第十一章 来るべきその時 <1>
しっかり三回は深呼吸ができるほどの沈黙を置いて、透は前かがみに椅子に座った。嫌でも場の空気が張り詰め、次なる彼の第一声に注目が集まる。
清人は口の中がからからに渇いているのに気がついた。先ほど、あれほど水分を摂ったはずなのに、いったいいつの間に水分が抜けていったのだろう。
汗ばんだ手のひらを握る。
「全ては、俺の親父から始まってる」
そう語り始めた彼の言葉は、まるでこれから日本の数千年の歴史について話し出すような、そんな長い年月の蓄積を経た重みを感じさせた。
「あの男はな、俺と母さんを捨てたも同然だぜ」
「……」
「このことは前にも話したよな。親父はソフトウェア会社の社長だって。なんでも、超ご多忙な身らしくてよ、ここ数年、まともに顔を合わせたこともないくらいなんだ」
ええ、知っているわ、と成実が頷いた。
「利益優先だか、なんだか知らねえけどよ。そうでないと弱肉強食のこの世界じゃ、やっていけないとか抜かしやがってさ。家庭を顧みずに会社に命をかけてる人間なんだ。俺が分析するにきっと自分が一番でないと安心できないタイプだな。そのためには何を犠牲にしたってやり遂げる」
彼はやはりそう語りながらも怒りを抑えられないのか、歯軋りをするように口をかみ締めているのが見えた。
そんな彼の様子から、成実は彼が長い間抱えていた破裂しそうな負の感情に身悶えていたのを知った。
父がいない、そんな生活を過ごしてきた彼。
「俺は、おれは、いつも母さんと二人の生活だった。でも、最初はそれでもよかった。母さんは優しかったし、父親不在の家でも、充分家族のぬくもりを感じていられた」
透は自分の手の平を机の上に開いてみせると、何かを見えないものを掴み取るようにぐっと握り締めてみせる。
「でも、耐えられないことがあった。それが親父が居ないことで母さんが苦しんでいる姿だ。大事な結婚記念日にも、俺の誕生日にも、新年を迎えるときにだって、親父はいつだって居なかった。いたことなど、皆無だった。そんな状態の中で母さんは無理してた。俺の手前、気丈に振舞って明るい笑顔を見せていた。でも、俺は知ってた。親父が帰ってこないことに失望し、埋められない隔たりを感じ始めていたことに」
「仙崎、君……」
「母さんが望んでいたこんな家庭じゃなかった。もっと家族全員が笑って暮らせる、穏やかな家庭にしたかったんだ」
そこで、透はふっと息を漏らし、体から力を抜くように、肩を動かす。
「これは、母さんから聞いたことだけど、母さんの実家はもともと貧しかったんだってさ。ろくに働かない父親がギャンブルにはまっててさ、生活費は削られていくし、おまけに家にいれば暴力を奮う。そんな駄目な父親だったらしい。家族のぬくもりからは程遠い生活だったんだってさ。だからこそ、自分が結婚したら、そんな家庭は作りたくなかった。そう思っていた、誓っていたのに、結果はこの様さ」
千穂はその話を聞きながら胸が潰されそうな思いだった。両親が普通に家にいる、それが常識だと思ってこれまで生きてきた。
でもそれは違った。
自分が思っている当たり前も手に入れることができずに苦しんでいる人々がいることを冷厳な事実として、今、受け止めていた。
その間も透は言葉を続ける。
「それが原因で、親父と母さんは俺が小学校三年の時に離婚した。俺は親父に引き取られたが、まあ、引き取られただけだよな。実際、親父は俺にほとんど構うことなく、世話を自宅の手伝い人に一任してるんだから」
「……」
「そのころからだな、俺が親父に対して、本気で怒りを感じ始めたのは。大好きな母さんを悲しませておいて、自分は未だに会社経営の中枢に居座ってる。それで、それで、ここ最近になって、また親父の会社は新たな商売を始めた」
その発言に、清人ははっと顔を上げる。
「あの、ゲーム業界への参入ですか?」
「ああ、それもあるが、もう一つある。知ってるか? スペーストレジャーランドだ」
「確か、隣県に出来たっていう、あの大型レジャー施設ですか?」
