9. 狩りたての口
9. Hunted Mouth
必然的に、俺たちの根城は、この獲物を喰い尽くすまで、固定されることになった。
こいつらを喰い尽くし、骨も皮も仔狼たちの玩具と成り果てるまでは、大移動のお達しもあるまい。
長旅という程でも無いが、暫く骨休めが出来る。
狩りへの貢献も、群れの長によって一応は認められた格好だ。
馴れ合いに興じるつもりは毛頭無いが、俺は完全に群れの一員として溶け込めたことになる。
もう、俺の行動を逐一観察しようとする狼は、あいつぐらいしかいない。
尤も、Lukaがちょこちょこくっついて来るので、完全な一匹狼の気楽さには程遠いが、二匹きりで無くなったお陰で、それもだいぶましになった。
ようやく、自由に動き回れそうだ。
“それにしても…まさか、こんなにも早く巡り合えることになるとはな。”
皮肉なものだ。手段として探し求めていた人間の痕跡よりも早く、本命である神の産物を嗅ぎ当てるとは。思ってもみなかった。
狩りの直後の安堵を嘲笑うように、彼女の右後ろ脚あたりで、微かなルーン文字の残響を感じ取ったあの瞬間は、背筋が凍りついた。
始めは、罠か、と思った。Lukaが神々の仕掛けた地雷を踏んだか、と思った。
完全に狼と成り切って、狩りの成功を収めたというのに。まさか、俺が犯した失態―彼女に施した治療の奇跡から、既に正体を見破ったうえで、狙いを澄まし、執拗にその時を待っていたのだと、矮小な俺は絶望させられた。
だが、そうでは無かった。
ある種、遠吠えのようだと言えた。
彼女に刻み込まれた、俺の小さな拘束は、神々の齎す祝福に、促されるように応えたのだ。
血の匂いに、興奮していたらしい。全く以て気が付かなかった。
すぐ足元に、埋まっていたとは。
死体の臭いは、雪層に寝かされた泥濘に流されてしまっていた。
血だか泥だか分からぬ色をした雪解け水に沈みかけていたが、そいつが身に着けていた装飾品に、確かにそれは刻まれていた。
見たところ、腕輪だろうか。
確信は無い。俺が、他の狼たちの図体から類推した、人間の腕は、こんな太さだった。
そいつが、足首に同じ力を帯びた彼女を、持ち主だと思い込んだらしい。
“くだらん加護だ……”
Aruncarea sulițelor într-un grup de inamici
今の俺でも喰い破れそうな、ちんけな鉄細工の表面に、
ルーン文字で、そのように刻まれている。
差し詰め、主神殿が雷槍を投げ飛ばす様を思い描いたつもりだろう。
そんな加護を受けた筈の兵士が、無様に朽ち果てているのだ。
戦場でも無い、こんなところで。
周囲は、少しも死屍累々という感じがしない。
無意味な死、そんなものばかりの中で、ひと際それは俺の興味をそそった。
神々の祝福を受けた、その部族の進路は、狼達の縄張りを掠め、それから、俺が目指すべき敗国へと向かって行った。この辺りは、俺達が今そうしているように、一度、彼らの野営地となったのだろう。
その際に、何かがあった。
別に、大事件という程でも無い。内輪揉め程度のいざこざだろう。
それ自体は、大した問題ではない。俺が欲しいのは、あいつらの手掛かりであり、奴らが何を信じ、
いや、誰を信じ、
どういった信託を得ているのか。
“これじゃない…”
“此処では無いのだ…”
彼女の傍らで眠れないのは、元よりそうであったが、その日の夜は取り分け目が冴えた。
ぎらぎらと輝く満月を睨み、俺は必死に高鳴る胸を抑えている。
…偶然にしては、出来過ぎている。
罠だとしたら、堂々と飛び込んでやろうと思えるぐらい、この世界は整っていたのだ。
俺の予想が正しければ、
あと一つ、確信が欲しい。
この群れを離れる前に、もう少しだけ人間の痕跡に、触れられるだろうか。
幸い、神様が残した奇跡の臭いを辿るのには慣れている。
逆探知により、奴らの裏をよく掻いたものだ。
その日の夜更け、俺は自分の推理が正しかったかどうかを確かめるべく、彼女の顎乗せと化した身体を揺さぶって起こした。
“……Fenrir…さん…?”
