第十章 牙を持つ者 <1>
それは目覚める瞬間だった。
成実の脳内で、唐突にパズルがかみ合うような感覚があった。
まるで指先が冷たい川の水面に触れたように、びりりとした刹那の刺激が脳内を伝播し、駆け巡る。
それは不可解の蒼然とした森の先を貫き、光の中で彩り鮮やかな空で弾け、イコールを結ぶ。
事件解明の瞬間だった。
「分かった!」
そう叫んで、成実は飛び起きた。
「分かったわ」
朝の陽光が差し込む雑然とした部屋のベンチから肌にかかったバスタオルを跳ね飛ばすと、靴を履く前に隣で眠っている清人の寝顔を覗きこんだ。
やはり、硬い床の上では安眠できなかったのか、何度も寝返りを打ったようで、髪の毛には埃の塊がいくつも引っ付いている。
しかし、成実はそんな彼を見るやいなや情け容赦なく肩を揺さぶった。
「起きて、ほら、起きなさい!」
「……う、ん?」
「大変なことが分かったわ! 眠ってる場合じゃない!」
「な、何事ですか?」
彼はそう言いながら、成実の顔に焦点が合っていないのか、中途半端に目を開いて成実の後ろの虚空を眺めている。
「いいから、起きて話を聞く」
さらに強く揺すぶられ、半ば降参するように清人は上半身を起こした。脇に置いてあった眼鏡をかけ、眠たそうに大あくびをした。
「のんきに欠伸なんて出来るのも今のうちによ。いい? 聞いて驚きなさい」
「だから、何のことですか?」
「事件の被害者の記憶喪失の謎が解けたのよ」
再び欠伸をしようと大きく開けた清人の口が、そのまま状態で硬直した。
「は、はあ?」
「だから、どうして皆が記憶を無くしていたのか分かったの!」
「ほ、本当ですか?」
これには清人も欠伸が吹き飛んでしまうほど驚いた。
「ええ、おそらくこの考えで間違いないはずよ」
「と、いうと?」
「私達はね、根本的な部分で道を間違えていたのよ」
成実は顔を近づけると、人差し指を立て、自信満々にそう言った。
「根本的ですか……ということは、どういう意味です?」
「いい? 誰かの記憶を消す方法なんて、清人君の言うとおり、やっぱり存在しなかったのよ」
「そ、そうですか。ようやく理解してもらえてうれしいです」
「ということは、必然的に答えは見えてるわね」
「……?」
「本当は、誰一人として、記憶を失っていなかった《・・・・・・・》のよ」
「え、え? それ、失って、いなかったって」
あまりに突拍子も無い話に清人は上手く反応が出来なかった。
成実はさらに自分の推理を続ける。
「そう、全員、嘘をついていたのよ。それならば、簡単に全ての説明がつく」
清人は目を覚まさせるように自分の両手で頬を叩いた。そして、ぶるぶると頭を振る。
「ちょ、ちょっと待ってください。もし、もし先輩の言っていることが本当なら、三件の被害者は、沢口さん、藤咲さん、篠田さんの三人は全員、共謀していたってことですか?」
「そうよ。全ては、全員で協力して、いくつもの狂言失踪事件を作り上げるために行っていたのよ」
「本当に、そんなことが?」
清人は半信半疑だった。
それは彼女の考えが、被害者を疑うという、今まで向かってきた方向とは全く別の逆だったからである。あまりにも極端に聞こえて、すぐには思考の転換が出来なかった。
「だってそれ以外、この事件の全て説明できるものなんて無いわよ。とても複雑怪奇に思えて、ネタが判明すれば、これほど簡単なトリックはないわ。記憶を失った振りをして、一日姿を消し、私達を翻弄すればいいもの」
「……」
「私達がその話を信じ、疑われなければ、完璧なトリックよ。自分たちの都合の悪いことは全て忘れた、分からない、そう言えばいいんだし。ましてや、私達は彼女たちを謎の事件に巻き込まれた不幸な被害者として接しているわけだから、なおさら先入観に陥りやすい」
「本当にあの三人がですか? いまいち、信じられません」
清人はこの数日間に接してきた彼らのことを思い浮かべる。とても、他人を騙すような狡猾な人間には見えなかった。
しかし、彼女は自身の主張を曲げる気はないようで、自信に満ちた顔で胸を張る。
「そう? 私にはこれ以外の答えなんてもう思いつかないけれど」
「それじゃ、彼女たちがキメラの噂も流していたってことですか?」
「ま、そのグループが、ね」
グループ、成実は微妙にニュアンスの違う、含みのある言い方をする。そのことが清人には気になったが、質問を続けた。
「昨日の夜、僕達を襲ったのもその人たち?」
「きっとそうよ。これも清人君の言うとおり、人間の仕業だと思うわ。暗闇だったから何者か分からなかったけれど、あの奇妙な鳴き声だって、今時ちょっとパソコンが使えれば編集できてしまうものでしょう?」
「では、最初から僕達を襲うのが狙いだったんでしょうか」
「おそらくね。きっと、麻子に情報を流したのもその人たちよ。私達は麻子からの情報を頼りに今まで事件を追ってきた経緯があるから、それをまんまと利用されたわけね」
してやられたわ、と彼女は悔しそうに唇を噛む。
「きっと、彼女たちは私達を驚かして、キメラの存在を信じ込ませたかったのよ。そして、事件の調査から手を引かせる」
「……なるほど」
「あの人たちがそんなことをするとは思えないけど、もし邪魔になって殺すつもりだったなら、わざわざ体育館に連れてくる必要はないし、キメラの鳴き声なんて準備して聞かせる必要もない」
「確かに、その推理を聞くと全て先輩の言うとおりかもしれません」
清人の不服そうな言葉に成実は眉を動かす。
「うん? なにやら釈然としない言い方ね」
「僕が知りたいのは、なぜ、です。先輩の話が正しいとして、どうして彼女たちはこんなことをしたのか。ただの愉快犯にしては手が込みすぎている気がします」
「あら、奇遇ね。私もその決め手なる動機を探してたの」
「それが分からないと、僕は納得できません」
彼はそう宣言して断固とした意思を見せる。ただでさえ、目的の分からない事件なのだ。成実の言っていることが正しいとしてもその不可解さの解明には至っていない。つまり、まだ事件の核が見えていないに等しいというわけだ。
すると、彼女は座っていたベンチから立ち上がり、悠長にあくびをする。
「まあ、私には少しは心当たりがあるんだけど」
「は? 何ですか?」
「これも、私の推理だけどね。三つの事件の被害者である、沢口君、藤咲さん、篠田さんの三人には、特にそれほど強いつながりがあるわけじゃない。性別も、年齢も、クラスも、所属している部活も違う。これは前に聞いたことで間違いないと思うわ。その上で、彼女たち三人を共犯とするにはどうしても不自然な考えだと思うの」
「先輩が言おうとしていること、なんとなく分かりました」
「あら、察しのいいこと」
「つまり、この事件には三人とつながりがあり、彼らを束ねている黒幕がいるって言いたいんですね」
ヒュー、成実は口笛を吹いて、手を叩く。
「その通り! 妻沢君、冴えてる!」
それがあまりにも子供っぽくて、清人はむっとする。
「なんだか馬鹿にされている気がして否めません」
「まあ、そんなことはどうでもいいわ。ともかくこんな場所はさっさと出ましょう。さすがにもう誰もいないと思うから」
「あ、はい。で、それからは?」
「そうね、まずは腹ごしらえをして、残りの謎解きにかかりましょう。腹が減っては戦は出来ないし、ね」