16. 良く煮込んだ脚肉
16. Stewed Haunch
“ウッフ!…ウッフ!ワゥゥツ!!”
俺の姿を認めるなり、耳をぴんと張っていた狼の、けたたましい吠え声が聞こえる。
案の定、群れの移動はまだであった。
“Fenrirさんっ…!Fenrirさんっ!!”
真っ先に俺の元へ駆け出したのは、やはり彼女だった。
尾を振るでもなく、首をかしげるでも無く。じっと身体を強張らせていたのが、弾け飛ぶような、感情の発露に、ちょっと彼女らしいなどと、安心する。
逃げ出したりなんか、しないぞ。そんな、全速力で、走り寄って来なくても。
“ああ、たった今、帰ったぞ。”
悠々と尾を振り、今日は、そんな彼女を迎え入れるだけの余裕があった。
何だか、とても、清々しい気分だ。
一回り、成長したような気さえする。
きっと、最大の懸念だった大仕事を、上手くやり遂げたからだろう。
人間の縄張りへの潜入、スカウトは、大成功だ。
春らしい寒さの緩みも、鈍色の空から降りだしそうな霙も、笑って許してやれる。
皆の様子も、変わったところは無いな。
俺たちが先日仕留めた獲物の大腿骨を若狼が転がし、それを遠目から、気怠い昼寝から目覚めた壮狼らが眺めている。微妙な肉の匂いを放つ死骸も、見当たらない。そろそろ、誰かが声を上げさえすれば、次の狩を始めようかと言ったところか。
それだけで、特段、俺を気に留める他の狼の様子もない。
後は、群れの長が、俺のことを、どう迎えるかどうかだが。
今は、お嬢様との邂逅が先か。
彼女は全身を弾ませ、湿った雪を蹴散らし、獲物を逃したかのような勢いだ。
舌を垂らして口角を上げ、ともすれば、涙目では無いか。
ほんの、二日だ。群れを離れただけだと言うのに。
俺は、とりあえず、されるがままに、彼女の突進を、迎え入れてやることにした。
“お゛わっ…!?”
しかし、又もや俺は、自身の身体が、彼女とそんなに変わらない事実を、分かっていなかった。
想像以上の衝撃に、容易く新雪へ深々と押し倒される。
“グルルルルゥゥゥゥッ!!”
“ま、待てっ…Lukaっ…”
“なんで…なんで、黙って行ってしまうんですかぁっ…!!”
彼女は、狩りのやり手だ。それも、頭で理解しているだけ。
俺が身を捩って抜け出そうとするのを、四肢の鉄格子で、巧みに封じ込める。
仰向けになぞ、なって堪るものか。そう意地を張って藻掻いていると、俺の鼻面を包む甘噛みで、はっとさせられる。
“捨てられたと思った…!”
“す、捨て…?”
Vojaの奴は、俺が群れを去ったことを、なんとLukaに説明したのだろう。
まあ、それぐらい、はっきりと告げてくれた方が、彼女に変な期待を持たせなくて済むから、助かるのだが。
“Fenrirさんのばかっ!ばかっ…!”
“わかった、わかった。俺が悪かっ…”
“ほんとに、あと一日、日が暮れたら、行っちゃうところだった…!!”
“っ…?”
“私は、貴方がどこかへ行っちゃったら、じっと待ってなんか、いられませんから!”
“私だって!群れから一匹で、出て行っちゃいますからね!”
“Fenrirさんのことを探しに!あの人間の住処にもう一度!”