“起こしてしまって、済まないな。”
“少し、周囲を散歩して来る。人間の住処とは逆に向かうのだから、あいつも怒らんだろう。”
“……私も、行きます…”
“それは出来ないな。お前をどうして連れて行ったと、詰め寄られるのは、俺の方だぞ?”
“夜明けまでに戻らなかったらVojaに告げ口してくれれば良い。遠出さえしなければ、お咎めも無いだろう?”
“すぐ戻る。…そうしたら、今度はお前が、俺の枕になってくれるよな?”
“……。”
彼女は、それ以上何もしゃべらず、優しく目を瞑ってくれた。
“ありがとう、Luka。”
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獲物を仕留めた河川の雪窪を暫く登っていくと、やがて平原にしては密度の濃い針葉樹林に出た。
その森は、遠くから一見すると狼が潜むのに格好の樹海だった。
Vojaの群れが、此処を選ばないということは、ごく最近、人間の横断があったからに違いあるまいと踏んだのだ。
折れ曲がった樅や杉の枝が積み重なっており、地表を隠す雪の下は直ぐ近くに川の支流が流れているのか、足が沈むたびにひんやりと冷たい水気が絡みついてくる。
かすかな獣道が斜面を抜けている先には、人の足跡や馬の蹄痕の類は見当たらなかったが、一度分厚い樹林の下に入り込んでみれば、傘の下で溶けぬ筈の雪よりも目立つ泥塊が、多くの足取りによって汚されている。
進軍の真っ最中の集団が野営地とするなら、このような視界の悪い森の中にするものだよな。―狼を脅威と見做さないような、愚か者に限ると言っておくが。
段々と、意識せずとも流れ込んでくる、人間の残り香。
もぬけの殻であることは、狼の耳からしてみれば自明であったが、それでも神々の痕跡を見落とさぬよう、慎重に進んでいく。
夜更けを回った頃だろうか。
導かれるでもなく、俺は満月の光が差し込む、ぽっかりと刳り抜かれた空き地へ出た。
神様の世界に佇んでいたのなら、俺はじっと耳を傾け、一匹であるのを良いことに、こんな景色の中で吠えて見たいとの誘惑に葛藤していたことだろう。
どうしよう、こんな下手くそで、見返りのない歌を、天狼に向かって、聞かせても許されるだろうか、と。
だが、この世界は、俺をこれだけ歓迎しておきながら、そんな気持ちすら呼び起こさせない程に、汚いのだ。
空には、もう一つ、俺の興味を惹く球体が、浮かんでいたのだ。
“素晴らしい…!!”
二つ目、そいつは濁って輝きを失っていたが、俺に感嘆の声を挙げさせるのには、十分過ぎる光景だった。
腐った、頭だった。
死体が、吊るされている。
両方の手首より先が無く、首に付けられた縄の辺りに、痛みも忘れて剥き出しの切り口で掻き毟ったような血の痕がある。
“そうだ、お前達は、そんなことさえ、出来て仕舞えるような奴であった…!!”
俺は思わず、喜びの吠え声を上げた。
値千金の、偶然と言って良かった。
そいつの足元に落ちていたそれは、槍では無かった。
ボロボロに錆びた、剣の柄だけ。刀身は、見当たらない。
だが、そこに、確かに刻まれている。
“見つけた……!!”
別の神様に向けて、掘られた一つだけのルーン文字が。
『↑』
“そうだ、やはりそうなのだっ!!”
