第二章 記憶喪失の少年 <3>
文章中に矛盾に近い部分がありましたので、その点を考慮した結果、ほんの少し削除しました。物語自体には大した影響を与えるものではないと思いますので、一度お読みになった方は気にせず、無視してもらって大丈夫です。
「いえ、すいません。まさか驚かせてしまうなんて思いもしなかったものですから」
テーブルの椅子に座りながら少年がへこへこと頭を下げた。名前は明宮風馬だと言う。
髪を短く刈り込み、顔立ちのほっそりとした少年だ。そこだけを見れば清人とそれほど変わらない男の子だが、首から下の腕や足はやはり鍛えているだけあって、張った筋肉の形がよく見えた。
色白でひょろりとした小枝を思わせる清人よりも、幾分か屈強そうに見える。
足が速いという噂は本当なのだろうと、成実は内心、納得した。
先ほど説明があったように、彼は沢口の陸上部の後輩ということだった。
「もういいわよ。でも、どうしてこんなところで腕立て伏せなんて?」
成実が不思議そうに訊くと彼は、頭を掻きながら、へへっと笑った。
「実は自分、陸上部なんですけれど、いつもだったらこの時間帯は練習時間なんです」
「はあ」
「それで、どうしても身体を動かしてないと落ち着かなくて。だから、止む無くここで腕立て伏せをしてたんです。それはもう癖というか、自分はそういう性質なんです」
「ほう、なるほど。そういうことだったのね」
中々、調べがいのありそうな面白い人間だな、と成実は眉を動かす。
「へへへ、すいません」
「いや、もう謝らなくていいけど」
いまいち話題の見つからない清人はそんなことをぽつぽつと話す二人をしばらく眺めていることにしていた。
そうして部屋の中を見ていると、たまたまこちらを向いた風馬と目が合った。彼の口が開く。
「えっと、お二人は沢口先輩とどういう関係なんですか?」
なんという気もなしに、そう訊かれた。
返答に困り、言葉を失った清人だったが、すぐさま成実が答えた。
「ああ、私達は新聞部なのよ。今回の失踪事件について調べるために今日はやってきたわけ。だから、特に彼と何か関係があるわけではないわ」
「え、すると、友達でも知り合いでも、親戚でもなんでもないんですか?」
「言ったとおりよ。でも、さすがにこのことは沢口さんの家族には言わないで、事件が起こって寄ってきた野次馬だと思われたら、いい気持ちがしないでしょ」
「せ、先輩。そんなこと言っていいんですか?」
あっけらかんと全てを話してしまった彼女に対し、清人は風馬の顔をちらちらと観察しながら注意した。
「だって、事実だし。いちいちどういう人間関係かなんてでっちあげるのも面倒でしょ。ねえ、明宮君、協力してくれる? 事件についてあなたが知ってることを聞かせて欲しいの」
すると、彼は子供のように両目をぱっちりと開けると、嬉しそうに身を乗り出した。
「ええ、いいですよ。かっこいいですね。被害者宅への潜入捜査ってことですか? 刑事ドラマみたいだ」
清人はそう言った目の前の少年に冷たい視線を向ける。
人が一人居なくなっているのに、この不謹慎な発言はなんだ? というわけだ。本当に自分の先輩のことを心配しているのか、疑いたくもなった。
この明宮っていう生徒、ずいぶん能天気な人間だな。清人はそう分析する。
しかし、一方で、成実は興奮している風馬に気分をよくしたようだった。テーブルに肘をついて、どこか利いた風なことを言う。
「ノンノン、そうじゃない。私達は真実を追うジャーナリストなの。その辺のへっぽこ刑事とは違うわ」
「ジャーナリスト、それまたかっこいい響きですね」
彼はうっとりとした表情で頷く。
「そうよ、あなたジャーナリストって何か分かる?」
「ええと……実は、よく知らないです」
「ほう、それがなんたるかを知らんとな」
調子付いた成実が座り方を直し、長話をする態勢に入る。
このままだと、二人で違う方向に話が進んでしまいそうだと危惧した清人は軽く咳払いをして会話を止めた。
「えー、ごほん」
「何よ、何か言いたいことがあるの?」
「あのですね。それは今話すべきことではありません。重要なことは事件について知っている情報を、彼に訊くことです」
清人がそう言って、話を本題に戻す。
「ま、まあ、それもそうね。明宮君、先輩が最後に目撃されたのはどこだか知っているの?」
「ああ、それなら、行方不明になる寸前に学校の校門で別れたっていう先輩の友達が居ます。先輩、それからどこに行ったのか、全く分からなくなってしまって」
「ふうん。それで、最後に別れたとき、その先輩に何か変わったところはなかったのかしら? 聞いてない?」
「うーん、そうですね。いつもと変わらなかったと言っていました。自分も部活の時は顔を合わせるんですけど、普通でしたよ。いつもどおり元気でいらっしゃって」
「とても、自分から失踪するようには見えなかった?」
「ええ、まあ」
成実はそこで吐息を漏らし、頭の後ろで腕を組んで、「どう思う?」と清人に訊いた。
「そうですね。自分から姿を隠した可能性がないとするならば、なんらかの事件や事故に巻き込まれたって考えるのが妥当ですね」
言いながら、清人の脳裏では数日前に聞いた麻子の妙な噂が引っかかっていた。
『キメラが学校に入り込んだ』
どこか嫌な感じのする話だった。
やはり、もしかするとそれと今回の件は関係しているのだろうか。
とすると、沢口和也はキメラに襲われた?
