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彼誰時

 目覚まし時計の音で目を覚まし、洗面所へ向かいマグに水を注いだら口に入れうがいをする。顔を洗い、パジャマを脱いだらシャツとスーツパンツを着てネクタイを締める。くしとワックスで髪をセットしたら、台所へ向かう。


 朝食はいつも軽く済ませている。冷蔵庫からトマトとチーズを取りだし皿に乗せたら、牛乳とコーヒーをグラスに注ぎ皿と一緒にテーブルへ配膳はいぜんする。チーズをバゲットに塗り、トマトを乗せて一緒に頬張る。

 トマトとチーズの組み合わせはイタリアに足を向けて寝られないと思わざるを得ない程に尊いマリアージュだ。このシンプルな組み合わせに至るまでにも過去に沢山の人達によるドラマがあったと思うと、今度の休日は図書館で食の歴史書を探すのも良いかもしれないと考えが浮かんでくる。


 トマトとチーズのバゲット乗せを三切れ程食べたらカフェオレを流し込み、食器を洗う。再び洗面所へ向かい歯を磨いたら、ジャケットとコートを着込み鞄を持って革靴を履く。

 ドアを開けると朝特有の澄んだ空気が鼻をくすぐる。都会とはいえど、こういう空気が流れる瞬間はあるものだ。

 心地良い生活ルーティーンの一歩目を踏み出し、駅へ向かう途中で信号待ちをしているところだった。


 ふと、肩を叩かれ振り向く。


 そこには、見知らぬ女性が立っていた。


「おはようございます。あの、その…お話、よろしいでしょうか」


「お話、ですか…あの、以前どこかでお会いしましたか」


「あ、その…会ったというよりは、以前図書館でお見かけして、その…前から気になっていたので、今日思い切って話しかけまして…」


 図書館でお見かけしてって、怖いな。普通に怖い。

 目の前の小声で話す女は、前髪が長い上に俯きがちで目元があまり見えない。服装は全身黒色に傾倒けいとうした組み合わせだ。


「あぁ、そうなんですね。すみません、私はこれから仕事なのでこれで失礼します」


「あ…ご、ごめんなさい…」


 こちらが逃げようとしたところ、女のほうからそそくさときびすを返してしまった。いったい何だったんだ。そのいさぎよさも怖過ぎるだろ。


 目の前で起こった事にしばらく困惑していたが、音響式信号機から流れる通りゃんせのメロディが意識を手繰たぐり寄せた。

 今回は何も起きなかったから良かったものの、あの様子だとまた声をかけられるかもしれない。そんな考えが頭の中を横切り、生まれた不安を振り払うかのように駅へ足を進めた。


 通勤電車を降り改札を抜け、新宿駅西口へつながる階段を登ると朝日が目に入った。

 俺が勤める会社は古幡ふるはた商事株式会社という、割と大手の商社だ。事業内容は不動産・飲料食品・ITと多岐たきに渡り、グループ会社は7社もある。

 その中で俺は人事部で労務課の事務仕事をしている。グループ全体の給与計算だったり、役所へ税金の普通徴収から特別徴収の変更報告だったり、財形貯蓄制度に関する手続きだったりと、まあ色々だ。

 役職は一応係長となっている。部長と課長の補佐をしながらも部下の質問にも答えなければならないので、仕事中は常に誰かと話をしているような状態だ。


「佐藤係長、おはようございます。今日はいつもより遅かったですね」


 会社に到着しデスクに座ると、隣のデスクに座る女性に挨拶をされた。

 彼女の名前は鈴木ゆかり。俺の部下であり、明朗快活めいろうかいかつな性格で課の中でも人気の高い社員だ。

 俺はいつも他の社員達より時間に余裕を持って出社しているのだが、彼女はいつも俺より早く来ている。以前にもっと遅く来て大丈夫と伝えたのだが、今のところ俺より遅く出社した事はない。


「おはよう鈴木さん。来る途中、変な人に話しかけられてね。おかげで電車を一本遅らせてしまったんだ」


「え、それって大丈夫なんですか。警察に相談とかしないと危ないですよ」


「そうなんだけどね、今日は朝から部長に渡さなきゃいけないミーティング用の資料を作らなきゃいけなかったから交番に寄っている時間は無かったんだよ」


「そうは言っても…心配ですよ、それ。よかったら私が資料作るので、今からでも届出をした方が良いんじゃないですか」


「うーん、何かをされるとしても相手は女性だし、腕力はこっちの方が上なんだから大丈夫なんじゃないかな」


「女性なんですか!?」


「お、おう…そうだけど…」


 急に大きめの声を出されてビックリしてしまった。彼女は元々体育会系だったそうだが、反射的に声を出す時は少し大きめの声を出してしまう。

 先輩の女性社員達と食堂で話している時に彼女の大きな声が聞こえてくるのはお昼時のお約束みたいなものだ。


「あ、すみません…いつも気をつけてるんですが、つい…でもそれって、もしかしてストーカーとかじゃないんですか。だとしたら本当に警察へ行った方がいいですよ」


「たしかにその可能性もあるかもしれないんだよなぁ。いや、俺にストーカーだなんて有り得ないとは思うんだけどさ」


「そんな事ありません!佐藤係長、顔は良いし背も高いし、絶対そうですよ!」


「いや、顔はって…それにしては女性社員から全然モテないんだけど」


「そんな事よりも」


「そんな事なんだ…」


「いいですか。女性のストーカーっていうのは、下手をしたら男性のストーカーよりも厄介なんですよ。それはもう、ツノガエルの舌より粘着質なんですから」


「ものすごくわかりにくい比喩表現ありがとうございます。わかった、それじゃあ今日の帰りにでも警察署に寄ってみるよ」


「ですから、資料は私が作りますって」


「いや、資料以外にも色々対応しなきゃいけない案件があるし、事情を話したら課長にイジられるのが目に見えてるからね。心配してくれてありがとう」


 謝辞しゃじを述べると彼女は納得いかないと言わんばかりの表情をしていたが、暫くしてPCに向き直った。


「そういえばさっきの顔は良いって、中身はどうなの?」


「………」


 沈黙は金、わかるよ。わざわざ退屈な男だなんて言えないよな。

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