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第九章 閉ざされて、二人 <3>

 そんな満腹感とは程遠い食事が終わると、二人はそそくさと寝床の確保を始めた。

 どうせ安全な朝を待つには眠ってしまうのが、一番有効な時間の潰し方だと考えたのである。

 しかし、地べたにそのまま眠るというのはあまりに寝心地が悪い。ベッドの感触とは程遠い部室の床は、ひんやりと冷たく、硬い上に、埃っぽい。当然、部室の中央にあるベンチが取り合いになるだろうと成実は察しをつけていた。


「どちらがベンチの上で寝るか、じゃんけんで勝負をつけるわよ」


 成実としてはどうしても負けたくはなかったので、やる気まんまんに腕を振り回しながら、清人に拳を突き出す。

 しかし、清人はというと、予想に反して敵意をむき出しにすることもなく、


「稲葉先輩が寝たらいいんじゃないですか」


 とあっけらかんとした顔で提案した。

 これにはさすがに助走をしていてつんのめった気分になる。


「え、いいの?」

「床で眠るのは嫌なんですよね?」

「そりゃあ、ね。汚いし」


 清人は床にたまったゴミを一瞥してから頷いた。


「だったら、どうぞ。ベンチを使ってください。女性をそんな汚い場所に寝かせるわけにはいきませんから」


 その言葉に成実は目を丸くする。普段、成実に対して敵対するような態度をよくとっている彼が、そんなことを言い出すとは思えなかったのだ。


「や、やけに優しいわね」

「そうですか? 僕は常識的に考えてそう判断したんですが」

「本当に?」


 成実は半信半疑だ。


「本当ですよ。別にこんなことで先輩に貸しを作ろうだなんてこと思ってませんから、ご心配なく」

「むう、解釈の仕方によっては嫌味な言い方ね」

「そう捉えられていたとしたら、遺憾なことです」

「本当にいいのね?」

「何度も確認しなくてもいいですって。僕は床で寝ますから」


 そう言って、清人はロッカーの方へ背を向ける。中に使えそうなタオルでもないか探しているのだろう。硬い地面のクッション性を少しでも高めるために床に敷こうとしているのだ。

 そんな彼の背中を見ながら、成実は目を細め柔和な表情になる。

 稀なことではあるが、成実にはこうして清人が時折見せてくれる優しさがうれしかったのだ。それは、いつも言い合いなどで、お互いギスギスしていることも多いが、ふとしたときに垣間見える、彼という人間の魅力とでも言えばいいだろうか。


 まだ出会ってから一ヶ月ほどの関係ではあるものの、成実は、彼を部員として選んだ自分の目に狂いはなかったと満足していた。


 彼がいてよかったと、思えるのである。


 身を屈めてロッカーの中を探る彼を見ながら、成実はそっと、


「ありがとう」


 と感謝をつぶやいた。



「じゃあ、明りを消しますよ」


 清人がそう訊いて、成実は掛け布団代わりのバスタオルをずり落ちないように身体に引き寄せる。


「うん。オッケー」


 了承すると、すぐさま部屋の心細い蛍光灯の明りが消えた。清人が歩いて床に寝転がる音が聞こえ、それから、すぐに静寂が辺りを占領した。

 成実たちは部のマネージャーが洗濯したのであろう、清潔なタオルを枕にしている。ベンチは鉄製であるが、意外にも、寝心地は悪くない。


 これならすぐに眠れるかと成実は思ったが、やはり、先ほどの闇から襲撃を思い出し、すぐには寝付けなかった。幾度か寝返りを打ちながら体勢を変える。

 隣からは清人が規則的な呼吸音が聞こえていた。


 まさか、もう眠ってしまったのだろうか。

 よほど疲れているのか、それても、単に眠った振りなのか。

 ベンチの上から届く距離なので、試しに足で蹴ってみようかとも思ったが、寝床を譲ってもらっている身分であるので、本当に眠っていたら起こすのは申し訳ない。


 そう言えば、あれ以来、扉の向こうからは何者かが押したり叩いたりする音は一切止んでいる。もしかすると、もう向こう側には誰もいなくて、安全なのかもしれない。

 しかし、いったいあれは何だったのだろう。


 暗闇の中で成実や清人を突き飛ばした生き物である。あまりに突然のことで、正体は全く掴めなかった。

 闇に響いたあの咆哮を思い出す。

 本当にキメラだったのだろうか。

 そう思うと、今も無事でいる自分たちが信じられない。


 清人の言うとおりあれが人間の仕業だったと仮定してみる。

 だが、どちらにしても、たった壁一枚を隔てた先に自分たちを襲った人間がいるかと思うと、冷静な気持ちではいられなかった。

 その人物が、今回の事件全てを起こしたのだろうか。

 そんな人間がいるとすれば、やはり普通の人間ではないと、成実は思う。


 自分たちを、殺すつもりだったのかもしれない。


 怖い。


 そう思うと、


 怖い。


 無意識にベンチの上で足を折り曲げて小さくなる。

 自分はいったい何と向かい合っているのか。


 もしかすると、想像以上に巨大な敵を相手にしているのかもしれない。

 その敵の前では自分はあまりに無力で、片手でいともたやすく捻り潰される。

 そうだとしたら。


 お父さん。


 お父さんは、こんな時、どうする?



