8. 手頃な標的 2
8. Convenient Target 2
“来たわ…!!”
Lukaの耳がピンと弾けたのを皮切りに、周囲の空気が変わった。
“ああ…”
鹿の群れだ。それも、数頭がまとめてやって来る。
アカシカとは、少し違うのだろうか。馴染みのある、茶褐色の毛並みは同じだったが、オスが有する角の形が、俺の知っているそれと違う。体格に似合わず、小枝のようにほっそりとしていた。
しかし成体が相当数混じっているのは、朗報である。これはそこそこの大物を期待できそうだ。
標的は、どれだ?即座に、追い立てた側の、メッセージを読み取る必要がある。
俺達がアンブッシュしていたのは、南北に沿って流れる小川が齎した雪窪だった。
微かに聞こえる水の流れを完全に覆う分厚い雪層が無ければ、まるで落とし穴だ。
実際、遠目から見れば、こんな不自然な凹凸、容易に気付けまい。
斜面から僅かに顔を出すと、焼け付いた雪表、その向こうで大きめの獣影が数頭、雪飛沫を上げているのが見えた。
“予定通り、という訳だな。”
そのまた後方で、アーチ状になって、彼らの退路を誘導する狼たちの姿がある。
あれこそが、連携のなせる業だ。Vojaの割り当ては、ある種的を射ていたのだと気付かされる。単に俺の技量を図る意味もあっただろうが、まだ呼吸の合っていない狼たちと協力させるよりも、単独で仕事をこなせる役を任命していたのだ。
追い立てる側の狼たちが、更に左右へ広がって包囲網を作り始める。
西側から、Vojaたちが重ねて追い打ちをかけ、慌てて舵を切り、沢のある窪地へ飛び込んできたところを、俺たち伏兵が一緒になって襲う。
身動きの取れなくなった獲物に、寄って集って牙を突き立てれば、後は煮るなり焼くなり、好きに喰らい尽くせることだろう。
俺は足場を確かめつつ、再び雪塊の裏に身を潜めた。
この辺りは、河の流れが雪を溶かすせいだろうか、泥の混じる地面も見え隠れしていた。
身動きが比較的取りやすく、確実に獲物を仕留めるには持ってこいの狩場であると言えるだろう。
だが、油断は禁物だ。それは相手にとっても同じ。下手に突っ込めば、逆に蹴り倒される可能性もある。
Voja はリーダーとしての嗅覚で、安全かつ確実な作戦を立ててくれた。
だが実のところ、俺は未だに、彼らの豪脚に頭を巻き込まれがちだ。自分の体格を、把握できていないと言うか、縮小化された身体が、世界と整合性を取れていない。
ドジを踏むぐらいなら、まだ良いが。
いや…
Vojaのみならず、彼女の前で、か?
“…?どうかしましたか、Fenrirさん?”
“…何でもない。”
“良いパックだな…と思っただけだ。”
“そうでしょう?…貴方も、もうその一員なんですよ?”
“……。”
“…私も。”
“…上手くやっていけそうかは、別の問題だ。”
“…ふぅーー…”
小さく息を整える。
間違っても、大狼の面影に頼ろうなどと思うなよ。
付け焼き刃の狼の知識など、実戦では何の役にも立たない。それは分かっているつもりだ。
“神性”を使わなければ大物を狩るなんてできないのでは、その不安も未だ拭えない。
だが今は群れがいる。多少の無理も、彼らとの連携が補ってくれる……はずだ。
それこそが、俺にとって理想的な“狼の狩り”であるのか。それはきっと、神界に戻った時に、解るはずだ。
大狼であった頃、狼達の群れの狩りに加わりたいと思ったことは無かった。
彼らに歪んだ統制をと手柄を押し付け、労せずして得られる体験という餌を与えるような真似は出来なかったから。
今与えられた、この均衡は、転生が齎した制約であったとしても、崩したくはない。
“ウォォォオッ…!”
遠くで仲間の吠え声が上がる。
Voja たちがわざと気配を出し、獲物を焦らせているのだろう。
鹿たちは散り散りに逃げ惑うが、これもVoja の狙い通りだろう、大きく2手に分かれて走り出した。
片方は旋回せずに走り切るしか無いと覚悟を決めた、幸運の持ち主。そしてもう片方はこちらの右斜面へ――そう、俺の待ち受ける方向だ。
群れの先頭が、吸い寄せられるように進路を此方側へ逸らす。
走る脚音が頭上に響き、雪と泥塊を踏む音が交錯した。
“……来たな!!”