こんな幸運が、降り立ったばかりの世界で、齎されるだなんて。
この時だけは、運命が俺に味方をしてくれているような錯覚を覚えたのだった。
…いいや、寧ろ、当然であったのかも知れない。
なんせ、あいつが俺を寄越したのだと言っても、満更嘘でも無いのだから。
“…あれが、人間のすることだ。”
Vojaだ。
俺が群れの一番端の狼の寝床を越えてから、一定の距離を保ち、付けているのは、分かっていた。
こいつが監視を続けているのは、不愉快ではあったが、俺が自分の思い通りに行動するのを、真正面から諫めることはしないらしい。
群れが安全である限りは、という条件付き…というよりは、俺がボロを出すのを、耽々と狙っているような、そんな野心が感じられる。
嫌いじゃない。寧ろ、そういう奴は、大好きだ。
あっさりと、現地民に慕われるようでは、俺も神様として扱われているようで気分が悪い。
そう、崇めさせるのは、人間だけで、けっこうなのだから。
素晴らしい、予想以上だ。
これが、人間のすることなのだ。それが分かっただけで、俺は心の底から歓喜している。
“随分と、嬉しそうじゃないか?”
実際、そうなのだ。彼らの信仰の危機を目にすることが出来て、とても満足している。
俺は、やはり、正しかったのだ、と。
“その様子じゃあ、南東の亡国にも行くんだろう?”
“お前の口が軽くて、助かったぞ。”
“どのみち、自力で見つけ出していただろう。違うか?”
“…止めないのか?”
“あんたがへまをするような奴じゃないのは、この数日で良く分かった。人間相手にも、決して遅れを取ることなく、立ち回るだろう。”
“だが気を付けることだ。春先には、東西に延びた氷河の一部が、足元を失う。“
“このまま一度、東へ向かうと良い。俺の言葉が本当だと分る筈だ。”
“ご忠告、感謝する。”
“それと、お前が目にする光景は、こんなもんじゃ済まないぞ。”
“それは、願ったりかなったりだな。”
“そうか。お前に、その覚悟があると言うのなら…”
“その想いを新たに、是非とも戻って来て欲しい。”
“俺はお前を拒まないし、追うこともしない。”
“そいつはありがたい。…付け回されるのは、もううんざりなのでね。”
“俺は、そういう奴を、ずっと探していた。”
“ほう……?”
“人間を、あんたは心から憎んでいる、そうだな?”
“Lukaが、お前に、そう言ったのか?”
“違う。Fenrir…俺は、あんたの目を見て、そう言っている。”
“ふふっ……”
“見込み違いだ。”
“……何?”
“お前がやろうとしていることは、大体想像がつく…が、止めておけ。”
“人間を、狩れるかなど、考えないことだ。”
“……!?な、何故だっ…”
Vojaは、目を見開き、図星であることを隠すことも出来ずに喰って掛かる。
“お前は、群れを守る立場だ。そんな奴が、考えて良いことじゃない。”
“違う、群れを率いる立場を任されたからこそ…!!”
“ならば尚更、俺に対する忠告が、お前に吠えたてるんじゃないのか。”
“……。”
“分かっているのだろう?お前達に、勝ち目など無いと。”
“…だからだ。”
“だから…俺は、あんたのような、強い狼を、探していた。”
“あんたの言う通りだ。俺がどれだけ策を巡らせ、皆と協力しようとも、結局は群れ諸共、狩られるだけ。”
“だが……俺は、俺は、このままで良いと、思えないんだ。”
“どうしても……俺が失った分だけで良い!”
“5匹で良いんだ!俺を産んでくれた両親と、兄妹と同じだけ!!”
“俺に、人間を狩らせてくれないか?”
“Voja……”
“そんなことの為に、わざわざ人間の住処の近くで、うじうじとしていたってのか?”
“……。”
“俺は一度、あいつらの肉を喰ったことがあるが…”
“めちゃくちゃに、旨かった。”
“……!”
“確かに、獲物として、おすすめの部類だと思うぞ。”
“だがな、お前の覚悟を聞いて、俺はお前では無理だと、やはり確信した。”
“たった……”
“ククっ……”
“たった、5匹で良いなどと…”
“……。”
Vojaが、息を呑み、暗がりに光る瞳を閉じた。
そう思ったが、違った。
彼は振り向き、俺に尾を向けたのだ。
“……そうか。”
“わかった。”
“言葉を曲げるつもりは無い。”
“だが、Fenrir。俺は、あんたが戻って来ると確信している。”
“群れの長として、何度だって、歓迎してやるとも。しかし……”
“俺は、それを望まない。”
“彼女には、飛び切り大きな獲物を探しに行ったと、伝えておく。”
“去るのなら、今夜の内にしてくれ。”




