エピローグ
小さな部室の北側の壁には窓がある。
普段、降り注ぐ暖かな陽光に縁のないその窓はその光を取り込むことなく、専ら換気用として使用されていた。
広国高校一年の清人は今日も勉強がてらに部室を訪れ、その窓のクレッセント錠に手をかけた。
鍵をはずし、スライドさせ、風の通り道を作る。
そうでもしないと、この部屋の積もり積もったほこりっぽい古めかしい匂いが籠もったままとなるのである。
以前、芳香剤を買ってきていたのだが、その効果も少し弱まってきたようだ。また新しいものを買ってこなければならないだろうか。
雨粒が滴る六月。
清人がこの高校に入学してから早くも二ヶ月が経った。
全く、時の流れというものは恐ろしい。
学校中があの奇妙な暗い噂に満ちたのも、いまや、嘘のことのように、話をしている生徒を見かけることすらない。
成実の言う、世間の興味が他の新しい話題に移った証拠だった。
今、学校中で持ちきりな話題と言えば、突如休日の校庭に出現した大手会社のヘリコプターである。
皆、なぜその会社の社長がこの学校に登場したのか、当惑している状態で、出所不明の微妙な情報が錯綜していた。
この学校に近いうち、莫大な寄付が施されるんだとか、この学校に通っている息子に渡し忘れていたお小遣いを手渡しに来たとか、おおよそそんな具合だ。
張本人である仙崎が口をつむっているので、おそらくこの取るに足らない噂も、そのうちに消えてなくなるに違いない。
そう言えば、彼が起こした例の事件は数日前、秘密の会合があり、関係している者たちが密かに集まって、全員秘密厳守ということになっていた(このとき集まった風馬は、なぜ自分にもっと早く真相を教えてくれなかったのかと、嘆いていた)。成実の言ったとおり、これが一番誰にとってもいいだろうということになったのである。
おそらくこれで、全て終わりなのだろう、と清人は思う。
誰かが漏らしたところで何か得をするわけでもないし、おそらくこのまま忘れ去られていくに違いない。
この事件で、なにやら面白半分に騒いでいたマスコミも静まり、警察もあれ以来事件が起こらず、ほとぼりが冷めたのを安心したようで、数日前に一度だけ注意喚起のチラシを配っただけで、それからは何もない。
皆、平穏な生活に戻っていた。
だが、しかし。
「うがーー、ひーまーだー」
後ろから聞こえてくるのは、この鬱屈とした空模様の上を行く退屈そうな声だ。
この新聞部の部長、稲葉成実の嘆きである。
「全く、いつも言ってることですが、暇ならどこかに取材に行ってきて下さいよ」
毎度毎度のこの常套句にも最近、意味がないことに気がつき始めた。
なぜなら決まってこの後、
「しゅざいー? 何それ?」
こうなると清人も学習したわけである。
「はあ、もういいですよ。それなら先輩の好きなだけ、そこでぐだぐだしてるといいです。そのままカタツムリにでもなってください。きっと殻の中の生活はお気楽でしょうね」
「ぐうう、戦法を変えてきたわね」
「誰と誰が戦ってるんですか?」
「決まってるじゃない。私と、清人君よ」
やれやれ、この先輩ときたら相変わらずだ。
その時、部室のドアをノックする音が響いた。
久しぶりの来客である。
「あれ? どちらさん?」
麻子でないことは確かだった。
彼女はノックというものを知らない。
「新聞部の部室ってここか?」
視線を向けた先にいたのは、あの仙崎透だった。どこか照れくさそうに頭を掻きながら、部屋の中を見渡している。
「あら、どうしたの? 仙崎君」
今までぐだぐだしていたくせに彼女は彼の顔を見た途端、元気よく立ち上がった。
「いや、いまさらなんだが、あんたらにお礼を言いに来たんだ。いろいろと世話になったし、怖がらせたりもしたしな」
彼は視線を成実に向けることが恥ずかしいのか、きょろきょろと関係のない壁辺りを見つめている。
「もういいわよ。過ぎたことなんだし。皆であれはもうなかったことにしましょうって話をしたじゃない。今さらその話をしにこられても気まずいだけよ」
「ああ、すまん。確かにそうだよな。でもさ、やっぱ、改めてお礼言いたくて」
