6. 煌積の合流点
6. Shimmerdrift Confluence
最近になって、寝込みを襲われることが増えるようになった。
“ん……”
俺自身が、寝ずの番を続けるのに限界が来たと言うのもあるが。警戒心が薄れつつあるのが、自分でも分かっていた。
彼女が若い狼で本当に良かった。この数日で、みるみる溌剌さを取り戻していく様には、神様でなくとも、助けて良かったと思わされるような報いが感じられた。
潰された後ろ足の骨も、きっと俺の助け無しに乗り越えていたに違いない。
そして彼女は、意外と食べる。
俺が沢山の戦利品を持ち帰って来るから、無理して腹に詰め込んでいるきらいが最初こそ見られたが、本来の食欲を取り戻した彼女は、まさに狼らしい食べっぷりをしていると言えた。
良いでは無いか。彼女の容態は、窮地を脱して、極めて良好だ。もう心配する必要は無い。そのことが、俺に気のゆるみを与えているに過ぎない。
しかし……
“……っ?…Lukaっ…”
“お前っ…また……!?”
彼女が、みるみるうちに回復していくのは、大変に喜ばしいことだ。それは全く否定しない。
だが彼女が俺に、別のものを求め始めているこの状況を、受け入れる訳には行かなかったのだ。
“何度言ったら分かる!?…俺はお前の枕じゃないんだぞ!!”
“ん……?”
首回りの毛皮に覆い被さる、温かな顎の重み。目が醒めてすぐに分かった。
“どう…しました…”
“Fenrirさん…?”
“……っ…”
どうした、じゃないだろう。
寝ぼけ眼を瞬かせる彼女は、まるで俺が嫌がっていることを理解していない。
確かに俺は、彼女が寄り添って眠るのを、渋々承諾はした。
というか、彼女の存在を隣に感じ次第、別の場所へ移動するのが、もう面倒くさくなってしまったのだ。
何故って、彼女は、もう元気だ。
寝床を頻繁に変えて俺に付きまとうことに、もはや疲労を感じていないようなのは明らかだった。もう俺の残り香で満足する気も更々ないらしい。振り切るのは無理だと分かった。
“ぐるる…”
あっちへ行けと唸り声をあげても、虚勢に全く動じる様子もない。尻尾も、控えめに振ったまま、股に隠すこともしない。
“私が、もっと具合が悪かったら、許してくれますか?”
“……。”
きゅうきゅうと甘え声で腹を見せ、可愛そうな自分を演じるような誘惑があった訳でも無い。
“でも、Fenrirさんも、私を枕にして、横になってみたら、きっと私の気持ちが分かると思うんです。”
“私は、いつでも、お待ちしてますからね?”
“傍で、寝るだけ…にしてくれ…”
今すぐにでも、逃げ出して、こんな出会いを、無かったことにしたかった。
けれども、もう、どうしようも無いと分かったのだ。
“…頼む…”
そのうち、慣れるだろうか。
あり得ないことだと頭ごなしに否定しても、この毛皮は、蜷局を巻いて人間を包み込む感触を覚えてしまっている。
恐ろしいことだと嘆くより、俺は狼らしくなったと受け入れるべきなのだろうか。
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“少しでも、疲労を覚えたら、言うんだ。すぐに休むぞ。”
“わかりました、ちゃーんと、案内しますから。着いて来てくださいね、Fenrirさん。”
彼女の完快に、リハビリの必要性を見出した俺は、到頭移動を開始することにした。
一刻も早く、そんな焦りは、彼女をどう扱ってよいかという困惑によって容易く塗りつぶされてしまっていたものの、此処でいつまでも療養生活を送っているのは、互いにとって本意では無かった。
俺は早く、人間の犇めく都市部に潜入したいし、彼女は、今までの生活を取り戻したいはず。
彼女自身が、一度抜けた群れへの合流を心から望んでいるようでは無いというのが、ずっと心の中で引っかかっている部分ではあったが。それでも、他に行く充ても無いのも事実だろう。
まさか、俺と自分だけで、この世界を生きていこうなどと、変な考えが頭を擡げる前に、俺は彼女を群れ仲間の元へ送ってやらなければならない。
“もう、走れるのか…?あまり無理を…”
