第二章 記憶喪失の少年 <1>
目が覚めると成実は自分が教室の机で寝ていたことに気がついた。
「う、あれ?」
身体を起こすと同時にチャイムが鳴る。
担任教師の枡口が、騒ぎ始めた生徒を黙らせるために手を叩いた。
「おうい、今日のホームルームはこれで終わりだ。皆、そういうことだから、充分気をつけるように。それから、何か知っているものは職員室に来てくれ。それでは解散」
なにやら重要なことを彼は言っていたようだが、成実には分からない。全く耳に入っておらず、熟睡していたせいだ。
頭を揺すって、のんびり背伸びをする。
そこへ現れたのは、友人の良子だった。
右の視界に彼女が持っているカバンのキーホルダーが見えた。それで成実には彼女だと分かった。それは、彼女が贔屓にしているバンドのマスコットキャラクターで、それを持っているのはこのクラスでは彼女だけだったのだ。手に入りにくいレア物なのだ、と以前自慢してきたのを覚えている。
そのバンドに影響されたのか、彼女は軽音楽部に所属していた。
近づいてきた長身の良子は腰を折って、成実の顔を覗き見る。
「あら? 寝てたんだ」
彼女は成実の様子を見て推測したようだ。
「うん、おはよう」
返事をしながら、成実は年頃の少女らしくなくぼりぼりと頭を掻く。
「昨日の夜、遅くまで本読んでたから」
そんな彼女に良子は額につんと人差し指を当てた。
「悪い子、早く寝ないからこうなるんだよ」
「ふふ、分かってはいるんだけど」
成実は言いながら、ふと周囲を見渡す。
すると、いつもならすんなり部屋からいなくなる生徒たちが、今日はやけに残っていてところどころでひそひそと話をしている。
「……? 何かあったの?」
「うん? ああ、成実、先生の話聞いてなかったのね」
「何の話だったわけ?」
「私もよく知らないんだけど、四組の沢口和也って男子が一昨日から家に帰ってないんだって」
それを聞いて、彼女は目を瞠った。
「そ、それって」
「昨日から行方不明ってこと」
その瞬間、言葉が引き金になったように、成実の脳内を刺激した。
古く閉ざされていたはずの記憶の扉が開かれたようだった。
ノイズ交じりの音声が聞こえる。
フラッシュバックしたように、頭の中でテレビ画面の様子もよみがえった。
『えー、紛争地帯の詳しい状況は未だ、はっきりとした情報が伝わってきておりません。現地で武装隊の激しい衝突があったようで、現場に居合わせたと思われるジャーナリスト、稲葉洋司さんを含めた数名の安否が確認できていません。繰り返します、現地の情報はまだ伝わってきておりません――』
臨時のニュースを伝えるテレビの声だ。
どうして、今そのことを思い出すのだろう。
あれは父が居なくなった朝のことだ。
凍てついた手が肩に置かれたようなぞっとする感覚を成実に呼び起こす。
全身が金縛りにあったようで……。
「ちょっと、成実。どうしたのよ」
気がつけば、放心していたようで良子に肩を揺すぶられていた。それで成実ははっと我に帰る。
「あ、ごめん。その生徒が行方不明になったんだってね」
「そうなの、どうやら、昨日の夜から家に帰ってなくて、ちょっとした騒動になってるのよ。それで、何か知っていることがあれば職員室に来いって先生が。もしかして、成実、何か知ってる?」
「ううん、名前すらよく知らない人だもの」
「そう……」
彼女はどうやら先ほどの友人の放心した状態が腑に落ちず、気になっていたようだったが、成実は気がついていない。
おもむろにぽんと手のひらを叩いた。
「ともかく、これは緊急事態ね。いろいろやらなくちゃ」
「へ?」
良子は彼女の言動に面食らった顔をする。
「ごめん、今日は先に帰ってて。私、用事ができたから」
「ちょ、ちょっと」
唖然としている友人を横目に成実はカバンを持ち上げ、教室の外へと急いだ。
目指すは一年生の教室だ。
「あれ? 稲葉先輩」
成実が清人の教室を覗き込み、彼の名前を呼んだところで背後から背中を叩かれた。振り返るとハンカチで手を拭きながら立っている清人だった。
「ああ、妻沢君、いたのね」
「どうしたんですか? 慌てた様子で」
