第一章 新聞部の日常 <2>
それから時計の針がまた傾いた。
清人の勉強は、英単語から翌日に控えた数学の小テストの練習問題を解くことに変わっていた。
入念に解き方をチェックしながら、その方法を頭に入れていく。
一つ、また一つ。ノートに赤い丸が増えていった。それが彼の自信につながる。
彼は高校に入ってからは数学にだけは置いてけぼりにされたくないと、心に強く誓っていた。
彼には他校に通う二つ年上の兄がいるのだが、その兄が何度も警告してくれたことがある。
『数学には気をつけろ』
くしゃくしゃに丸めたテストをゴミ箱に放り投げながらそう口すっぱく話してくれたのだ。
当時、中学生の身分でありながら、ある程度、この少年に数学の恐ろしさの抗体が出来たのはそのおかげだろう。
「あ、あーーー!」
しかし、彼の大切な勉強に邪魔が入る。
成実が雑誌をページを開いて、大声を上げた。
「……今度は何ですか? 先輩」
「ちょっと、見てよ、これ!」
椅子から飛び上がった彼女は声を弾ませて、清人の前に駆けてきた。
「これ!」
と指差した雑誌を押し付けてくる。
それは見開きいっぱいにでかでかと飛び出すように文字が並んだ特集ページだった。日本に新しく出来た、巨大テーマパークであることはすぐに分かる。
ここ数ヶ月はテレビなどのメディアには引っ張りだこだった人気テーマパークである。清人も意識せずともその情報を耳に入れていた。
何でも元々は外国のテーマパークだったものが、こうして日本にも進出してきたらしく、特にずば抜けた絶叫マシーンの多さが注目されている。
ページにもジェットコースターに乗った人々の写真が真ん中に掲載されていた。
「スペーストレジャーランドじゃないですか? 確か、すぐ隣県に出来たんですよね。それがどうしたんですか?」
「むう、察しが悪いわね。ここに行きたいのよ」
「行けばいいじゃないですか。まだ出来たばかりで人でごったがえしてると思いますけど」
清人は興味がない様子で素っ気無い返事だ。
元来、彼は人が多い場所はあまり好きではないのである。
しかし、成実はというと、
「ここを次なる取材の場にしましょう」
と雑誌を丸めながら夢見る少女のような瞳で提案してきた。
これはあまりに突拍子もない発言だ。
「何をまた、とんでもないことを。そもそも、行くとして誰がお金を出すんですか?」
「きっと臨時の部費が下りる」
「下りません、下ろさせません、下りたとしても、行かせません」
と清人は意識したわけでもなく韻を踏んだ否定の仕方をした。
「う、うまい。やるなあ」
それに対し、思わず拍手をしてしまった成実。しかし清人はそれを無視して言及した。
「第一、何のために取材に行くんですか。目的のはっきりしない取材では、行ってもレポートにまとめきることが出来ませんから」
「……全く、細かいことを気にする奴だ」
「そこは慎重で冷静な人間だと言って欲しいですね。ともかくそんな場所に新聞部では行くことは出来ませんから」
清人は冷たく突き放すように言う。
「ぐぬぬ……」
すると、成実は自分の頭に雑誌を被せて悲しげに鼻を啜った。
「ああ、神様、どうしてこんなに私に歯向かう部員がいるのかしら。どうか、排除してください」
これには清人のツッコミが炸裂する。
「あんたが、無理やり入れたんだろうが!」
そして、二人がじりじりと睨みあい言い争っていたとき、突如、部室のドアが開いた。
普通、部屋に入るときはノックをするのが常識だが、鼻歌を歌いながら入ってきたその少女はそんなこと気にする素振りもない。
あまり身なりを気にしないタイプの人間なのか、髪の毛はぼさぼさ、シャツの襟は曲がっているし、ブレザーの一つのボタンは取れかけている。
まるで自分の家に帰ってきたかのように、
「こんちわーッス」
陽気な挨拶をした。
しかし、その少女の軽やかな足取りが前方の二人を見て、はたと止まる。
「……」
すると、にらみ合った清人と成実の視線が一瞬、無言でその少女を捉え、すぐに元に戻った。
さすがに場の空気を読んだ少女は額に手を当てた。
「ありゃりゃ、またいつもの漫才が始まっているようで。まあまあ、なるみんにきよぽん、ここは落ち着こうぜ」
「漫才じゃないです!」
「漫才じゃないわ!」
二人の気迫に、およよ、と少女は後ずさる。
「麻子には関係ないの。下がっててくれる?」
「そうです狐坂先輩、これは先輩と僕の問題ですから」
狐坂麻子と呼ばれた少女は言われた通り、押し黙った。素直にくるりと体の向きを半回転させドアに向かう。
そのまま二人の戦線から離脱するかに見えたが、一度部屋を出てから、すぐに戻ってきた。
しかめ面をして言い合いをしている二人に向かって、こう言う。
「おーい、外にまで喧嘩の声が聞こえておりますよー。あんまり度が過ぎると部の評判が落ちて、先生の耳に入れば部費が削られますってば」
それにピクリと反応したのは、清人の方だ。悲しいかな、やはり、部費や評判という言葉には過剰に反応してしまう人間なのだ。
「確かに、それはまずいです。こんなことしている時じゃない」
冷静になったらしく、呼吸を整えて椅子に座る。
「ちょっと、何を途中で終わらせてるのよ!」
それでもまだ成実は諦めていないようだったが、麻子が彼女の机から取り出したものを見て、顔色を変えた。
「ほら、これ食べちゃうぜ」
それは彼女が放課後に食べようとあらかじめ用意していたクッキーの箱だった。自宅に置いてあった頂き物をそっくりそのまま学校に持ち込んでいたのである。
「こら、麻子。それを机の中に戻しなさい」
「じゃあ、あたしの言うとおり、喧嘩をやめな。愛しいお菓子のことを思えば、熱くほてった気持ちもすぐに冷えるってば」
「……はいはい、分かりましたよ」
さすがに、自分のお楽しみを横取りされてはたまらんと大人しく成実は従った。
すぐさま麻子からクッキーの箱を取り上げ、大事そうに頬ずりをする。
「ああ、私のクッキーよ」
それを見て、麻子はくすくすと笑った。