0. プロローグ
0. Prologue
「ほーう…意気地の無い奴かと思っていたが、案外えげつないことをやってのけるのだな。」
入店を知らせる干からびた鐘の音もなく、彼は堂々と入り口の扉の前で尾を揺らしている。
いつの間に、目覚めたばかりの心臓がぎゅうと痛んだ。
ずきずきと痛む頭が見せる幻覚などでは、断じてない。
人間では無いこと以外、暗がりに現れた影から推し量ることは出来なかったが、
唸り声より身が竦むこの声、忘れる訳が無い。
それが、普通の来客であったほうが、まだましであったに違いない。
この光景を誰かに見られたなら、もう店の居場所は無くなるであろうことが想像できて尚、そう思えた。
彼は灯りの絶えた店内を見渡し、愉快そうに微笑む。
「標的さえ確実に仕留められるのなら、何人でも巻き込んでも構わない、と。」
「違う…こ、これは…」
「俺はてっきり、老人も、子供一人も手にかけられない偽善者であると。」
「違うんだ…聞いてくれ…お、俺は…」
やめて、そんな眼差しで、俺を睨まないでくれ。
獣の目に人間以上の知性が宿っているように見えるような、その眼で。
その癖、少しでも気に障るようなことがあれば、忽ち獣としての感情表現に頼ることを厭うまい。
彼のその姿は、紛れもなく、狼であるのだから。
「気に入ったぞ。」
「合格だ。」
「……。」
ある日、俺の目の前に、神様が現れたんだ。
そいつは、狼の格好をしていて、
既に息を引き取っていた妻を抱きかかえ、路上に佇んでいた俺を見ると、
人間の言葉で、こう言ったんだ。
俺の興味を惹くようなことをしろ。
貴様の陳腐な復讐劇などに、興味は無いが。
自分が、手を貸してやりたくなるような人間であると示してみせろ、と。
天啓と言うには、余りにも崇高さに欠けていた。
試練と呼ぶには、余りにも打算的だった。
きっと、俺が神様の導きに、盲目的に従えるような敬虔な人物であるかを、試しているのだと思う。
或いは、目的の為なら、手段を択ばないような残酷さを、垣間見たいのだ。
そう、彼女に合わせてくれるというなら、俺がどんなことだってやってのける愚か者であるかを、知りたがっている。
取引であると、互いに知っていた。
だから、俺は、誠意を見せた。
そうすれば、この狼は、俺のことを、導いてくれる。
それが地獄へまっしぐらの茨道であったとしても。
その先で、彼女が待っていてくれるのなら。
果たして、決意はこうして実った。
そして、彼は俺を見込もうか、今まさに見定めようとしている。
その証左に今、狼は、見返りをくれようとしている。
俺が、もう一歩踏み込めるように。
…それが、これだって言うのか?
こんな見返りなんて。まるで。
「それで、皆、もう虫の息のようだが。これからどうするんだ?」
「……?」
「どうって…どういう意味…?」
カウンターの下で座り込んでしまっていた俺は、店の中へと入り込んでいく狼の尾先の流れる末を凝視する。
何をする気だ。そんな確信は何も無かったが、彼がこの場に倒れている人間全員を餌として喰らい尽くしてしまう場面を想像してしまったのだ。
「まさか、分らない訳じゃあ、無いだろうな?」
彼はさもおかしそうに、毛先を揺らして笑い、テーブルの間から覗かせる右手に鼻先を近づける。
「ふうん…毒でも盛ったのか?お前らしい手段に講じたようだな。」
毒…だって…?
