6. 煌積の合流点 2
6. Shimmerdrift Confluence 2
やっぱり、自分は言いたがりだ。
不安を、こうして直ぐに口から零す。
面と向かって言うのは、とことん苦手として来た癖に、俺が彼女との並走に、互いが向き合わずに済む会話の方法を見出してしまったせいだ。
今や彼女は立ち止まり、振り返って俺をぱったりと閉口させてしまう。
途中まで、良いように言葉を紡げていたのに。
どうして、殺す、だなんて。
抑えきれない怒りの脈動は無かったと思った。
ただ、俺が目の前の視界を忘れて、記憶の氾濫に目を瞬かせた時に、
あいつは、しっかりと、その一部になって滲んでいた。
それだけだ。それだけで。
“……。”
魅力的に首を傾げたって、俺はお前に目を合わせる術を持たない。
しかし彼女は、心臓を射抜くような言葉で、俺を愚弄して見せたのだ。
“その、テュールさん、という方ですが…”
“狼、では、無いのでしょうか?”
“…っ!?”
“…き、決まっているだろう。”
何が、彼女に、そんな発想を齎したのか。
そう思うだけで、恐ろしかった。
お前も、この世界で、同じ思いをさせられたと言うのか?
だとしたら、不愉快極まりないことだ。
“で、では狼では、無いのだとしたら、何だと言うのだ…!”
“それは…”
“まさか、人間だなんて、言うんじゃないだろうな?”
“え…?”
馬鹿か、口は禍の元だ。動揺が尾を萎れさせるのが、手に取るように分かる。
“それは、考えもしませんでしたけれど…”
“でも、そうだとしたら、とっても面白いですね。”
“……っ”
ああ、お前も笑う。
そうやって笑うのか。
“い、言った筈だ。群れを違った、嘗ての友であると…!”
“狼の…友でしかない…”
結局こうして俺は、赤面して俯き、ざらざらに凍った彼女の足跡を凝視するより他無かった。
“ふふっ…おかしな方。”
“……?”
“殺す、なんて言葉を使えば、私が怖がって、近寄らなくなるかなとでも思ったんですか?”
“Fenrirさん。どうしても、私のことを振り払いたいみたい。”
“い、いや…そういう訳では…”
“ねえ、Fenrirさん。”
“私も、その狼に、逢えるでしょうか?”
“なに…?”
“いいえ、別に会いたい訳じゃ、無いんです。会えなくて、全然構わない。”
“ただもし、貴方が、元居た縄張りに戻る時には…”
“一緒に、私のことも、連れて行ってくれませんか?”
“……それは、無理な相談だ。”
“私が力になれることは、無いでしょうか?”
“本当に、Fenrirさんが、テュールさんっていう狼を殺すお手伝いがしたい。”
“なっ……”
猟奇的な笑顔が、初めて彼女の頬の毛皮を、温かみのある色に染めた気がした。
“変なことを言って、ごめんなさい。”
“私のこと、ちょっとは、どきっと思ってくれましたか?”
“……。”
“でも…どうでしょうか?私が、貴方の縄張りで走り回る姿、想像できませんか?”
“貴方が目指す理想の世界に、私はいない?”
そして雪原は既に明星の輝きを増し、青の帳を失いつつある。
このやり取りを、これ以上神様の世界に晒すことは耐えられなかった。
“…ああ。Luka。”
なんてことを言うんだ。
“俺が生きて来た世界に、お前は、いないよ。”
“…君は、いなかった。”
――――――――――――――――――――――
“ほら、見てください、Fenrirさん!”
それから二日間、東への大陸横断は続き、もっとゆっくり進むべきだとの進言をせずにはいられないぐらいには、彼女の脚の具合も順調だった。
そろそろ、狩りを一緒にしたいと強請られるのでは無いかと、ぼんやりとした不安が頭を擡げ始めていた、夕刻の陽の陰りである。
ひと際大きな銀松の根を覆うざら雪を掘り、彼女は嬉しそうに吠え声を上げた。
“ここ、嗅いでみて!”