そんな馬鹿な、ナンセンスだと否定する。
「うーーん、分からん」
降参した、と成実がテーブルに突っ伏した。
それとほぼ同時に居間のドアが開き、沢口和也の兄がお盆にアイスコーヒーを乗せてやってきた。全員の数を確認し、シロップとミルク、それからわざわざストローも持ってきてくれた。
礼を言って、三人は受け取る。
「ふう、あんまり人におもてなしすることがないから、インスタントコーヒーが入っている場所が分からなくて、探したよ」
彼は苦笑いしながら額の汗を拭って、角の席に座った。
その様子を見ながら、今度は清人がさきほどから思っていたことを彼に質問をした。
「あの、先ほどからなんだかとても落ち着いていらっしゃるように見えるんですけど、もしかして、弟さんが居なくなることって前にもあったんですか?」
「え? そう見える?」
意外そうに彼が言ったので、清人は不躾なことを言ってしまったと、慌てて謝った。隣では、成実がコーヒーをストローでかき混ぜながら、話に耳を傾けている。
「あ、ごめんなさい。ご家族の方が居なくなったんですから、当然心配ですよね。落ち着いているなんて言ってしまって、すいません」
しかし、彼は笑って首を振った。
「いや、君の言うとおりだよ。まさかそんな風に見抜かれるとは思わなかったから驚いてたんだ」
「……言う通りってことは?」
「そう、実は以前にもこんなことはあったんだ。その時は、遠くに引っ越してしまっていた友人の元に、無断で遊びに行ってたんだけど。体のいい一泊二日の旅行さ。中学生だったくせに。そのときも当然大騒ぎでかなり大変だった。そういうことがあったからこそ、俺としては今回もどうせそんなことじゃないか、と薄々思ってるんだ」
「へえ、そんなことが。それで、今回はその友人のところへは連絡は入れたんですか?」
「もちろん連絡したさ。でも、来てないって。だから、今は他の友達の家に連絡してるところさ。たぶん、大騒ぎしなくても、その内ひょっこり帰ってくるよ」
彼が明るくそう言ってくれたので、その場になんだか安心した空気が漂った。そう言われると学校での騒ぎはもしかすると、過剰な反応なのかもしれないとも清人には思えた。
そういえば、と思い出す。
昔読んだ本の中でこの国の毎年の失踪者数は十万人にも上るという記述があった気がした。
それは単純に計算して一月で、八千人強もの失踪者がでることを示している。しかもそれは届けが出された数であって、実際はもっとたくさんいるらしい。
それは決して良いことを指しているわけではない。しかし、逆に考えればそんなことはほぼ日常茶飯事と思うこともできる。今回の件も多くの中の一件だと思うと、それほど、深刻になることでもないのかもしれない。
その後は、全員でアイスコーヒーを飲みながら、先ほど風馬から聞いたものとあまり変わらない内容のことを教えてもらった。
どうやら、得られる情報はそれほど多くないらしい。
成実は途中からは適当に頷いて話を聞いていた。
そして、時計の針も回り、そろそろ帰るべきだという空気が濃厚になり始めた時だった。
ふいに、玄関で引き戸がガラガラと開く音がした。
次いで、
「ただいま」
という少年の声がした。
その声を聞いて、もちろん成実と清人もぴくりと反応したのだが、正面に座っていた二人の顔色がさっと変わったので、確信した。
兄の方が弓で弾かれたように立ち上がり、
「和也!」
と叫んだ。
そのまま玄関のほうへ一目散に駆けていく。三人も席を立ち、すぐさまその後を追った。
すると、ドアの向こうから怒鳴り声が聞こえてきた。
「今までどこ行ってたんだ、馬鹿!」
見ると、玄関先で、和也と呼ばれた少年がその兄から両肩を掴まれ説教を受けていた。乱暴に身体を揺すられ、その表情は何が起こったのか分からないように困惑しているようだった。
そんな彼は兄の顔を見て、後ろからやってきた成実たちの方を見る。
「彼が、沢口君?」
成実が隣の風馬に訊くと、
「ええそうです」
と間髪入れずに返答し、戸口で棒立ちになっている少年に駆け寄った。
「先輩! 大丈夫ですか?」
しかし、そう言われてもその少年は訳がわからないといったように目を瞬かせている。青ざめているほどではないが、顔色は悪くみえた。
「おい、聞いてるのか? 皆心配してたんだぞ! いったい今までどこに行ってた!」
再び兄の怒声が響く。
「そ、それが……」
言いかけて、少年の視線が幾度か宙を漂い、ぽつりと小さくつぶやいた。
「分からないんだ」
とそれだけ。
「わ、分からない?」
「今まで一日、どこにいたのかも、何をしていたのかも。思い出せない」
これにはその場にいた全員の空気が凍った。思わず絶句する。
「それは、どういう……」
「分からない。気がついたら、家の前にいて、昨日からの記憶が全部ないんだ」
困り果てた消えそうな声でそれだけ言って、少年はその場にそのままへなへなと蹲ってしまった。重たい頭を支えようとするかのように、俯いている額を手で覆う。
そんな彼の影を戸口から差し込んで来た夕陽が不吉に黒く、長く、引き伸ばしていた。
これで、2章が終了です。
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