第二章 記憶喪失の少年 <2>
「それで、まず何をするんですか?」
手を拭いたハンカチをポケットに戻しながら清人がそう訊いた。
「そうね、その行方不明になったっていう沢口って生徒がどんな人なのか、行方不明になった状況を調べる必要があるわね」
「今からその人のクラスに行くんですか? もう放課後で生徒はいないかもしれませんよ」
彼は教室の時計を眺めて首を振った。
「ああ、そうよね。うーん、ここはいっそその人の自宅に言ってみない? そこなら、警察からでもいろんな情報も入ってるだろうし、どんな友達がいるかご家族の方から聞けるじゃない」
「その場所は、誰に聞くんです?」
「手っ取り早く担任の先生よ。彼の友達なんですって言ったらきっと教えてくれるだろうし」
その発言に清人は細い目で彼女を見た。
「先輩」
「何よ?」
「それは真っ赤な嘘ですよね」
「なあに、嘘も方便よ」
ぺろりと舌を出し、不敵に微笑んで彼女は言う。そこには何か失敗することへの不安は一片も見えない。
こういう時に発揮される彼女の行動力は、目を瞠るものがあることを清人は知っていた。
そのため、大丈夫だろうか、と心の中では思っていたものの、それを口に出すことは無かった。
すると、彼女は有言実行と親指を突き出し、そのまま階下の職員室に向かうべく廊下を進んでいく。
そして、それから数分後、自慢げに小さなメモ用紙をちらつかせ、胸ポケットを入れながら職員室を出てくる成実を清人は出迎えていた。
「本当に出来たんですか?」
「ええ、友達なんですけど、ご家族の方と話したいって言ったら、割とすんなりと。どうにも、沢口って生徒、両親と二人の兄弟で生活してるみたいね。そう話してたわ」
彼女はポケットをぽんと叩く。
「先生には事件のことを話しに来たわけじゃないって分かると多少がっかりされてたけど」
「……職員室でも、やっぱり事件のこと、話題になっている感じでしたか?」
清人はさっきから気になっていたことを訊ねる。すると、彼女はしかめっ面になり、うな垂れた。
「そりゃ、もう。むさいおっさんばっかりがさ、隅でソファを固めて顔つきあわせてるの。思わず後ずさっちゃったわ」
「ううん、やっぱり人が一人いなくなったわけですからね。もしかするとその人の自宅にいっても、それどころじゃないって門前払いされるかもしれませんよ」
実は、清人はこのことを気にしていたのだ。
いくらこっちは事件のことを調べるためとはいえ、実際に息子がいなくなってしまった家族のことを考えると心持ち、穏やかではないだろう。パニックになっている可能性もある。
そうなれば、自分たちにとてもじゃないが構っていられないに違いない、そう考えたわけである。
「そうあっても、忍耐よ。話を聞かせてくれるように頼む。それだけ」
「はあ」
「ジャーナリストには、忍耐も必要よ」
彼女はまるでそれが自然なことであるかのように平然とそう言ってのけた。さあ、行きましょうと勝手に歩き始める。
しかし、その後ろ姿を見ながら、清人は呆れていた。
なにしろ、彼女はその同じ口でいつも駄々っ子のように忍耐力の欠片もない愚痴をこねているのだ。調子がいいというか、なんというか……。
ともかく、彼がこのようにしばし無言で立ち尽くしているのはそういう理由である。
二人が住んでいる町は陽なた市と言った。県内でもそれなりに大きな町で、古くよりその土地柄から港町として栄えた土地だった。
なんでも、周囲を山に囲まれ、町の東側を海に面したこの地形は、天然の漁港と呼ばれて名高く、漁のシーズンになると町全体が活気付く。
年間を通してそれほど降水量が多くなく、自然に囲まれた温暖な気候が特徴である。
二人が通う、広国高校はそんな町の中心部から南寄りの住宅地の傍にあった。
町の北西から少しずつ支流が重なり、大きな流れとなった黒多川が海まで向かう途中、それと交差する形で線路が走っているのだが、広国高校はちょうどその近く、川のほとりの大きな白い建物だ。
