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 ────誰に知られることもなく、最果ての森の奥で朽ち果てるが良い!!


 手足を縛り付けられたまま、放り込まれた森の中。ほんの一日前までは社交界の華と呼ばれていた、公爵令嬢"だった,,エヴァの耳に残るのは、エヴァを糾弾する婚約者"だった,,ひとの声だった。


 生まれた時からの婚約者であり幼馴染。恋をしていたのかはわからないけれど、愛していたのは本当だった。誰よりも信頼できる兄のようなひと。エヴァが両親に叱られて庭園の隅で泣いていると、決まって見つけ出して慰めてくれたひとだった。


 だけど、アレンはもうエヴァをかつてのようには思ってくれては居なかった。

 たった一人の恋人を見つけてしまったのだ。聖女と呼ばれる異世界から訪れた少女。王太子であるアレンと聖女は瞬く間に恋に落ち、お伽噺に出てくるような恋人達は、たくさんの人々から祝福された。


 エヴァは邪魔者だった。

 わかっていた。きっとそのうちアレンから婚約破棄を申し込まれるのだろうとも察していた。寂しかったけれど、元々エヴァとアレンは恋人同士ではなくて、あくまで親が決めた婚約者でしかなかったから、それで何か関係性が変わるとも思っていなかった。

 公爵家に生まれたと言ってもエヴァはあくまで貴族の娘であり、婚約に関する決定権は持っていない。婚約破棄の打診は公爵である父か、国王か、もしくはアレン本人でなければ出すことはできなかった。だからその分、そうなれば必ずすぐに頷いて、「どうか幸せになって」と、そう言おうと思っていたのだ。


 ───聖女暗殺未遂という、全く身に覚えのない罪で投獄されてしまうまでは。


 女神の加護も届かない場所。太陽が昇っている間もずっと薄暗いままの森。聖書ではここを、最果ての森と呼んでいた。

 野生動物は殆ど生息していない。居るのは魔物ばかりだと言う。ただの動物は持ち合わせていない様々な特性や優れた回復力を持ち、好んで人を捕食するという生き物。女神の加護が行き届いている王都ではまず見ることもない、女神に見捨てられた邪なもの達。


 エヴァが打ち捨てられたのは、そんな魔物が蔓延る最果てだった。

 護送係の身を守る為、エヴァにも付けられた魔物除けの効力が少しずつ弱まっていくのがわかる。じわじわと真綿で首を絞められるような息苦しさ。細く息を吐き出して、必死に吸う。そんなことを繰り返している間にも魔物除けはどんどんと効力を失って、とうとう何かがにじり寄るような、地面を踏み締める音がエヴァの耳に届いた。


 手足を縛り付けられているから、動くことすらままならない。当然、逃げることなんて出来そうにもなかった。


 うつ伏せに投げ捨てられ、かろうじて横向きに首を動かした視界の端、灰色の獣の足が現れる。何とか目線を上に上げると、狼のような、けれども狼というにはあまりにも歪な姿をした魔物がそこにはいた。顔のパーツの位置がぐちゃぐちゃで、口の端は裂けていて、悍ましいツノが生えている。これが、聖書で言う"女神に見捨てられたもの,,の姿なのだろう。気が付けば、もうこんな近くに来ていたらしい。


 ポタ、ポタと魔物のよだれが垂れて地面にシミを作る。獲物が縛り付けられているからだろう。狼の魔物は少しも慌てた様子はなく、ゆっくりと口を開いた。

 魔物の足がエヴァに近付く。魔物の牙がエヴァに迫る。死がすぐそこにある。こんな時に脳裏に過ぎるのはどうしたってアレンのことで、両親にも愛されることのなかったエヴァを、家族のように大切にしてくれた翌る日の"お兄様,,の姿。そして、異世界から訪れた聖女を守るように抱きしめながら、エヴァを糾弾し、この森へと送り込んだ王子様の姿だった。


「………死にたくないなぁ」


 少なくとも、こんなことでは死にたくなかった。

 せめてもう少し長生きしたかった。相手はアレンでなくても構わないから、ちゃんと祝福するから、優しい人と結婚して、赤ちゃんを産んで、エヴァは両親に愛されなかったから、自分の子はめいいっぱい愛して育ててみたかった。


「死にたく、なかったなぁ………」


 だけど、きっとそれはもう叶わないのだろう。

 エヴァはそっと目を閉じた。せめて、すぐに意識を失えるといい。痛いのはあまり好きではないから。痛みに泣いて苦しんで死ぬよりは、すぐに終われた方がまだマシだろう。


 そう思って、エヴァはそっと目を閉じた。

 けれど覚悟をしていた痛みはいつまで経っても訪れない。音も立たない。どんなに待ってもエヴァの状況は変わらなくて、混乱しながらも、やがて狼の魔物はエヴァを襲わなかったのだということを理解する。

