第二話 新たな器
――薄く、目が開く。
身体の感覚はほとんどなく、視界もぼやけていて鮮明ではない。下から上に流れていくのは――気泡か。
『ようやく起きてくれましたね、クレイド様』
段々と状況が分かってくる。大きな硝子の器に満たされた、薄い青色の液体――その中に、俺はいる。
この液体と、そして硝子を通して聞こえてくる声は女性のものだ。抑揚の少ないその話し方が、今はどこか落ち着かせてくれる。
『新たに用意した器ですが、年齢を操作するのはリスクがあるので、お話していた通り元より若い状態になっています。魔術師としての活動に支障はありませんが、体術を元の状態まで持っていくには鍛錬が必要ですね』
一方的に話しかけられているので、こちらからも答えようとする――するとゴボッ、と口から泡が出てくる。
肺の中にも液体が入っているようだが、こんな状態でも苦しくはない。
この液体の中にいる限り呼吸をする必要はないようだ。なんとも奇妙な感覚というのは否めないが。
『アーシャリスさんが保持していたクレイド様の魂魄、これを分魄と呼びますが、器に定着するまで少し時間がかかりました。この器……素体に魂を宿すというのは私自身何度か試しているんですが、人間の魂で成功したのは初めてです』
視界のもやが少しずつ晴れていく。俺がいるのは、おそらく培養槽というやつの中だ。
ガラス越しに、左目を眼帯で覆った黒髪の女魔術師の姿が見える。魔術師ではなく、正確には魔工師という分類になるのだが。
彼女こそが『辺境の魔女』ミレイナ。俺にとって旧知の人物であり、魂の器を用意してくれた協力者だ。
(今は、王国暦の何年だ?)
『心配しなくても、それほど時間は経っていませんよ。クレイド様が大罪認定を受け、実質上の処刑を受けたのは三日前……今はアスカーナ暦の1375年です』
(……そうか)
『安心しました? 聖女様……アーシャレルトさんも無事ですよ。クレイド様の目覚めに立ち会いたいと言っていましたが、今は女神様のほうみたいなので』
(あいつのことは心配してない。心配するような身分じゃないしな)
『驚きましたよ、本当に……まさかクレイド様が女神様を連れてくるなんて。そして、私の研究に貢献してくれるというのも想定していませんでした。魂という概念は、まだ魔術師が扱うには縁遠いものですし』
ミレイナは俺に敬称をつけて呼ぶが、それは彼女が俺より年下だからだ。
『辺境の魔女』とはもともとミレイナの祖母の異名だ。孫娘のミレイナが祖母の研究を引き継ぎ、一人で魔術工房を営んでいる。
『クレイド様の魂は、素体の『魂核』となる宝珠に宿っています。それを破壊されない限り、クレイド様は事実上ずっと生きていられます』
どうも俺は『不死』というものに縁があるらしい。宝珠を破壊されれば死ぬということなら、それをいかにして避けるかが重要になる。
新たな器ですぐに強敵と戦うことは避けたい。修行をやり直すくらいの気持ちで鍛え直す必要があるが、妹のことを考えるとあまり悠長にしてはいられない。
『クレイド様が、私のことを覚えていてくれて良かったです。私は肉体に記憶が依存するという理論を支持する立場でしたから』
(検証は済んだな。魂にも記憶は付随する。肉体に依存する記憶もあるだろうから、欠落はあるかもしれないが……どうやら、俺は『俺』という人格のままみたいだな)
『はい。私にとって興味深い研究対象の、クレイド様のままです』
(……この状況になって初めて、そんな評価をされてると知るのもな)
『今だから言えることです。無事で良かったというのに嘘はありませんよ』
ミレイナが帽子を取り、俺の入っている培養槽に近づく。俺は何となく、自分の手を見てみる――確かに、元の俺よりは明らかに小さい。
(元より若いと言ったが、この『器』は何歳くらいなんだ?)
『十二歳……いえ、十三歳くらいでしょうか。私から見ての暫定的な数字ですが』
(十三歳……元の年齢より十歳も下がるのか)
『はい、私より五つも年下です。立場が逆転してしまいましたね』
元の俺が二十三歳、ミレイナが十八歳――確かに、これでは逆転してしまっている。
『私のことは、ミレイナお姉さんと呼んでくれると嬉しいです』
(……できれば、ミレイナさんというくらいにさせてくれないか)
『分かりました。これから私はクレイド様の保護者という立場になりますので、距離感は遠くない方が良いです』
(保護者……そうしてもらえるのは有り難いが……)
『近隣の人たちには、親戚の子供を預かっていると話しておきます。魔工術で作った人造素体だと正直に話したら、驚かれてしまいますから』
(その話は後で詳しく聞かせてもらいたいな。人造素体が、人間の魂を宿しても拒否反応を起こさないというのは、『鋼の城』の連中が知ったら禁術指定しそうなものだが)
『クレイド様が「鋼の城」の拘束術式を破ることの方が、重大な禁忌です。「鋼の城」の根底を揺るがすような出来事ですよ』
(……そうだな。今の俺なら、鋼の城に対してどんな考えを持っても、捻じ曲げられることはない)
ようやく自由を手に入れた――だが、まだ一歩を踏み出してすらいない。
(『鋼の城』が俺の存在に気づいても、二度と縛られない。そのためには……)
『彼らに対抗する力を手に入れる必要がありますね。私のように「鋼の城」の干渉を断っていても、常に圧力を感じていますから。定期的に研究場所は移していますし』
(苦労してるんだな……俺にもできることがあったら言ってくれ。恩には報いるつもりだ)
『ふふっ……「鋼の城」で最も優秀で、冷徹な任務執行者。それが本当はこんなに律儀な少年だなんて、誰も思いはしないでしょうね』
(少年というのは、この器の容姿の話で……しかし、そうか。クレイドという名を名乗るわけにはいかなくなるか)
『そうですね、では……「シード」という名前はいかがですか?』
ミレイナは何かの本をめくり、付箋の貼ってあるページを開きながら言った。
(シード? なぜその名前なんだ)
よほど発音しづらかったりしなければどんな名前でも構わない。だから、何となく尋ねてみただけなのだが――ミレイナは悪戯っぽく、楽しそうにくすっと笑った。
『シードという言葉には、古代語で可能性という意味があります。今のクレイド様は、いうなれば可能性しかない存在ですから』
(そういうことか。分かった、これからシードと名乗ろう)
『見た目だけでは人造素体とは分かりませんから、普通に振る舞っても問題ありません。胸の宝珠を見られなければどうということはありませんし』
人造素体――魔工術の秘儀ともいえる、人間に近い人形。それが作り出される過程を考えると、意識せざるを得ない特徴がある。
(この素体を作るには、エルフの髪や血を使うんじゃなかったか?)
『ちゃんと協力者を得ているので、問題はありません。シード様の母親の一人は私として、彼女のこともじきに紹介します』
(いや、俺の見た目にエルフの特徴が出てないかってことなんだが……)
『ハーフエルフというよりは、もっと薄いですね。ほとんど人間種族と変わりませんが、髪の色は変わっていますし、「鋼の城」の関係者からクレイド様だとすぐに気づかれることはないでしょう。こんなに可愛らしい少年が、元特級魔術師だなんて誰も想像しません』
遊ばれている――そう思うが、恩人であるミレイナには当面頭が上がりそうにない。
とにかく、この培養槽から出てみたい。その意志が伝わったのか、ミレイナは俺を外に出すための準備を始めてくれた。