて貰ったほうが、後々になって絶対に楽だと思った。
一々、同じようなことを尋ねられ、その度に傷口を抉られるのでは、堪ったものではない。
打算的だが、僕のことを、そっとしておいてくれるような前提づくりも込めて、今日は皆に来て貰っていた。
僕は、寡夫では無く。
嫁に逃げられた、哀れな道化である。
その顔で、やり直せる。
燭台の火と、暖炉の薪だけでは、薄暗くなってきた。この季節なら、夕飯時のサインでもある。
そうなったら、たとえ燃料が惜しかろうが、店内の雰囲気を演出するため、採光に労を惜しんではならない。
僕は、部屋に唯一設けられた、ガラス入りの窓に目をやる。
残りは全部、羊皮紙で、うすぼんやりとした光を透かし入れているが、大金を叩いて、一枚だけ、本物のそれを、はめ込んでもらったのだ。
とても、一般市民が手にして良いものではない。はっきり言って、看板よりも、目立つことだろう。
あれが、割れていないのが、僕が唯一、このお店を襲ったのが、少なくとも人間では無いと確信できる理由だ。
「そりゃ、2年も音沙汰が無かったら、俺でも諦めてるよ。」
「別の男見つけて、今頃幸せにやってると良いけどね。」
そう思いたい。それを否定など、誰一人できないはずだ。
「うちの嫁さんにも、聞いてみる。…別のとこの市場まで顔が利く訳じゃないけど、情報は、幾らでもあった方が良いだろ?」
「助かります、シギントさん。奥さん、元気です?」
「今ごろ、組合の商館で、暇ぶっこいてるよ。…お前も、帰って来たんだから、ちゃんと顔出せよ?」
「こうして、またこの町の一員として、復帰する訳なんだからさ。」
「ええ…」
組合、というのは、僕やイーライのように、商いを生業とする市民が集まる自治会のことだ。
皆で少額の金を出し合って積み立て、いざという時に、その恩恵を受けられるように、協力しあっている。
例えば、店を移転するとか、結婚式を挙げるとか、そういうライフイベントにとって、強力な支援となる。
逆に、店が損壊したとか、誰かが亡くなって、一時的に経営が立ち行かなくなったりとか、そういう際に、真っ先に駆けこまなくてはならない場所でもある。
実際、僕が戦地に赴くことが決まった時、彼女の面倒を見てくれと頼んだのも、この商会だった。
同業者の全員が、僕の不在を知っているのは、こういう密な繋がりがあるからなのだ。
その折には、シギント夫妻に、本当にお世話になった。未だにこうして気にかけてくれているのも、彼らの息子ぐらいの年代だからと言うのもあるだろう。
彼も、見ないうちに、だいぶ白髪が増えたような気がする。
「商会は、近隣国との取引ルートを確保するために、かなり苦労している。君のような若手が、活躍して貰わないと、立ち行かないのさ。」
「銀貨の質も、落ちているって話だ。お前も気をつけろよ?」
クロヴァドが軽く身を乗り出し、誰もいない店内であっても、声のトーンを一段下げる。
「気をつけろって…何を?」
ローワンが、間に割って尋ねる。
「新しい貨幣の流通の噂が広まっているってことさ。」
「行商人が持ってきた話なら、用心しないといけませんね。国が流通させている貨幣の力が弱まって来ると、取引にならないって言うので、市参事会とか、教会の信用の証として発行されたものの方が、価値が高かったりするんです。」
僕がそう補足する。飽くまで、見聞きした話でしか無いが、僕らの間では有名な話だ。
「軍事費の拠出で、市場にデナール銀貨が減り、代わりに質の悪い鋳造貨幣がはびこっている。説明はつきます…」
「へえ……品位の低下《Devaluation》か。」
「いよいよこの国も、終わりってことか。」
「別に、支配階級がどうなろうと、我々商会のはたらきに、変わりはない。必要な取引に、必要な信用を、交換し続けるだけだ。」
「その通りだ。」
イーライも、こればかりは、険しい表情で、ジョッキの底を睨む。
「…まあ、そういう訳だよ。戦争がこれだけ長引いたんだ。我々も、決して力の強い商会でも無いから、もう免れることはできまい。一度、崩れ始めれば、あっという間だろう。」
「別に今になって始まったことでは無いが、最近になって、そういう話が、顕著になって来ているのさ。」
「ありがとうございます。シギントさん。今度、市場へ行ったときに、そこら辺の情報も、探ってみますね。」
「ああ、頼むよ。シリキ。」
そして、こんな些細なやり取りでさえ、僕は不愉快な疑念を抱かざるを得ない。
それなりに、重要な会話だ。彼は、この場で、嘘を吐くだろうか。
何のメリットがあって?ただ、僕にこれ以上の感情の起伏を持たせないために、黙っていても、良い内情では、無かっただろうか。
それとも、皆に周知された、終末の噂なのだろうか。
馬鹿らしい。
この場で嘘を吐いて許されるのは、僕だけだったはずだ。
「…お、ちょうど、出来たみたい。」
僕は、背後の鍋蓋が立てた、微かな金属音で、振り向いた。
「皆さん、お待たせしました。料理よそうから。奥の席に、移動して貰える?」
「やっとか…待ちくたびれたぜ。」
「すみませんね。寒かったでしょ。閑古鳥鳴いているせいか、全然、温まりが悪くって。」
「今年の冬は、どうかしてる。空きっ腹に沁みるのなんの…」
食前の酒だけでは、身体も温まるまい。彼らは入店前から、コートの類を脱がずにいた。
初めから、暖炉の傍の席に案内すれば良かったけれど。彼らの会話を遠巻きに眺めるのも、それはそれで億劫だと思ったのだ。
こうして、調理に気を逸らしながらでないと、こうやって、腹を割った風に話すことなんて、出来やしないから。
「でさ、これなんだけど。」
「おっ!なんだ、高そうな酒じゃねえか。」
イーライが、犬のような舌なめずりをする。
「ラベルだけ見て、判断してない?でも、確かに、良い酒に見えるわ…」
「今日、買って来たの。リシャーダまで行って。」
「おいおい、まじか!奮発したんだな!」
「料理に合うかは、ちょっとわからない。味見して、つまみは臨機応変にってことで。」
「知らない文字ね。どこの国のものかしら…」
「原料は、何だろうな。麦か?葡萄か?」
「珍しいってことは、確かだ。まだ、品ぞろえも完璧で、好きなものが買えていた頃でさえ、見たことが無い。」
「でも幾らだったと思う?これ…」
「ははっ…こいつは、俺に盗まれないように、大事に奥にしまっておくんだな…!!」
「店に出すかは、皆の感想聞いて決めるよ。」
「それじゃ、シリキの帰還と、彼女の無事を祈って…」
「じゃ、かんぱーい!」