視界の先に、先頭の一頭が凄まじい速さで駆け降りて来るのが見える。
後方にも2頭ほどが連なっており、はぐれた子鹿らしき小柄な影もちらつく。
Voja の仲間が左右から追い立て、俺たちの陣へ送り込むのが見えた。
定石を破るな。まずは弱い個体を確実に仕留めるのが最優先だ。
逃げ道はさほど多くない。こちらには同じく傾斜がそびえ、狭い通路を通るしかないのだから。
問題は、俺がしっかり役割を果たせるかどうかだ。
“……今だっ”
自分に言い聞かせ、素早く斜面のスピードを受けて飛び出す。
鹿の群れがこちらの存在に気づいた刹那、最前の一頭が急ブレーキをかけるように雪を削る。
だがもう遅い。そいつは質の悪い地面に足を取られ、大きく体勢を崩して滑ってしまったのだ。
そいつの表情は、読み取れる筈も無かったが、明らかに、焦りが余計に地面を掻こうとする姿に現われていた。
予定変更だ、一番最初に仕留めるのは、こいつが良い。
俺は斜面を使って跳躍し、その鹿の脇腹へ牙を突き立てる――はずだったが。
“……くっ“
いかん、踏み込みが浅い…!
そして獲物は想像以上に敏捷だ。ぎりぎりで細い豪脚をひねり、俺の牙をかすめるだけでかわそうとする。
“ぐっ……!?”
そうして与えられた反撃は痛烈で、眉間から顎まで駆け抜け、俺の脳を揺さぶる程の衝撃。
そのまま伸びてしまわずに済んだのは、俺が何度も足蹴にされた怪我の巧妙だとでも言うのか。
だがその瞬間、彼方で追っていた影が雪を蹴り上げ、一気に背後から飛びかかった。
―Vojaだ。
二匹が同時に挟み撃ちのように仕掛け、鹿はたまらず持ち直しかけたバランスを崩す。
“グルルルッ…!”
そいつは呻くように声を上げ、なんとか俺達を蹴り飛ばそうと蹄を振り回すが、もう遅い。
奴は、牡鹿の背中に飛び乗ったらしい。狙った首筋に牙を食い込ませた瞬間、驚くほどの声量で、甲高い鳴き声を上げる。
“ぴぃぃぃぃぃっーーーー!!”
まずい、振り落とされたか?
怯んではいられないぞ。俺も脇腹へ押し込むように噛みついた。
“ヴゥゥゥゥッ!!”
“逃がすかっ……!!”
“今だっ、やれっ!!”
無我夢中で齧りついたのが功を奏した。周囲が見えないが、僅かに動きを止めたのを見て、Vojaと共に、加勢の吠え声が上がっていくのが分かる。
近くで俺と一緒にぶら下がっているのは…Lukaか…?
“う゛ぅっ……う゛っ……ぐぅぅ……”
もがき続ける鹿が、血と雪を散らしながらじわじわと力を失っていく。
致命傷を負った獲物は、ほどなくして倒れ込んだ。
ドシィィン……
“……はぁ、はぁっ…”
脇の下に圧し潰されそうになるのを、何とか抜け出し、俺は牙に纏わりついた血を吐き出す。
見れば、もう数匹が、息の根を止める為に、迅速な手続きを済ませている所だった。
少し荒いやり方ではあったが。
ひとまず、足は引っ張らずに済んだか…?
先導の獲物を狙うのは、やはり間違いだった。
思った以上に、この地形に知悉している。伊達に俺より長くこの世界を走っちゃいない。
周囲を見渡すと、他の狼たちもそれぞれ獲物を仕留めるか、逃した者をしつこく追跡するか――互いに連携しながらうまく立ち回っているのがわかる。
このままなら、いくつか鹿を確保できそうだ。
群れの狩りとしては申し分ない成果だろう。
生きるために、これを繰り返すと言うのだ。
俺は到底、狼として生き残れる気がしないと、本気で思わされる次第である。
――――――――――――――――――――――
しばらくして、狩りはひとまず終了となった。
“アウォオオォォォォォォーーーーー……”
足跡で荒された河川から引っ張り出して、一画に集められた獲物は全部で6頭。
仲間たちへ伝える狩果の遠吠えは、俺が二番手に上げることになった。
留守番組が到着するまで、ゆっくりと食事にありつくVojaたちを端から眺める。
俺は神力をいささかも使わず、普通の“狼らしい狩り”を体感したと言って良いだろうか。
本音を吐露すれば、悪くない感触だった。
全身に軋むような疲れはあるが、独特の達成感もあった。
Lukaは少し遅れながらもはしゃいだ声を上げて俺の方へ走って来る。
“Fenrir さん!すごいじゃないですか!一番大きい獲物を仕留めてくれましたね!”