清人はそんな律儀な彼の様子をみて、以前、彼に対して強い警戒心を持って接したことを馬鹿らしく思った。
彼は彼で、とても責任感のある、真面目な人間だということが分かったのである。
「それで、お父さんとはその後、どうなったわけ?」
成実が腕組みをしながら、訊く。
「親父、か。まあ、いきなり昔のように、ってわけにはいかないが、今までのこと、自分が悪かったって認めて、改善してくれてるよ。自分の仕事を他の重役に割り振って、家に帰る時間を作ってくれるみたいだし。母さんとも連絡したみたいだ」
そう語る彼の表情には笑みが見える。父親と話せたことが、とてもいい影響を与えているようだ。
成実も純粋にうれしい。
手を叩いて喜びを体現した。
「へえ、いい方向に前進してるってわけね。よかったじゃない」
「まあな。少なくともマイナスじゃないから、ひとまずオーケーだろ。これからどうなるかはまだ見えねえけど、がんばってみるさ」
「そうね。そのお父さんにはよろしく言っておいて」
「ハハ、分かった。伝えとくよ」
そう言って笑った彼はその場から立ち去るかに見えたが、なぜか、部室の入り口で立ち尽くしたまま、何か言いたそうにこちらを見ている。
「……? どうしたの?」
不審に思った成実が聞いた。
「いや、そのさ。世話になっただろ」
「……」
「だから、俺に出来ることがあれば、言ってくれ。あんたらからの頼みなら、出来るだけ協力したいと思うからさ、それを言いたかったんだ」
「頼みごと?」
「ああ、常識の範囲内なら、なんでもいいぜ」
「頼みごとねえ」
成実は顎に手を当てて、考え込む。すると、途端に瞳を輝かせた嬉しそうな表情になり、
「あ、あのさ……」
「豪邸をプレゼントしてくれ、とかいうのは無しな。いくら金持ちの息子だからってそういうのは無理だ」
「あ、あう……」
どうやら本気でその手の事を頼もうとしていたらしい。
いったい何を考えているんだ。
清人は呆れて物も言えない。
しかし、そこで成実は再び何かを考え付き、指を鳴らした。
「そうだ。これならいいわ」
彼女は嬉しそうに鼻歌を歌う。
「なんだよ?」
「多分、妻沢君も喜んでくれると思うし」
「僕が喜ぶ?」
いまいち信じる気になれないが、とりあえず聞いてみる。
「仙崎君、新聞部の部員になりなさい」
「はあ?」
「へえ?」
これには清人と透は二人揃って、驚嘆する。
「あれ、だめ?」
彼女はその二人のその反応にぽかんと口を開けた。
「いや、だめというか」
「妻沢君だって、部員を増やさないとって言ってたじゃない」
「そ、それはそうですけど。いいんですか?」
清人は恐る恐る透に訊いた。
「いや、こっちこそいいのか? 俺みたいなのが部員になって」
「馬鹿ね、戦力になればそれでいいのよ」
すると、成実は腰に手を当て、こう言い張る。
「細かいことは気にしないわ。過去に何か悪いことをしてても大丈夫」
「……ハハ、それはどうも」
透は引きつり笑いを浮かべる。
「え、それ、じゃあ」
「ああ、俺も新聞部に入れてもらうことにするよ。なんだか面白そうだしな」
「そう、ならこれで決まりね」
すると成実はその場でステップを踏むと、ジャンプしながらくるりと身体を回転させ、綺麗に着地してみせた。黒く艶のある髪が綺麗に扇を描いて、さらりと揺れる。
そして、透に向かって高らかにこう言った。
「広国高校、新聞部へようこそ! 歓迎するわ」
その瞬間、狭い部室に梅雨を通り越した、初夏の涼やかな風が通り抜けた気がした。
作者のヒロユキです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
一ヶ月と少し、連載してきたこの小説もこのエピローグで完結となります。途中、悪戦苦闘することもありましたが、当初の予定通りの期間で終われました。まだまだ小説書きとして未熟者ではございますが、こんな作品に最後までお付き合いいただきました読者の方々に感謝申し上げます。
作品への感想、不明な点、改善すべき点などなどありましたら、お待ちしております。