“ん?ああ……”
“……?これは…”
平和ぼけしていた鼻先を突き刺す臭いに、目を見開く。
Lukaのじゃない。別の狼の、尿の臭いだ。
“彼の縄張りが近いんだわ!”
“彼…?”
足踏みをするだけでは、喜びを表現しきれず、彼女は俺の周囲を軽やかに一周走って見せた。
目の前を通る時は、わざと俺の首元の下を潜るようにして、毛皮を擦らせることも忘れない。
“良かったな、お前の案内のお陰で、迷わず辿り着くことが出来たようだ。”
そのスキンシップも、頼むから止めてくれないか。
俺は、自分の首元の傷跡が、転送後の世界でどのようになっているのか、気がかりでならなかった。
これ以上、彼女が俺の過去を窺い知るような些事があっては困るのだ。
“その彼…とは、その縄張りのリーダーのことか?”
“ええ。群れに合流したら、紹介しますね!”
“別に良い…”
そうぼやいた俺の言葉は無視し、Lukaは上機嫌に尾を靡かせながら、幹の裏手へ姿を隠す。
どうやら上書きに勤しんでいるらしい。
その間に、俺は俺で、Lukaが元居た群れの縄張りの主がどんな奴か、想像を膨らませずにはいられなかった。
俺はそいつの群れに、暫くは厄介にならなくてはならない。
要は匿って貰う訳だが、そうなった時に、群れの出入りについてどれ程寛容であるかは、重要な性格であると言えた。
特段、彼女が良い潤滑油になってくれと願うつもりも無い。
要は俺に刃向かって来るか。そうなったとして、序列を受け入れる器量があるかどうか、その2点に尽きるのだ。
出来ることなら、力でねじ伏せることなく、良好な関係を築きたいのは、勿論ではあるのだが。
まあ、会えばわかることだ、今の内から、悶々と思いを巡らせても詮無きことではある。
しかし、臭いはまだ比較的新しいことは、直ぐに読み取ることが出来た。
複数の狼の匂いも、微かに別で混じっているが、ひと際大きく付けられたこいつがそれだろう。
良い肉を、喰っているようだな。
熟れの規模はそれなりで、安定した狩りを行えていそうだ。
“あと一日の辛抱だろうな。長旅、ご苦労であった…”
自分よりも何倍も怪物的に成長してしまった古木を見上げると、何とも言えない気持ちにさせられる。
彼女の音が止んだのを確かめてから、俺は声を掛けた。
“どうする、Luka。今日は此処で休んで、早朝に出発すれば…”
“アウゥォォォオオーーーーー……”
“っ…!!?”
“ル、Lukaっ…いきなり何を…!?”
こんなに近くにいて、前触れにも気が付けなかった自分に驚いた。
“何って、もうこんなに近くまで来たんですもの。みんなに知らせなきゃ!”
“ウゥォオオオオオオオオーーーー”
“ほらっ…”
“アァァゥォォォオオオーー”
“アォォォオオオーーーーン…ウォォ…”
聞こえる。
彼らの群れの合唱が。
懐かしい、とは、少し違うだろうか。
そして、その中に、
“アウゥォォォオオーーーーーーン…!!”
ひと際、伸びやかに密林へ響く、彼女の声。
“Fenrirさん、どうして、歌わないんですか?”
“えっ…?”
“貴方も一緒であること、伝えなくちゃ。”
“い、いや……。”
“ほら、私に続いてっ……!”
“ゥウオオオオオオオオオオオオ…”
心底嬉しそうに俺を誘う彼女の遠吠え。
既の所で、ぎゅうと、歯を食い縛って俯いた。
“ひ、必要ない…”
“…ゥォォォオオーーー”
折角、彼女は俺の視界から、自らの姿を外れてくれたのに。
そうすれば、さっきみたいに、迂闊ではあっても、喉元から垂れて来る本当の気持ちを聞けるだろうと。
“あいつらは、お前の帰還をこうして聞けるだけで、十分であるのだ。”
“余所者が混じっては、無粋というものだろう…”
だが、俺の喉を代わりに満たしたのは、記憶の氾濫。とても呑み込めるものではない。
“ごめん……Luka…”
俺は、狼であることを、この世界で初めて怖れたのだ。