これには成実が素っ頓狂な声を出す。
「あ、あなたのお父さん、経営に携わってたの?」
「経営というか。その施設を管理するシステム開発に携わってるらしい。よく知らねえが、なんでも顧客情報や、施設内の人の流れを分析したり、ともかくアトラクションの運営なんかを総括的に調べることが出来る最先端のシステム開発なんだそうだ」
「そうだったの」
「それで、俺はもう我慢できなかった。ふざけてると思った。自分の家庭がこんな状態で、まだ商売に傾いていくのか、とね。それで、そんな馬鹿に一言言ってやりたいと思った。でも、それはむずかしい。俺が話しがあると言ってすぐに会えるようなら、こんなことにはなってないからな」
「まさか、それで事件を起こしたの?」
成実の鋭い指摘が彼を貫く。しかし、それには全く動じず、彼は答えた。
「ああ、そのまさかだよ。自分の息子がこんな事件を起こしていると知ったら、どんなふざけた親だって無視は出来ねえだろ。向こうから俺の元にやってくると考えたわけだ。それで、キメラはメッセージだ」
「メッセージ?」
「あんたらがさっき言ってただろう? キメラを倒すのは英雄さんなんだろ。会社経営をどん底から立て直した英雄さんの親父なら、気づくと思ったんだよ。父はギリシャ神話には詳しかったからな」
成実は彼の自宅で見たアルバムの最後のページを思い出す。
そこに描かれていたのは確かに英雄ベレロフォンの絵だった。もしかすると、彼の父親は自分のことをその英雄と重ね合わせていたのかもしれない。
「それでもって、のこのこやってきやがったら、一言言ってぶん殴ってやる計画なんだ。お前の過ちで、息子は狂言とはいえ、こんな事件を起こしたんだぞって、そう思い知らせてやりたかった」
「それで、こんなことを」
「奴と、決別したかった。決着をつけたかったんだ。一対一で話をして、もうお前は親父じゃねえんだぞ、って言い放ってやりたい。でも、その前に事件を解かれるのは嫌だったんだ。親父自身が気がついて、過ちに気がつき、自分から学校に出向いて来て欲しかった。だから、稲葉。新聞部に邪魔されたくなかった」
「なるほどね。それで、私達に黙っていて欲しいって言ったのか」
「……頼む」
彼は泣き出しそうな、弱弱しい声で懇願した。成実は立ち上がり、そんな彼を見下ろすと、優しくこう言った。
「あなたの気持ち、私も分かるわ」
「え?」
「私も、父親が家に居ないようなものだったもの」
そうだ。
清人は思った。
確かに、透と成実には確固たる共通点がある。二人とも、父親の存在が希薄な家庭に生まれ育った。
確かに置かれた状況は違うだろうが、二人は同じものを根底に持っている。
あるべきものが存在しない、喪失感を。
そして、これまで生きてきた。
一方は、そんな父親に怒りを持ち、一方は、父親の背中に夢を追って生きている。
同じものを持っていながら、そんな対照的な生き方をしているのだ。
「そう、なのか」
「ええ。あなたが怒るのも当然だと思う」
しかし、そこで彼女は理解を示した柔和な表情から一変し、毅然とした態度でこう詰め寄った。
「でも、こんなことは間違っているわ。いくら虚構の失踪事件だと言っても、関係のない周りの人を巻き込んで、無意味に皆を不安な気持ちにさせた。それは罪よ。あなたにはその重みが分かってるの?」
そういわれて、透は成実の目を見つめ、そして、見つめ続けることが出来ず、俯いた。
「分かってる、もちろん、申し訳ないと思ってるさ。決して許されることじゃない。この責任は全て終わってとるつもりだよ。元からそのつもりさ」
「そう、分かってるのね」
「でも、親父が、このキメラの巣に来るまでは、俺は……」
彼がそういい掛けて、何かの騒音がその言葉に覆いかぶさってきた。それは窓の外から聞こえていて、四人は同時にその方向に顔を向ける。
その音は次第に近づいてきており、空から校庭に降りてくる影が見えた。
どうやら、ヘリコプターのようである。その機体の側面に見覚えのある、SZという会社のロゴマークが見える。
「親父だ」
透が言った。