成実がわざわざ教室に来るとは、絶対何かある、と思っている彼は胡乱な目つきである。出来れば逃げ出したかった、という感情は少し歪んでいる口の端から容易に察することが出来た。
「どうしたじゃないわよ。事件よ、事件。麻子の噂が的中したのよ」
成実は興奮した様子で鼻息荒く説明する。
「あの、行方不明者が出たとかいう話ですか?」
「そうよ、情報が早いわね」
「ホームルームで説明があったのでどのクラスの生徒も知ってると思いますが」
「まあ、いいわ。ともかく、このまま放っておくわけにはいかない、行きましょう」
彼女がそう言った途端、彼の目が点になる。
「は? 行くってどこへですか?」
「決まってるじゃない、取材よ。新聞部だもの、事件のことを調べるの。そしてあわよくば、私達が、行方不明の生徒を見つけるのよ」
自信ありげに人差し指を立てる彼女の前に、清人は冷めた様子で、なんら反応を示さなかった。そして、こう指摘する。
「……先輩、それは僕らの仕事じゃありませんよ」
「なんで?」
「話によれば保護者の方が警察に届けを出しているそうですし、一般人の、ましてやただの高校生の僕らが首を突っ込むことではありません。興味があるのは分かりますが、僕らのような素人ではきっと中途半端なことしか出来ませんって」
「あら、何よその言い草は。いつもいつも取材取材ってうるさいくせに、いざ目の前に絶好の取材対象が現れたとたん、及び腰になるのね」
「……そうではありません。取材することは大切ですが、今回のそれは僕らが出る幕ではないと言っているんです。いいですか、僕らは列記とした高校生です。テレビドラマや小説を読んで、ちょっとその気になり、探偵気取りなことをすることは間違いだと思われます。場合によっては他人に迷惑をかけかねない」
清人は彼女の皮肉に対し、熱くなることもなく、正論を述べる。
彼は彼女の後輩でありながら、どこか、彼女の保護者として、監督をしなければならないと思っている節があった。
そのため、今回も勇んで走り出そうとしている彼女を止めに入ろうとしたわけである。
しかし、それで「はい、そうですか」と成実が納得すれば苦労はしない。
案の定、彼女は諦める素振りは見せず、清人の前で人差し指を振ってみせる。
「甘い、甘いわね。私はそんなことに触発され、見おう見まねの低レベルな探偵もどきになるつもりはないわ。そんな低俗なものと一緒にしないで」
すると、彼女はここで一呼吸入れ、
「いい? 妻沢君、たとえ高校の新聞部に所属していようと、私たちはジャーナリストなの、立派な記者なの」
「は、はあ」
「そうよ、クールでスマートなジャーナリストが取材を始める基礎基本の理由。それはとても簡単に説明できるわ」
「な、なんですか?」
すると、彼女はそれっぽくポーズをとって、手の指で拳銃の形を作ると、それを真っ直ぐ清人の眼前に向けた。
すばやい動作で、彼女の流れるような長髪が揺れ、振りこぼれた毛先の向こうに見える鋭い眼光は、力強い信念の輝きが満ちているようだった。
「真実を知りたい、それだけよ!」
ドラマか映画の決め台詞であるかのように、びしり、と彼女は言い放った。
「し、真実、ですか」
その美しくもあり、同時にずしりと重量感のある言葉は、少々、高校生が口にするには大仰に思えたが、清人は頬を叩かれたような思いだった。
少々、彼女が芝居がかったことをしたせいかもしれない。
ジャーナリスト。
それがなんだかはよく知らないが、
少しでもかっこいい、と思った彼がいた。
いや、変な勢いに騙されてはいけない。
清人は浮かんだ感情を消そうとする。
「私はこの事件の真実が知りたい。そう、知りたいの。よって、調査を始めるにあたり、確固とした初歩的な理由は満たしたとされるわね」
完全に自らの言葉に恍惚としながら、成実はそうまくし立てる。
「……」
「なに変な顔をしてるのよ。もし何か手柄を立てられたら、部の人気も上がるかもよ。これでどう? 悪くないでしょ」
「ま、まあ」
「何?」
「うーん、少しくらいなら」
清人としては必死に言葉を濁したつもりだったが、彼女は嬉しそうに大きく頷いた。
「オーケーってことね」
「……ええっと、分かりました」
言いながら、どこか、取り返しのつかない返事をしてしまったかもしれないと清人は冷や汗を掻く。