プロローグ・2
「おまえの魂は、くだらぬ式で縛られている。それだけの能力を持ちながら、羽をむしられ、鳥籠の中に入れられている」
彼女は俺よりも魔術の真髄に近いところにいる。否、神であるのならば、生まれながらに真理を知る存在であってもおかしくはない。
『鋼の城』に歯向かえば、俺は全ての魔術を封じられ、罪人として処理されるだろう――しかし。
「……どうすれば、俺は自由になれる?」
それを尋ねることは、任務を放棄することと同義だった。しかし、ようやく見つけた可能性に賭ける以外の選択はなかった。
「おまえは一度死ぬことになる……いや、死を克服するというべきか。魂を縛る式は、被術者の死をもって消失する」
分かってはいたことだ。『鋼の城』の魔術師は死ぬまで解放されることはない。
だからこそ、迷いは完全に消えた。
相応のリスクを背負わなければ、あの場所から抜け出すことはできない。
「おまえは我を……我の依代であるこの娘を、ここから連れ出す。我はその代償として、おまえの魂を分割する式を施そう」
「魂を分割……そうすると、俺は弱くなるんじゃないのか」
「今のおまえを殺すことは、人間の魔術師では難しい。そのような対象を殺す方法は一つ……そう、封印することだ。分割した魂の一つが封印されれば、もう一つの魂は力を増す」
「……分割した魂を宿す、新たな身体。それ次第で、元の俺より強くなれるかもしれない」
「そうなる。人間種族の魔術能力には限界がある……それを乗り越える術として、肉体を移し替えるというのも一つの解ではある」
今の肉体が封印されても、魂を割って生き延びる。理論には辿り着いても、実行する手段のなかった方法――それを、神は可能にする。
「……本当に、できるのか?」
「人間は神と契約を結ぶことができる。おまえが約束を守れば、我もまた準じよう」
魔術師が取り決めを交わすときは、必ず拘束力を持つ形で行う――それが常識だが。
「分かった、それでいい。その枷は外してもいいのか?」
金属を劣化させる『腐蝕』で強度を下げたあと、『切断』の魔術を使う――聖女を縛る足枷は容易に壊すことができた。
「神ならこれくらいの拘束からは、すぐに抜け出せるんじゃないのか?」
「この娘がそれをさせなかった。我が力で抜け出すことはできるが、他ならぬ宿主が自由を求めていなかった」
「それなら……」
アーシャレルトを連れ出すことは、彼女自身の意志に反してはいないのか。そう問いかける前に、神と名乗る存在が手枷を差し出す。
「おまえになら、この娘は殺されてもいいと思っていた。もう十分に生きたと思っていたのだ。それでもおまえは殺さなかった」
「……俺とは、初対面のはずだが」
「光を奪われても、この娘には聞こえている。おまえの魂からの苦しみと叫びが」
ただの気まぐれだ。こんな環境に置かれても命乞いをしない相手に、興味ともいえない関心を持った。
そんなのは、愚にもつかない思い上がりだ。自らの魔術に驕り、憐れまれていることすら気づいていなかったのだから。
「だからこそ、我もおまえを選んだ。互いを縛る制約などは必要ない」
その言葉だけで信じろと言う。この神は、どうやら相当な自信家のようだ。
だが、俺ももはや引き下がれない。人間の身では、『鋼の城』の禁術から逃れるには時間がかかりすぎる――ならば、神の力を借りる。
「俺もあんたを契約なんかで拘束するつもりはないが、名前くらいは伝えておこう。『おまえ』と呼ばれ続けるのも難儀だからな」
「クレイド・ルーザス。我が前で魔術を使うことは、名乗ることと同義なり」
「流石だな……あんたの名前は? あんたが宿る依代とは別の名前で呼ぶべきだろう」
「我が名はアーシャリス。この娘の名は、本人から聞けば良い。『アーシャレルト』は本来の名ではない」
そう言い終えたあと、聖女の様子が変わる。表出する人格が継ぎ目なく入れ替わっている――興味深くもあり、やはり異様な光景でもある。
「私にとっては、姉のような方です。こう見えて、とてもお優しいのですよ」
自分の中にいる神に対して親しみを込めて語りかける彼女を見ていると、やはり神の器となるだけはあるのかと思えてくる――と、そんな場合ではないのに、緊張の糸が緩んでいる。
「俺はあんたを殺しに来たんだぞ? なぜそんなに落ち着いてる」
「アーシャ様のおっしゃる通りです。私は、あなたになら殺されてもいいと思いました……でも……」
彼女は何か言いにくそうにする。やがてアーシャリス神に入れ替わると、彼女はふぅ、と息をついてから言った。
「さて……神殿の連中に気づかれぬうちに、事を済ませてしまおう。分割したクレイドの魂を、一時的に我が元に移す……少し血を借りても良いか?」
