第十章 牙を持つ者 <2>
成実の言うとおり、扉に倒していたロッカーを持ち上げ、ゆっくりと扉を開けると、ものの見事体育館には誰も居なかった。
人の気配は無く、がらんとしている。
昨日の騒動の跡を表すものと言えば、足元に転がっているライトぐらいで、その他には何もない。
例えば、壁に得体の知れない獣の爪あとが残っていることもなければ、獰猛な歯によって噛み砕かれた哀れな獲物の亡骸が横たわっていることもない。
いつもどおりの体育館の風景がそこにはあった。
「考えてみれば、変だったわよね」
部室のドアを振り返りながら成実は言う。
「何がです?」
「この部屋の鍵が開いていたこと。普通、練習が終われば、鍵は閉まってるはずでしょ」
「あ、ああ、言われてみれば」
「おそらく、最初から私達が逃げ込むように、開けてあったのかもしれないわね。ここだけでなく、全ての部屋が」
「なるほど……ああ! そういえば」
すると、清人はあることを思い出し、後ろを振り返る。そして、昨夜体当たりされ、転がった場所まで歩いていった。二、三度片足で床を踏み、その辺りを示す。
「ここ、確かマットがおいてありました。僕らがその上に倒れこんだんです。どうして、こんな場所にマットが、って変に思った記憶があります」
「そうよねえ、授業以外でほとんど使うこともないし。まさか、私達が倒れて怪我をしないように考えてたのかしら」
「そうだとしたら、気味が悪いくらい配慮が行き届いてますね」
「まあ、最初から私達を傷つけるつもりはなかった、ってわけね。とにかくここを出るわよ。もうお腹が空いて倒れそうだもん」
成実は心底不快そうに、腹部をさする。それはもう空腹を通り越して、気持ちが悪いという領域まで達していた。
腹の虫も限界なのか、もはや鳴く元気すらないようだ。
さらに慣れないところで眠ったせいか成実の体はだるく、歩くのにもかなりの体力を消耗している気がした。
そんな彼女とは対照的に清人は正面玄関まで歩き、内側の鍵を開け、外の澄んだ空気を吸う。雲は無く、いい天気である。
今日は六月を目前に控えた土曜日だ。
「稲葉先輩。行きますよ」
振り返り、彼女に声をかけると、なぜか彼女は玄関の辺りで立ち止まり、体育館の内部に目を向けている。
「先輩、どうしたんですか?」
「……ううん、なんだか変な感じがしたの。前にもこれと同じ感覚を味わったような」
「変な感じ?」
すると、彼女は急に何か気づいたのか、はっと呼吸を止め、すぐに考えごとをするように目を細めた。
「行きましょう」
すると、何を決断したのか、彼女は振り返るのを止めると、迷いの無く先に歩き出す。
「え? は、はい」
訳がわからないまま、腕をつかまれ、清人は言われるがままに体育館から離れた。
それから一度部室に帰り、荷物を持つと、まだ開けられたばかりの校門から、変だと思われないよう、目立たないように外へ出た。
どこで朝食を摂るか話し合った結果、一番学校から近距離である24時間経営の牛丼屋に向かうことにした。
通勤途中のサラリーマンばかりがいる店内で、高校生の制服を着た二人はかなり浮いていたが、とにかく店内に入り、注文を済ませ、席についた。
その間に清人は一度トイレに行っていたのだが、席に戻ってみると、成実が携帯電話を覗き込み、なにやら熱心にメールを打っている。
「誰にメールしてるんですか?」
彼女の様子が気になって訊いた。
すると、意外な名前が彼女の口から出る。
「ああ、檜山さんよ」
「え、どうしてです?」
「彼女にも、私が考えた事件の真相を話しておきたくってね。ほら、彼女かなりこの事件のこと気にしてるみたいだったじゃない」
「そう言われてみればそうでしたかね?」
確かに、三件目の事件が起きたとき、話を聞いている彼女の目は真剣だったようだった。やはり、親友が巻き込まれた事件ということで、三人目も他人事ではないと思っていたのだろう。
「連絡したら、来るってさ。話を聞かせて欲しいって」
「はあ、分かりました」
「さあ、それじゃ腹ごしらえね。妻沢君、そこの紅ショウガ取ってくれる?」
彼女は清人の側にあった小さくパック詰めされた紅ショウガがの入っている容器を指差した。牛丼に入れるつもりらしい。
「はい、どうぞ」
「なんで一つなのよ」
てっきり一つで充分だと思っていた清人は思わぬ抗議の言葉にきょとんとする。
「もう一つ必要ですか?」
「少なくとも十個は寄越しなさい」
「十個も、ですか?」
いったいどうするつもりなのやら、と疑問に思いながらも、手渡すと、彼女はためらいなく全てを万遍なく牛丼の上に振りかけていった。
呆れている清人の前で成実は満足そうに薄紅色に染まったどんぶりを眺めて陶然としている。
「おいしそうね」
「僕から見れば、もはやそれは牛丼ではありません」
「あらそう? 私にはこれくらいが普通だけど」
「なんだか、猛烈に不健康に見えます。そんなにかけて食べれるんですか? まあ人それぞれ好みはあると思いますが、僕は見ているだけで食欲が減退します」
「失礼ね、私の好みに文句つけるわけ? これがおいしいのよ」
そう言って、彼女は割り箸を割り、至福の表情で口に運び始めた。しばらくの間、清人はそんな彼女に目が釘付けだったが、本来の目的を思い出し、自らの胃を満たすことだけに集中することにした。
身体にエネルギーを供給しなければ、思考すらストップしてしまいかねない。
牛丼を食べ終わると、二人は今度はお茶を飲み干した。清人も成実も昨晩から水分を摂っていなかったので、喉を鳴らして、三杯も飲んだ。
そして、紅ショウガ丼(清人が勝手に命名)を平らげた成実は背もたれに体重をかけ、大きく背伸びをしている。
「それで、これからどうします?」
そろそろ行動を起こさなくてはならない。
「決まってるわ、謎が全て解決したわけではないの。調査を続行よ」
「続行ですか……分かりました、付き合いますよ。それで、今度は何をするつもりです?」
正直、清人は一度自宅に帰りたかったのだが、せっかくここまで謎が解けかけているのに、変な仕切りなおしになるのも嫌だった。逡巡して、成実に従う。
「図書館に行くわ。調べたいことがあるの」
「調べたいことですか?」
いったい、今になって何を知りたいというのだろう。清人は首を捻った。