第八章 キメラの急襲 <5>
二人が目指す体育倉庫は、ちょうど舞台の反対側、体育館の正面入り口の脇にある。ちょうど二人から見て、右手だ。まっすぐ行くためには、体育館を舞台から斜めに横断する形になる。
舞台からそろりと降りると、暗闇を一筋のライトを頼りに、二人で寄り添ったまま進んだ。
「だ、誰もいないわよね」
「誰もいないことを望みますよ」
「ねえ、どうする? 生物以外のものが出てきたら」
急に耳元でそんなことを囁かれ、清人は首筋に冷たいものを感じる。
「今、そんなこと言わないでくださいよ。いやでも意識しちゃうじゃないですか」
「キメラさーん、居ます? お休み中、失礼します」
「ちょっと、ふざけないでください」
「ふざけてないわ。せめてもの礼儀よ。部屋に入るときにノックするでしょ、それと同じことよ」
「まあ、いいですけど……うん? 先輩、なんだかさっきから僕の後ろに下がり気味じゃないですか?」
「そんなわけないわよ、別に何かが出てきたら妻沢君を楯にして逃げようとなんてしてないって」
「それ、心の中の思いがそのまま口から出てるでしょ」
「違うって、私はそんな薄情者じゃない、と後輩の手前、虚勢を張ってみる」
「……虚勢張ってどうするんですか」
物音がしたのは、そんな意味のない会話をしているときだった。
どこかから落ちてきた物が、体育館の床の上で弾んだような、ボールが転がるような音である。
「え!」
清人たちはその場で硬直した。
弾んで、弾んで、次第に音の間隔が短くなり、やがて、止まる。
「な、なんでしょうか」
成実が清人の腕を強く掴んだまま恐る恐る光を向ける。
ライトが照らし出したのは、転がっているバレーボールだった。ころころと転がり、成実の数歩手前で止まる。
「いったい、どこから落ちてきたんでしょうか?」
「さあ? 上の方から落ちてきたみたいだけど」
そう言って、成実はボールを拾おうとしたのか、掴んでいた手を離した。それは一瞬のことで、清人の脇をすり抜けた彼女は道しるべとなるべきライトを持ったまま、小走り気味で歩いて行ってしまう。
「あ、ちょっと先輩……え?」
注意をしようと言い掛けた時だった。
突然、右のわき腹に衝撃が走った。
それは何かが追突してきたような、強い衝撃である。
何が起こったのか把握する前に、目の前から、成実が居なくなる。
あれ、どうして?
その瞬間理解した。
清人の体は斜めになって体の重心を失い、倒れかけていたのだ。
成実が消えたのではなく、自分が傾いたである。
しまった。
隙を衝かれた。
誰かにタックルされたのだ、と思ったときには体が床の上から浮いていた。
そのまま、
成すすべもなく、
横様に、
吹っ飛ばされる――
「うわっ!」
「妻沢君!」
成実の金切り声が響いたのが分かる。
宙に浮いたまま、清人はこのままでは地面に叩きつけられる、と瞬時に悟った。
「ぐあっ!」
しかし、宙に浮いている間で的確に判断し、何かしらの対処できるかというと、無駄な努力だ。
落ちる、そう思った。
だが、
なんだ?
特に痛みは無い。
意外にも体が不時着したのは、柔らかにマットの上だった。
どうしてこんなところに、と思ったが、とにかく清人はその上に転がるように着地する。
体の無事の確認もそこそこに、すぐさま成実を探そうと顔を上げる。しかし、どうしても周囲が暗いせいで、方向が分からなくなっていた。
前はどっちだ?
ライトはどこだ?
頭もパニックになっている。
いったい、何なんだ?
何が起こってる!
「先輩!」
彼女が持っていたライトの明りを見つけた。
しかし、なぜかそれが、まるでパトカーのランプのように、宙でくるくると回転しているのが分かった。
そして、理解する。
成実も何者かに体当たりをくらわされたのだ。
「きゃあ!」
悲鳴が宙を裂き、一瞬の間の後、ばふん、と清人の目の前に彼女が転がり込む。
彼女も上手くマットの上に落ちたらしい。
清人は体勢を整えると、不安定なマットの上ですぐさま立ち上がる。
すぐに成実と共に逃げなくてはいけない。
いったい何者なのかは分からないが、状況から、自分たちにぶつかってきた生き物は、今、突然外から入ってきたわけではないだろう。
そうなると、最初からここにいた、待ち構えていた可能性が高い。
となると、この暗闇にも目が慣れている《・・・・・》。
まだ目が慣れきっていない清人と成実が抵抗するには、圧倒的に不利な状況であるだ。
ましてや、こちらは相手が何人いるのかも、いや、人間であるのかも分からない。
清人はそれだけのことを頭の中で瞬時に考えると、
「こっちです」
闇の中で必死に成実の手を掴んだ。
自分の体重をかけて、引き起こしながら、前方に目を向けた。
回転していたライトが床の上で動きを止め、体育館の一点を照らしている。
それは小部屋に続くドア。
ここから一番近い避難場所はそこしかない。
間に合うか?
駆け出すと同時に、聞いたことも無いような不気味な鳴き声が体育館に響き渡る。
この世のものとは思えない、獰猛な獣の啼声。
清人は肌が粟立つのを感じる。
冗談じゃない。
後ろを振り返る余裕もなく、清人と成実は走った。
ドアの前にたどり着き、必死にドアノブをまわす。
鍵はかかっていない。
開いた。
何も考えず、ドアの向こうに滑り込む。
成実の体が通り抜けたのを確認して、勢いよく扉を閉めた。
大丈夫だ。他の生き物は入ってきていない。
すると、ドアの向こうから、再び、生き物の咆哮がこだまする。
さっきよりも、近い!
