第十一章 来るべきその時 <2>
成実たちが走って校庭に出たときには、学校に飛来したそのヘリコプターは校庭のど真ん中に着陸し、大きく砂埃を上げながら、プロペラがゆっくり止まる瞬間だった。
クラブの練習に来ていた生徒達が何事かとその周囲を囲み、辺り一帯騒然としている。職員室から駆け出てきた教師達が、そんな野次馬化した生徒達を安全な場所へと避難させようと、必死に指示を始めている。
透は、そんな喧騒の中を迷わず、白く光る機体に近寄った。
成実たちはそんな彼を止めなかった。いや、止める必要もないと思っていた。
これが彼が待ち望んでいた『来るべき時』だったのだ。
透はその両足でしっかりと地面を踏みしめ、そのヘリコプターまで歩く。砂埃が舞い、彼が歩いた足跡を攫っていく。
すると、側面のドアがスライドし、そこから一人の男性が颯爽と降り立った。
「あ、あの人です。会社の社長の……」
清人がそう説明するが、成実はそんなこと、聞いていなかった。
そんなことよりも、これから、透と、その父親に何が起こるのか、その目に焼き付けておきたかったのである。
『真実を見届けろ』
記憶の言葉が蘇る。
自分にはもはや、透のように向き合える父親は存在していなかったが、成実はその時、父親が傍に立っているような、そんな不思議な感覚だった。
まるで、肩に手を置かれているような、そんな感じ。
話しかけられたようでもある。
『これから、どうなると思う? お父さん』
『さあな。でも、よく見ておけよ』
黒いすらりとしたスーツに身を包み、まるで岩石のような貫禄を漂わせた透の父親が立ち止まっている透に近寄る。
二人の間で静かに二、三言の言葉が交わされたようだ。びりびりとした緊張の余波がこちらまで伝わってきそうである。
父親が一歩歩み寄り、再び、少しの会話。
その瞬間だった。
透がすばやく反応し、ぱっと父親の懐に飛び込むと、
「あ、殴った!」
父親の左の頬を殴っていた。
かなり力が籠もっていたようで、見ていたこっちも痛そうに見える。そのまま父親はふらつき、地面に倒れこむかに見えたが、持ち直した。
頬の辺りを手のひらで拭って、彼と対峙した。そして、すっと腕を伸ばすと、透の肩を掴む。
「何、してんだよ! 俺に触るな!」
透は本気の大声で、嫌悪感をあらわにした。数年ぶりにまともに顔を合わせた父親にこうして肩に手を置かれている。
嫌いな父親に。
拒絶して当たり前だった。
しかしなぜか、突然のことに体が硬直している。抵抗できなかった。
父親は落ち着いたもので、
「嫌なら、抵抗してもいいんだぞ。今みたいに思い切り殴ればいい」
そう言った。
動けない透は唯一動く口で躊躇なく罵った。
「この、馬鹿親父が! お前のせいで……全部お前のせいだ!」
「もう何年も、こうしてお前の顔をまともに見ていなかったな。とても、大きくなった」
「うるさい!……それはお前が帰ってこなかったからだろ!」
「今さら、お前にどうやって謝罪をすればいいやら、本当に俺は情けのない父親だ」
「そうだよ、遅すぎんだよ! 今まで、どこほっつき歩いてんだ。もう母さんもいねえんだぞ! 取り返しもつかねえよ! あんたの責任、自覚あんのかよ!」
すると、父親は不治の病を宣告されたかのように目を開けたまま身体を硬直させた。
取り返しのつかない、ことをした。
その事実を改めて息子から突きつけられて、言葉を失ったのだ。
きっとそうなのだろう。
「それは、今自覚してる。お前には、背負う必要のないものをいろいろと背負ってもらっていたんだな」
そして、いつもの自信満々で会社を取り仕切っている父親はどこへやら、自らの過ちを苦々しげにかみ締めている一人の男がそこにいた。
一方は、透は自分が今まさに、涙を流そうとしているのが分かった。今まで押さえ込んでいたものが全て声や体の動きとしてあふれ出ていて、どうしようもないくらいに何も出来ていなかった。
暴発したような感情。
俺、泣くのかよ。高校生にもなって。
父を殴る気には、もう、なれなかった。
「最初は、俺も俺なりに家族のためを思って、全力で仕事に打ち込んでいたつもりだった。だが、いつから何を間違えたんだろうな。もう会社のことしか頭になかった。会社こそが自分になっていた。自分に家族がいることをすっかり失念していたんだな。今回のことで充分思い知らされたよ」
「それで、済まされるかよ……。そんなことで、俺の怒りが……」
「そうだな。その通りだ。俺にはお前の父親だと名乗る資格すらない」
「あんたなんか、嫌いだ。どっかに消えろよ」
「……」
「許してくれ、なんていうつもりじゃないだろうな」
透の震えた声が彼を突き放す。
「もちろん、今さらそんな腑抜けたことを言うつもりはない。ただ、こんな駄目な親父にもチャンスをくれないか?」
「チャンス?」
「そうだ。俺と透、お互い一人の人間同士として、もう一度関係をやり直すチャンスだ」
「……」
思わず、透は言葉を失った。
「おこがましいとは思ってる。家族との関係を散々、ばらばらにしておいて、そんなことを言うだなんて」
透の体が知らず、震えていた。
だが、それは怒りからではないことに、彼は気がついた。
あれほど、自分に素っ気無かった父がこうして自分と対等に向き合っている。向き合ってくれていることに新鮮な感動を覚えていたのだ。
「……親父」
「俺が底抜けの馬鹿だった。頼む、俺にチャンスをくれ。透」
実の父親にこの状況でそんなことを言われて、どうするのか迷わない子供はいない。
でも、本当は、透の中での答えは決まっていた。
ふっと息を吐き、くるりと背を向ける。
「……一週間とか、一年とかで、埋められるものだとか思うなよ」
「透?」
「あんたが俺や母さんに与えた傷だよ。これはな、ちょっとやそっとじゃ埋まらねえからな」
そう言いながら、彼の中では遠い昔に忘れ去られ、自らの内、心の深層に埋没していた大切な宝物を掘り起こした気持ちだった。
そして、自問する。
取り戻せたのか?