 恐る恐るとエヴァが目を開くと、そこには黒い何かで串刺しにされた狼の魔物が、ポタポタと紫の血を流してそこに居た。


「………ひ、」


 絶句した。エヴァはこれまで野生動物も殆ど居ないような王都の中に暮らしており、動物の死体など、ましてや魔物の死体など見たことがなかったのだ。

 悲鳴を上げかけた喉を抑えるようにグッと奥歯を食いしばる。相手は動物ではないけれど、野生動物と鉢合わせた時、決して刺激してはいけないと昔公爵家の騎士に言われたのを思い出したのである。


 狼の魔物を貫いていた黒いものが、シュルシュルと音を立てて引き抜かれていく。支えを失った魔物の死体がべしゃりと地面に落ちると同時、魔物の血が跳ねてエヴァの顔にも飛びついた。ひ、と喉が引き攣る。

 黒いものが戻った先。薄暗い森の中で、近付いてきてかろうじて分かるような黒い物体。月のない夜をそのまま切り取ったような暗い色の蠢く何かが、ぺちゃぺちゃとエヴァのほうに近付いてくるのが分かった。

 狼の魔物を貫いていたのよりは細い、うねうねとした黒い触手がぺたぺたとエヴァを確かめるようにエヴァの身体を触る。ぞわぞわとした本能的な恐怖に身構えるエヴァに、けれど黒い魔物は触手を伸ばし、そしてエヴァの手足を縛り付けていた縄を溶かし切った。


「………え?」


 呆気に取られるエヴァに、魔物は触手で仰向けに寝かされたエヴァを座らせると、そっとエヴァに擦り寄ってきた。まるで小さな子供が母親に甘えるように。沢山の触手を伸ばして、まるで小さな子供が母親に抱きつくように。


 エヴァがそんな魔物に手を伸ばしたのは、殆ど無意識のことだった。本体なのか頭なのか、そもそも胴体や頭という概念があるのかはわからないけれど、とにかく触手が伸びている大元のところにそっと手を伸ばした。黒い魔物は不思議な感触で、ぷるぷるとしているような、枕のように柔らかいような、毛の短い犬猫に触れているような感じがした。体温はなくひんやりと冷たくて、縄で擦れた手首が少し痛んだけれど、それ以上に魔物が喜んでいるようだったから離せなかった。


 魔物は、エヴァがそのからだにそっと触れた瞬間、ぶわりと膨らんで、もっともっとと強請るようにエヴァに身体を擦り付けたのだ。


「………ふ、ふふっ!」


 気付けばエヴァは、声を上げて笑っていた。悍ましい姿を持つ魔物が、どうしてか可愛く見えて仕方なかったのだ。

 もしかしたら感覚が麻痺していたのかもしれない。側には相変わらず紫の血を流す狼の魔物の死体があって、エヴァの腕の中に居るのはそんな死体を作り上げた張本人だったけど、この時のエヴァはどうしようもなく楽しくて、嬉しかったのだ。


「なぁに?あなた、私を守ってくれたの?」


 頭を撫でるみたいな仕草で魔物を撫でながらそう聞くと、けれど魔物は言葉まではわからないようで、ただ撫でられたことを喜ぶようにぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んだ。口という器官がないからだろう。魔物は鳴き声ひとつあげることなく、身体を使って感情表現をするようである。本の中には言葉を話す魔物もいると書いてあったけれど、この黒い魔物は違うのだろう。


 だけど、確かに一定以上の知能を持ち合わせているし、喜怒哀楽もあるようだった。

 もしかしたらずっと一人で寂しかったのかもしれない。魔物はいるけれど、さっきの狼の魔物は少なくとも意思疎通がとれるようには思えなかった。だからエヴァのことを助けてくれたのだろうか。ただそっと抱きしめて、撫でてやるだけで、黒い魔物は仕草だけで分かるくらいに大袈裟に喜んでいる。


「ありがとう。私は確かにあなたに救われたわ」


 誰よりも信頼していた人に裏切られて、両親には「役立たず」と詰られて、それまでエヴァの周りにいた友人達も枷を付けられたエヴァを「魔女のよう」と嘲った。誰に庇われることも同情されることもなくこの森に送り込まれた。

 何も見返りなんてないのに、公爵家の令嬢ではないただのエヴァを助けてくれたのは、きっとこの魔物だけだったのだ。


「ありがとう、ありがとう……」


 噛み締めるように繰り返した。気が付けば、涙が溢れて次々と落ちる。身体は震えていて、魔物はまたシュルシュルと触手を伸ばし、まるで慰めるようにエヴァの身体にぺたぺたと触れた。抱きしめられるのとはまた違う感触。それでも、気遣って、慰めてくれているのがわかって、エヴァはますます泣いてしまった。

 黒い魔物は、そんなエヴァの側にずっと寄り添ってくれていた。




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