「冗談だろ、冗談だろ!」
清人はそう叫ぶように繰り返しながら、ガタガタと震える手で鍵をかけようとする。
だが、気が動転しているせいか、扉がきちんと閉まりきっていないので、うまくかからない。
「くそ!」
毒づいて、ようやく回った。
しかし、まだこれで安心できない。
もしかすると、相手はこのドアを突き破ってくるかもしれない。
そう不安に思った途端、成実の声が背後から飛んできた。
「妻沢君、どいて!」
振り向くと、成実が壁際に寄りかかっていたロッカーの背後に回りこみ、それを押し倒そうとしていた。
「うわっ!」
清人が扉の前から、間一髪飛びのく。
それと同時に、大きな物音で見事、倒れてきたロッカーが斜めに寄りかかるようにして入り口を塞いだ。
ずしりと部屋全体が揺れる。
きっと、これで簡単にはドアを開けることは出来ない。
清人は膝に手を突いて、身体を揺らして呼吸をする。
「はあ、はあ、はあ」
とりあえず、これで大丈夫だろうか。
そう思うと、全身から力という力が抜け、その場に腰砕けに尻餅をついた。
成実も自分が倒したロッカーを背にして、ずるずると座り込んでいる。彼女も肩を大きく上下させて、荒い呼吸をしていた。
「はあ、はあ、い、いったい、何なのよ」
「わ、分かり、ません。暗闇で、と、突然のことで」
「き、キメラ?」
「何も、分かりませんでしたよ」
「さっきの、はあ、鳴き声は、何?」
「さ、さあ? 少なくとも、僕は聞いたことがありません」
「ちょっと、耳を澄ませて」
成実がそう言うので、清人も黙った。
すると、部屋が再び揺れた。
何者かが部屋の扉に体当たりを食らわせている!
「だ、大丈夫よね」
「分かりません」
清人は恐怖のあまり震えだす両足を拳で殴る。
なんとか立ち上がり、成実の横から倒したロッカーを扉側に押した。
扉に何かがぶつかってくる振動がロッカーを通して、びりびりと伝わってくる。
「入ってくる気だ」
「どこかに行ってよ!」
「くそ、しつこい!」
「もう、だめよ。降参、降参だから!」
怯えた成実がそう叫んだ。
それは、逃げ場の無い窮地に立たされた極限状態における、人間の本能の懇願だった。
すると、なぜか、まるで成実の言葉を理解したかのように、扉への体当たりが終わった。
唐突に、何の前触れも無く。
体育館は再び、元の静けさを取り戻した。
「もう、来ない?」
「わかんないです。僕らが、出てくるのを、待ってるのかも」
「とりあえず、ここには入って来れないみたいね」
「は、はい」
そう消えるような返事をしてから、清人と成実は押し黙った。
心臓が信じられない速度で、バクバクと耳元で鳴っている。
安心できない、そんな恐怖を抱えながら、呼吸を整えた。
どのくらい経ったのかは、判断できない。
だが、きっと体育館に入ってからそれほど、経っていないだろう。
しかし、清人にはそれが二、三時間ほど過ぎてしまったように感じている。
「……」
辺りを見回して、そこがずいぶん狭い部室だと分かる。なんだか、今まで自分がどこに居るのかもわかっていない気がした。
ここは、バスケットボール部の部室。
この汗臭さは男子の部室だな。
でも、そんなことはどうでもいい。そう、どうでもいい。
自分の生存を確かめるように、ぐっと胸元の服を掴む。
心臓よ、おさまれ。
脅威はこの場から立ち去った。
「もう、大丈夫。かな」
隣で息を潜め、ロッカーにもたれかかっていた成実が頭を起こし、聞いた。
「分かりません。外に、まだ何かいるかも」
「助け、呼ぼう」
「携帯電話持ってますか?」
ふるふると彼女が首を振ったのが分かる。
清人も持っていなかった。不覚にも、荷物は部室に置いてある。
「駄目ですね。僕も持ってないです」
「ライトも向こうに落としてきちゃったし」
「他にここから逃げ出す方法は?」
「あれは?」
成実が指差す先を見ると、正面の壁の右上に、換気用の小さな押し出し窓が見えた。しかし、それは人が通るのにはあまりに細すぎる。
「無理ですね」
「じゃあ、どうすのよ」
「ここで、夜を明かして、助けを待つしか」
「夜を明かして?」
「ええ、明日は休みですけど、運動部は練習に来るでしょうし。となると、さっき自分たちを襲ってきたものがずっとここに留まっているというのは考えにくいです」
「なんでそんなことが分かるのよ。ほんとにキメラだったら、体育館に入ってきた生徒を片っ端から食い殺しちゃうかもよ」
「そんな馬鹿な。そんなもの、この世にいません。きっとさっきのも、人間の仕業ですよ」
「そう言ってる割に、声が震えているわよ」
「先輩こそ、震えてます」
「……」
「……」
二人でそのまま言葉を無くした。
忍び寄ってくる恐怖から意識を逸らしたかったのかもしれない。
清人はたまたま腕にしていた暗闇で光る夜光処理がされた腕時計の針を見た。
ここに来てから、まだ、十五分しか過ぎていなかった。長い夜になりそうだな。
溜息を吐く。