“あぁ…まぁ、何とか…な…“
安堵の息を吐いて、ゆるゆると首を振った直後に、蹄がかすった眉間にうずく痛みを感じるが、なんとか平然を装う。
Vojaも「思ったよりやるな」と言わんばかりに一瞥をくれ、そのまま別の仲間へ指示を出すため遠ざかっていった。
俺を認める気になってくれたとは思っていないが…
“食べないんですか?今なら、皆が来る前だから、背中のお肉、食べ放題ですよ?”
“腹は減っていない。新入りは残り物で十分だ…”
そのとき。
かすかな風に混じって、別の臭いを拾った。
“Luka…動くな…!!”
“……?”
俺が警告の吠え声を上げたせいで、周囲の狼達が一斉に此方を向いた。
この臭いは…彼女の毛皮が運んだのか?
今になって、はっきりと、鼻腔が警告を発する。
…先まで、全くこんな臭い、していなかったぞ?
慌てて、地面に鼻先を近づけ、丹念に痕跡を探るも、此処を通ったような人間の匂いは嗅ぎ取れない。
仮に、実際にVojaの言う人間の軍隊の進路が、此処と重なっていたとしても、度重なる積雪に覆い尽くされ、毛ほども残らないだろう。
なのに、人間のものとは違う、もっと苦い金属のような刺激が、風に乗って運ばれてくる。
まるで、すぐそこまで匂いの主が迫っているかのように。
“Fenrir さん?…どうしたんですか?”
Lukaが首をかしげる。
“……済まない、何でも無かった。”
俺は急いで微笑みを作り、何でもないというそぶりを見せたが、喉の奥に嫌な汗がにじむのを感じた。
“……。”
皆が、余所者に興味を失い、食事へと戻る中、
Vojaだけが、じっと此方を見つめている。
俺を試すとは、ある種、そういうことだったのか。
足元を見下ろせば、仕留めた獲物が付けた血の臭いが立ち上る。
何だったのだ、今のは…?
“Fenrir さん……大丈夫?顔色が、変ですよ”
“…ああ、平気だ。ちょっと疲れただけだ…”
俺はLukaから視線を外し、遠くの木立を探る。
人間の影は……見える筈が無い。
だが、鼻先が警鐘を鳴らし続けるこの感覚は、間違えようがない。
これが単なる気のせいである筈など。
俺たちの初めての“群れの狩り”は、そこそこの成果とともに一段落を迎えた筈だった。
しかし、わずかに漂うあの臭いが俺を落ち着かせてはくれない。
Voja の忠告どおり、迂闊に深入りなどすれば、この群れを巻き込むことになるのか。
そして、彼が隠している真実は、本当に単なる“被害者”の立場だけなのか。
不安は、むしろ狩りの成功によって増幅したかのように胸を突き上げる。
“お前に相応しい死をもたらしてやる。”
俺は夕暮れへ向かう雪原を見つめながら、Voja の低く響く声を脳裏で反芻する。
周囲に忍び寄る気配は、明らかに静かな凶兆を孕んでいた。
今夜の安息が、果たして本当に静寂のまま過ぎ去るのか、などと憂えるのも。
その、狼と人間の両方を襲ったという部族に、
神々の、
それもアース神族の息が掛かっているらしいからだ。
“ルーン文字…”
共鳴したのだ。
それが微かに彼女の足元に纏わりつくのを目にしたとき、鮮やかに視界が滲んだのが分かった。
まるで、俺の瞳が、夕陽を捉えて宿したかのように。
すぐそこだ。
もうそこまで、来ている。
俺が狩るべき獲物は、もっと別にあったのだ。