近くで見ると、少々壁面がくすんで見えるが、それなりに新しい校舎である。
その校舎の門を今しがた出てきた二人の姿がある。
「それで、彼の家はどこだったっけ?」
成実が先ほどの畳んだメモ用紙を取り出して確認する。清人もそれを横から覗き込んだ。教師の文字で、住所と、簡易的な地図が書かれている。
「ここからそれほど遠くないですね。このまま川を北上して、あ、駅の裏手の辺りになるんだ」
それを見ながら彼はふむふむと頷き、方角を指で差して彼女に示す。
それで目的地の大方の目星がついたので、二人はそこに向けて歩き出した。
道のりは全体で十五分ほどだった。
どこにでもあるようなごく普通の青い瓦の家が見えてきて二人は立ち止まる。
どうやらそこが示されている沢口和也の自宅らしい。
小さな庭には大きく枝を張った柿の木があり、軒先には黒と赤の自転車が並べておいてあるのが外から見える。
成実が先に歩き、門扉を開けて、玄関で呼び鈴を鳴らした。
「はい、どちら様ですか?」
中から顔を出したのは、成実たちとそれほど年齢の離れていないような長身の男性だった。
どうやら、彼が沢口という生徒の兄ということだった。
聞くと両親は今、警察署の方へ出向いていて留守らしい。
「弟のことで何か?」
彼からそう聞かれて、成実が説明した。
自分たちは彼の友人で事件のことを聞きたくて訪問したのだ、と簡単に話した。
「よければ、お兄さんからでも少し話を聞きたくて、ですね」
「ああ、いいよ。上がってってよ」
すると、意外にもすんなり許しが出た。
「ちょうど今、他の友達も家に来ているところだし」
成実がぴくりと顔を上げる。
「他にも、誰か来てるんですか?」
「ああ、陸上部の明宮って一年生の男子生徒。弟とは昔からの付き合いみたいで、先輩と後輩の間柄だよ。知らない?」
下手に知っていると言えば、話がややこしくなる気配を感じた成実は素直に首を横に振った。
中に案内され、靴を脱ぎ、居間に続く短い廊下を歩きながら、成実は後ろの清人に囁いた。
「知ってる? その明宮って子」
清人は少し考える素振りを見せてから、知っていることを簡潔に答える。
「僕と同じクラスではないので、あまり。でも、校内では先輩たちを差し置いて、かなり足が速いって聞いたことがあります。中学の頃は大会で何度か優勝したこともあるとか」
「へえ……全く知らないわ」
「はあ……」
そんなことを話しながら、案内された居間に入ろうとして、成実はぎょっとした。
入り口のすぐ目の前、自分の足元で平身低頭し、土下座をしている少年がいたのである。
「うわっ!」
その拍子に、驚いた成実の頭が背後の清人の顔に当たり、眼鏡が落ちてしまった。
「痛っ!」
「ごめん、大丈夫?」
成実は失態に慌てて振り返り、彼に落ちていた眼鏡を手渡す。清人は少し赤くなった鼻の辺りをさすりながらそれを受け取った。
「ええ、平気です。どうしたんですか?」
「ああ、目の前で人が土下座してたから、びっくりして」
「どげざ?」
二人が振り返ると、確かにそこには姿勢を低くして頭を下げている少年が、いや、少し違う。
「11、12、13、14……」
なにやら、彼は数を数えている。
よく見ると、それは土下座ではなく、腕立て伏せをしているのだった。部屋の真ん中で。こちらの存在に気がつくこともなく。
一心不乱、とはまさにこのことだろう。
「じゃあ、何か飲み物を用意してくるから、適当にくつろいでてよ」
なぜかその状況に慣れている様子で、沢口和也の兄はそう言ってどこかに消えてしまった。
そのため、そこには成実と清人、それからなぜか腕立て伏せをしている少年の三人が残されてしまう形となった。
未だ、腕立て伏せを止める様子のない少年に居間に入ることも出来ず、困惑した成実は、
「こ、これはどうすればいいの?」
と狼狽する気持ちをそれだけ、口にした。