“…死んじゃっても良いって、本気で思ったんですからぁぁぁ……”
“…ぅあ゛あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……”
“……。”
がくりと膝を折り、馬乗りになったまま、とうとう泣き崩れてしまった。
“L、Luka…”
何だ。
一体、何があったと言うのだ。
大声を上げ、わんわんと泣き叫ぶ彼女と、その脚元で身動きの取れなくなってしまった俺を、周囲の視線が見守っているのが気まずい。
“ごめん。俺が悪かった…”
もう、お前を、一匹にしない。
そう約束することなんて、出来なかった。
それでも、甘い言葉の、一つや二つぐらい、送ってあげても、良かったろうに。
俺は、あと一週間もしないうちに、再びあの薄汚い城壁の内側へ潜り込むだろう。
今度は、恐らく、暫く帰れそうにない。
あの、Sirikiという青年の面倒を、本格的に見て行かなくてはならない。
教え、導く。そう言えば聞こえは良いが、実際には、かなりの時間を共に過ごし、時には泥臭くやって行かなくちゃならないだろう。
群れでの生活も、悪くは無い。しかし比重は明らかに、人間側にシフトする。
それでも、誰も俺のことを深くは構わない。時折、群れの周りをうろつく、逸れ者として、扱って貰えれば、それで良いと思っていた。
だから、早々に抜け出した。
神出鬼没な立ち回りが、俺の輪郭を、いずれの世界でも、朧気にすると知っていたから。
そして実際、此処まで、上手く行ったのだ。
Sirikiのことを、一発で嗅ぎ当てたのは、俺が飲み込んだ幸運の賜物だと言って良かった。
全てが、俺の思い通りに、事が進んでいるとさえ思えた。しかし、そんなのは思い込みに過ぎなかったらしい。
人間の青年は、あまりに簡単に手玉に取れそうだったのに。
彼女は。Lukaは。一匹の雌狼として、未だどう扱っていいか分からない
群れ社会での一匹を装うのが、こんなに難しかったなんて。
躊躇いなく言わせて貰えるのなら、やはり彼女を手土産に、Vojaの群れへと合流したのは、やはり失敗だった。
どうしても、保障が欲しかった。
この姿、この出で立ちをしておきながら、同胞に拒まれることだけは、絶対にあってはならなかったからだ。
結局は、稀有だったと分かったが。それだけ、群れに受け入れて貰えるか、不安だったのだ。
杞憂だったとも、思わない。
しかし、彼女との繋がりは、やはりあそこで断ち切っておくべきだったと、後悔している。
だが、他に何かできただろうか?
見捨てることは、決してなかっただろう。
俺がして貰って来たと思っている愛情は、俺に、それをさせなかった。
では、この姿は、飽くまでも化身であり、狼としてではなく、もっと、神様らしい与え手として。
俺が、Sirikiに対して、そう近づいたように。
尤も、彼女のことは甘やかすだけで満足してしまうだろうが。
…いや、それも、出来なかったはずだ。
群れに対する恐れと同じ。
俺は、何としてでも、狼として、初めてこの土地で出逢った狼に、認められたかった。
この世界でぐらいは、拒絶されたくなかった。
結局、抗い難い。
どうしようも、無かったのだ。
では、俺が彼女の立場であっても、俺は同じような苛立ちを、怒りを覚えただろうか。
そうは、ならなかったと、断言できる。
彼女の気持ちを否定しているのではない。理解に苦しむと言っているのでもない。
だが俺は、どれだけ心の内側で激しく希求しようと。
縄張りの外にいる友達の元へ、自分から向かって行ったりしない。
寂しいから、来てしまったぞ。などと。
そんな風に、勇気を示そうなどとは、一度も考えたことは無い。
俺は、ただ俺が発した言葉がどのように反芻され、俺がまた会ってくれるに値するかを見定められるのを、じっと待つような奴だった。
どうして、来てくれないのだ、などと。
こうして求めたことなど、一度だって無い。
そういう意味で、俺は恵まれていた。
“そ、そうだ…”
“Luka…おい、Luka…”
“これ…お土産…だ。”
俺は、顎で杓って、目の前に現れた金属の容器を見るよう促す。
“お前が、寂しがっていると思って…”
“お詫びの、印に…”
これがしたくて、わざわざ、口元に肉塊だけ咥えるのを諦め、
転送の手続きを、路地裏でこそこそと準備して来たのだ。
今から、怪物らしく火も吹くぞ。どうか、怖がらないでくれよ。温めないと、本当の美味しさは伝わらないのだ。
“Fenrir…さん?”
決して、あの神様が、俺に対してしてくれたことの、真似事をしたかったのではない。
俺は、狼に対して、神様でありたくない。
ただ、純粋に、彼女が喜んでいるのが、見たくって。
こんなことをして。
どうかお前が、人間の匂いに恐怖心を失いませんように。