「怖い怖い。迂闊に、誰かに進められた食料にありつくと、痛い目を見ると、改めて思い知らされる。」
「しかし、このままでは、お前は自分が築き上げた立場…飲食店の信用を売っているということは、忘れるなよ?」
「そ、そんなこと、した覚えない…」
「そうか?それならそれで、構わないが。」
「どうやらこの酒は、万人の口に合うものでは、無さそうだな。」
「輸入品か?何処で手に入れたのかは知らないが…ああ、お前、異国の料理を目玉として、出しているのだったか。」
「だとしたら、嵌められたらしいな。その酒の匂いには嗅ぎ覚えがあるが…」
「おそらくヴァイキングが、戦地に赴く際に、景気づけに飲み干すというものだろう。」
「蠅茸…だったか?強烈な幻覚作用を齎すが、猛毒という程じゃない。量にも依るが、狂戦士と成り果てた自分に酔うのには打って付けだろう。」
「とはいえ、常人が飲むものでは、到底無いだろうな。」
「そ、そんな…!それじゃあ…」
胸の奥でもやもやとしていた違和感が、強烈に吐き気となって込み上げ、慌てて両手で口を押える。
口が切れているのが分かった。酔った勢いで、何処かにぶつけてしまったのだろうか。
「言っただろう。中毒症状を起こしているだけに過ぎない。」
「苦しんだ挙句に、泡を吹いて、昏睡しているだけだ。強制的に泥酔されたのと変わりないはずだ…」
「しかし、介抱してやらないと、こんな真冬のボロ家で、外套も纏わずに眠らせて置けば、まず低体温症になって死ぬだろうな。」
「実際こいつ、かなり脈が浅いように見受けられるが…」
その口から、どうやって語られているか分からない饒舌な口ぶりを止め、狼はその表情をふと真顔に変える。
「…?待て、お前も口にしていたのか?」
「え…?ああ……」
「意外だな、お前だけ、割とぴんぴんしているように見えるが…」
「ほ、本当だよ…さっきまで、俺だって気を失ってたんだ…」
どうして、俺を確信犯だって、決めつけるんだ。
「さあ、どうしてだろうなあ…ふっふっふ…」
「そ、それにこの人たちは…お客さんじゃないよ。」
「近所の知り合い。常連さんって言うか…俺のこと、心配してくれていたし、亡くなったリフィアのことも、ずっと気にかけてくれていたから、」
「自分の気晴らしになると思って、お礼に、ご飯に誘ったんだ…」
改めて見渡すと、目を覆いたくなるような、酷い有様だった。
テーブルには、油が表面に浮いて固まった食べかけの料理に、倒れたグラスと、酒と思しきシミに塗れている。
その中に頭を突っ込み、顔を伏している者、椅子に胸元を預けて床にうずくまる者。吐瀉物だらけの床にうつぶせになり、手を入口へ向けて伸ばし倒れている者。
みんな、俺とリフィアが店を立ち上げた時から、戦争が本格化して、存続がままならなくなってからも、ずっと応援してくれた。感謝してもしきれない、本当に家族のような仲間だ。
「そいつは、災難だったな。同情するぞ、こいつらには。」
「…それで、この中の誰が、お目当ての獲物なのだ?」
…獲物?
とても、狼らしい言葉を選ぶと思った。
「なんだ、これだけ広く巻き込んでおきながら、目星もつけられていないのか?」
「まあ良い。お前の推理を、楽しむとしようじゃないか。」
この中に、いるのか…?
この中に、彼女の命を奪った、張本人が。
「で、でも、どうやって…?」
「それを考え、行動に移すのが、お前の仕事だろうが。」
「それとも、全員殺すというのなら…」
「それはそれで、用心深いことだ。」
「そんなこと、する訳が無いだろ…」
「出来る、訳が無い…」
俺は、人殺しがしたいんじゃない。
関係の無い人の命を奪えば、それは、彼女を殺したそいつと何ら変わらないじゃないか。
帰って来たお店は、少しも荒らされた形跡は無かった。
彼女の身体も奇麗で、傷一つなく、汚された様子さえも無い。
まるで、ずっと眠っているみたいに。
そう、だからそいつは、本当に誰でも良かったんだ。
でも俺は違う。
誰でも良いから、そいつの命を奪うことで、それで世界への復讐として甘んじるような。
そんな驕った信念を貫けるほど、俺は堕ちちゃいない。
「…分かった。」
吐いた息が震えた。
はじめて熱を持ったように、白く立ち上る。
「自分で、確かめるよ。」
「どうやってだ?」
「…今から、見せてあげるよ。」
「多分、君が一番俺を…人間を通して、見たかったものだ。」