――――――――


 母から手渡されて、私は受話器を握る。

 待ちきれない思いで、先ほどから飛び跳ねていたのだ。


「お父さん! お父さん!」


「おう、成実か。聞くまでもなく元気そうだな」


 父の声は久しぶりに聞く娘の声に喜ぶと同時に少々驚いているようだった。


「クマ、クマのぬいぐるみ、家に来たよ」


 私は受話器を持っている手とは反対の手で父から送られてきたぬいぐるみを抱き寄せていた。ふさふさとした毛並みが頬をくすぐっている。


「あのなあ、手紙に書いてあっただろ。それはただのクマのぬいぐるみじゃないって。テディベアって名前があるんだ。テ、ディ、ベ、ア。ほら、言ってみな」


「て、てでぃ、べあ」


 私がつたなくもそう発音すると父は満足そうに快活な声で笑った。


「そうだ。物の本当の名前を知っておくことは重要だぞ。でないと大人になって、下手に知ったかぶりして、恥をかくことになるからな。なにより、物事の本質を理解するには、まず正しい名前を理解しておく必要がある」


「うう、むずかしい話はいや」


「ハハハ、まあいい。テディベアは気に入ってくれたようだしな」


「うん、毎日遊んでるの。あのね、昨日ね、凛ちゃんが来てね。それでね、家に来てね、それでね、遊んでね、それから、えーと、遊んだ」


「我が娘よ。よく分かったぞ。友達と遊んだのか、楽しかったのか?」


「ううん、そんなに」


 私は子供ならではの正直な感想を言う。


「ハッハ、そんなに、だったか。素直でよろしい」


 こうして、いつも私と父は、会えない時間を埋め合わせるための長い時間を話した。

 母はその様子を椅子に座って見守りながら、終始微笑んでいる。

 そんな温かな言葉のやり取りが受話器を通して延々と続く。

 それが、私がいつも体験していた家族が一つになる瞬間だった。


「それでね……それでね、あのね、凛ちゃんだからね……」


 時計の針が十時を回ると、話しながら私は大抵、まぶたが落ちそうになるのを感じ始める。知らず知らずの内に、うつらうつらと舟をこぎ始める。

 いつもそうなると、母が背中を叩いてくれた。


「ほら、もうお父さんにお休みなさいを言いなさい」


 幼い私にはもう、眠る時間なのだ。


「うん。お父さん、お休みなさい」


「ああ、お休み。また明日電話するよ」


「あ、待って!」


 私は大事なことを思い出し、電話を切ろうとした父を呼び止める。


「どうした?」


「あのね、今度は、いつ帰ってこれる?」


 父が、困ったようにううんと唸る声。


「今度か? ああ、そうだなあ。年明け、くらいかな」


「本当?」


「ああ、本当だよ。そのくらいにはそっちにも帰れる」


 それを聞いた私は安心する。きっと今度こそは本当なのだろう。


「うん。それじゃあね。お休み」


「ああ、お休み」


 最後の挨拶が終わり、母が二、三言話し、受話器を戻す。


「お父さん、今度帰ってくるって」


「そう、良かったわね」


「うん」


 しかし、父はそう言っていつも遅れて帰ってくるのが常だった。どんなに念を押して聞いても、おおよそ予告というものが無意味なほどに、帰ってくる時期がバラバラだった。


 幼い私は嘘をつかれた、と思っていた。


 また、嘘をつかれた。

 お父さんは嘘つきな生き物なのだ。

 私のことが嫌いなのかもしれないと、つかの間ではあるが、思ったことさえある。

 私は私なりに傷ついていたのだ。


 そのせいで喧嘩をしたこともある。


 あのころは、それが父の仕事上仕方のないことだとは理解できていなかったのでわけはないのだが。


 しかし、真実を追い求める立場の人間にはあるまじき行為だよなあ。


 今考えると、そう思う。


――――――――

この章で事件編が終わり、次章から真相解明編となります。

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