「血印か。これくらいでいいのか?」
短刀を取り出し、刃を人差し指に当てて血を滲ませる――すると。
アーシャリスは自分の胸元を開き、俺の手を引き寄せ、自らの肌に紋様を描きこんだ。
「クレイド・ルーザス。魂が分かたれても、器が移り変わろうとも、汝は汝のままで有り続ける」
「っ……!!」
身体の中にある魔力の根源。それに直接触れられている――アーシャリスの手によって。
魂の分割。自分が二人になったような感覚が一瞬だけ生じ、それはすぐに消えた。
それでも分かる。俺の目の前にいる聖女、その胸に刻まれた血の紋様。そこにも『俺』がいる――分割された魂が、そこにある。
「……ここに移したクレイドの魂は、『枷』の感知を逃れるために眠らせておく。新たな器が決まるまでは」
新たな器――そう問われて、一つだけ心当たりがあった。
『鋼の城』によって認識されていたが、その勧誘を断って独自に研究を続けていた『辺境の魔女』。彼女の力を借りることができれば、器を確保できるかもしれない。
「まず、あんたを安全なところに連れ出す。それから俺は『鋼の城』に捕捉されるまでに、全ての準備を済ませる……それでいいか」
「良いだろう。我も見込んだ相手が死ぬよりは、生きていてくれた方がいい。この娘自身のためにもな」
『鋼の城』の魔術師を縛る禁術。それを破る術は、俺が生きているうちに見つけられないかもしれないと思っていた。
アーシャリスの力を借りれば、俺は自由になれる――だとしたら、神が持つ知識は、人間の魔術の狭い世界をきっと大きく広げてくれる。
「あの……一つ、お願いをしても良いでしょうか」
「ん……何だ? この際だから、言いたいことは言っておくといい」
さっきまで自分を殺そうとしていた相手を、警戒するのは当たり前だ。それこそ、俺を信頼するようなことは容易にあってはならない。
――それなのに。
「……この神殿を出て、クレイドさんにかけられた魔術を解くことができたら。私のお願いを聞いてもらえますか?」
『鋼の城』の拘束術式から逃れた魔術師は、記録上存在しない。初めから『鋼の城』を忌避している魔術師だけが、捕捉されなければ自由に生きられる。
この世に絶対はなく、試みは失敗に終わるかもしれない。死んでしまえば全てが終わりだ。
だが、アーシャリスの言うとおりに死を克服することができたのなら――その時は。
「その願いってのはなんだ? 差し支えなければ教えてくれ」
「……気になりますか?」
「ああ」
「……私の、本当の名前を呼んでくださいませんか。『アーシャレルト』ではない名前を」
本当の名は何と言うのか。それを尋ねる前に、目隠しの布を解き、巫女が素顔を見せる。
これほど過酷な環境にありながら、彼女は――ゆっくりと目を開くと、俺の顔を見て、何も言わずに顔を赤らめ、はにかんだ。
入る時は手順を踏む必要があったが、出る時は一瞬だった。天井から差し込んでいるのは月光――つまり、あの遥か高い場所にある光にたどり着けば、神殿の外に出られるのだから。
空中浮遊、飛行を実現するにはいくつかの方法がある。俺が選んだのは重力反転の術式だ――聖女を抱えたまま、俺は神殿の外まで飛び出し、それでも止まらずに浮上していく。
「……あんなに遠いと思っていたのに。今は、手が届きそうです」
俺が拘束術式から解放されたとして、彼女との関わりを持ち続けることになるかは分からない。
聖女という素性を隠し、名前を変えて、どこかで穏やかな暮らしを送ってもらう。
そうするためには、生きなければならない。いつか妹を『鋼の城』から連れ出すためにも、まだ死ねない。
「こうなった以上は、責任は取る。アーシャリスには借りもできたし……」
「クレイドさんの魂が、私の身体の中で休んでいるんですよね……その、どんなふうになるのか想像もつきませんが。しっかり預からせていただきますね」
「……やはりあんたは、思ったよりも度胸が据わってるな」
「そんなことはありません。こうして高いところを飛んでいると、少し怖いですし……でも、クレイドさんなら大丈夫だと思うので」
「謎の信頼だな。繰り返すが、俺はあんたを殺しに来た暗殺者みたいなものだぞ」
「でも、そうなりませんでした。勇気を出して声をかけて良かったです」
彼女がどれほどの覚悟で、あの時声を発したのか。それを今さら理解して、詫びたいという思いが湧く。
だが、今はそんな言葉よりも。これから訪れる『呪い』に抗い、生き残らなければならない。
神殿の目が届かない場所まで離れ、森の中に降りる。
――その時にはもう、否応なく理解していた。
聖女を殺すという任務を拒否した俺は、処罰を受けなければならない。抗えなくなる前に、辺境の魔女の元に辿り着かなければならないのだと。