俺は、何かを。
「透、それは……」
父の声が驚きに満ちている。
「久しぶりにあって、いろいろ言って、殴って、それなりにすっきりした。まだまだ許してねえけど、これからどうなるかは……」
「どうなるかは?」
「まあ、親父の努力次第だな」
「そうか、くれるのか。俺にチャンスを」
「……」
「ありがとう」
「……」
何も言えなくなった透は涙がこぼれないように空を向いた。そうしていると、急に母のことを思い出した。声を、聞きたくなった。
今日が終わったら、会いに行くか。
そう思って五月の清涼な空気を胸いっぱい、吸い込んだ。
そんな親子の様子を遠く、校舎の前から見つめている成実たちの姿があった。
どうやら、透たちは一件落着といったようだったので、花壇をかこっているレンガの端に腰を下ろして、溜息をついている。
千穂は遠くに由貴の姿を見つけたようで、そちらに行ってしまったようだ。
成実たちの周囲では未だ何事かと事態を飲み込めていない生徒たちと、事態を収拾しようと躍起になっている教師達がわたわたとしている。
清人は頭を掻いて、横で座っている成実に話しかけた。
「で、先輩。どうするんです? 今回の事件の真相。記事にするですか?」
成実は再び父親と何かを話し始めた透を眺めながら言う。
「そうね。これだけいろいろと苦労して調査したから、記事にしたいのは山々なんだけどね」
「そうですよね、いつもさぼっている分、一生懸命調べましたもんね」
清人は眼鏡を押し上げながら、意味ありげに言葉を強調させる。
「本当に、嫌味な後輩ね」
「いえ、僕は事実を述べたまでですって稲葉先輩。それで、どうするんです?」
「そうね。ジャーナリストならば、本来、一般市民に真実を伝えるという仕事を怠ってはならないと思うわけ」
「ふむふむ」
聞きながらわざとっぽく彼は頷く。
「でも、今回は親子の感動の再会に水を差すような、不粋な真似はしたくないのよ。事実を知っている私達が黙っていれば、生徒が一日だけ行方不明になっただけの実害のない事件なんて生徒も、世間も、すぐに忘れちゃうだろうし」
世の中とはいつもそういうものだと、成実は思う。熱し易く冷め易い、鉄のようだ。
時代はいつも新しいものを求め、古いものは忘れられ、廃れていく。
それが自然の摂理でもある。
「はい、僕も同感です」
「これで、一応めでたしめでたしが一番いいんじゃないの?」
「そうですね。やっぱり物語の終わりっていうのは、こういうのが一番良いと思います。全てに片がついたわけではないでしょうけど。とりあえず、キメラは退治されたようです」
「はあ、これで今までどおりの平穏な日々が戻ってくるわけね」
首を回しながらストレッチをするようにのんびり言った彼女の一言に、清人は敏感に反応する。
「といっても、やるべきことはやらないといけませんけど」
「やるべきこと? 何それ?」
そう言った彼女にはもはや、やる気のかけらも感じられない。
「取材ですよ。僕らは新聞部なんですから、新聞書かないと」
「それは、適当でいいでしょ。ほら麻子から根も葉もない噂でも聞いて、それ、丸写しで」
「いい加減にしてくださいよ。やっぱり先輩にはもっと自分に厳しくなってもらわないといけませんね」
清人は眉間に皺を寄せながら、どうしようもないやんちゃな子供の親のような白い目で彼女を見る。
「まあ、今はそんなこと考えなくてもいいでしょ。一仕事終えたんだから」
「……それもそうですね」
清人は肩の荷が下りたような、安堵の吐息を漏らす。そして、急にどこか関係のない遠くに視線を向けたと思うと、
「ああ、そうだ稲葉先輩。言い忘れてました」
そんなことを言った。
「何?」
「……お疲れ様です」
成実も自然と笑顔がこぼれる。
「ふふふ、妻沢君もお疲れ様」