“ちょっと、具合を確かめただけです。Fenrirさんのご助言通り、ちゃんと歩いて行きますよ。”
“…ただ、なんだかもう、嬉しくって…”
“そうか、それは、何よりだ…”
軽やかなトロットで、俺たちはすぐに森を抜け、見晴らしのよい雪原へ出る。
此処までは、俺が狩りを通して斥候を済ませて来た領域でもあった。
それ以降は、実際彼女が齎してくれる情報が、貴重になって来る。
三日ほどの行程とのことだったが、その中に攻略の難しい地形は、あるだろうか。案内には絶えず耳を傾けたいと思っている。
晴れた地平を眺める限りでは、俺が猛吹雪の中越えて来た山脈に比べれば、東へ進むことは、とても平坦な道のりに見えたが、用心しなくては。
彼女を先導させることが、彼女を優先させることになると知っていて、尚、道中は不安が残った。
Lukaは俺が視界に入る並走を好んだが、もちろん俺はそれを拒絶した。
俺が、彼女の後ろを歩くことは必須だった。群れでの大移動をするとき、一番力の弱い者の歩調に群れ全体を合わせることは、遅れて取り残されるものが出ることがあってはならない。彼らは、中央から、先頭付近を常に歩き、前後を主力の狼たちに見守られている。
二匹では、どうだろうか。
殿に対し、先駆けが欠けている。
彼女が前を歩くことで、予期せぬ襲撃の犠牲となりはしないか、俺は必要以上に心を砕き続けた。
魅惑的に振られる彼女のしなやかな尻尾よりも、未だに残る右後ろ脚のばねの無いトロットが、そうさせるのだろうか。
例えば、人間が仕掛けた罠が、こんなところにまで根を張っているとか。
意図せず、彼女が元居た群れ以外の狼に遭遇してしまうような。そんな展開が。
どれも違うだろうな。
俺が抱えている蟠りは、もっと別のところにある。
“二人旅は…やはり、いつも不安にさせられるな…”
俺は、思いがけずそう呟き、彼女を振り返らせる。
“……?”
空が白み始めて数刻、蕩けそうな日の光が、薄暮の雪原を一層眩しく照らし出す。
熱を帯びることさえ無かったが、俺は目が痛くて仕方が無かった。
“いや、何でもない。”
上気した彼女の青みがかった口元からは、早朝の白い息が立ち上っている。
“忘れてくれ、本当に、何でもない。自分でも、何がこんなに不安であるのか、分らないのだ。”
嘘を吐け、そうであるなら、俺は態々、こんな風に吐露することを、しないだろう。
“…それって、Fenrirさんが、あのお山の向こうで別れた群れのお話、ですか?”
“……。”
“…そうだ。”
“Fenrirさんのこと、私はもっと知りたいんです。”
“休憩しながら、だと、喋り辛いですか?”
“面と向かって、お話ししたく無かったら、私、黙って先に歩いています。”
“…済まない、そうして…貰えるか?”
それが、俺たちの間に許された、独白の構図であるらしかった。
背中に乗せた人間を感じず、俯いたまま本音を吐き出すように。
“かつて、Teusという名前の、友がいた。”
“互いが治めていた縄張りで迎え合い、互いが住む世界を旅して周ったような仲間だ。”
何も言わず、ただ静かに伏せられた耳の間が、僅かに白んで光っている。
“ずっと、一緒だった。”
“あいつは、身体が弱くってな、道中よく俺を心配させたものだ。”
“何度も、自分のせいで、辛い思いをさせて来たから…”
“正直、俺はお前をこうして介抱することにさえ、どうしようもないぐらい無力さを味わっている。”
“そんなことは…”
“早くお前を、安全な縄張りに戻してやることで、解放されたいと、心無いことを、本心では思っている。”
“……。”
“お前は、きっと大丈夫だろう。そうに決まっている。”
“だが俺は、自分が考えてしまった通りに、物事が誘われるような気分になって、とても耐えられない。”
“その…テュールさんという方は、もう…?”
“いいや、しぶとく、生きているよ。”
“それなのに、お別れを…?”
“そうだ。”
“あいつが、俺を追放したのだ。”
一番近しい友だったからこそ。
“俺は、そいつにもう一度会う為に、此処へやって来た。”
“…会って、今度は俺が、あいつを殺す。”




