第八章 キメラの急襲 <2>
成実が朝の部室に入ってくると、清人はすでに自分の机に座っていた。穏やかな朝の陽光差し込まない暗い部屋に、蛍光灯を灯らせ、新聞紙の切り抜きとにらみ合っている。
「おっは、妻沢君」
「ああ、おはようございます」
眼鏡の位置を直しながら、彼は顔を上げ、軽く頭を下げる。成実はそれを眺めてからふふんと鼻を鳴らし、
「感心ね。集合がかかって部長より早く部室に来ているとは」
深々と頷く。
「自分が絶対厳守で八時集合だって言いつけておきながら、平気で遅刻してくる人に上からの目線で言われたくありません」
彼が指差すと、時計の針は八時十分を指している。
「何を言ってるのよ、秒に換算すれば600秒よ、たったの。そんなもの二度寝をしていれば一瞬よ、一瞬。それに」
清人はそれを聞いて、なるほど、遅刻したのはそういうわけか、と呆れた。その怒りを抑えながら、
「それに?」
先を促す。
「私は部長で重役出勤ありだから」
堂々と言ってのける成実。
「先輩……」
「何よ」
「勝手なルールを今作らないでください」
「いいえ、バスの中で考えました」
えへん、と成実は胸を張る。
「そういう問題じゃありません!」
清人はつい取り乱し、机を叩いた。
「まあまあ、ごめんごめんって。それで、何か思いついた?」
本当に謝る気があるのか、自分の椅子にどっかと腰を下ろし、机の上に突っ伏した。その態度に再びむっとする清人だったが、いつものように説教などするわけにもいかなかったので、仕方なく自分が考えていたことを話した。
「犯人の目的のことです」
「目的、と来たか」
ほほお、と成実はあごをさする。
「ええ、僕らはずっとそれが分からずに、この事件の謎に翻弄されてきました」
「それが分かったとでも言うの?」
彼女の表情が明るくなり、むくりと起き上がる。
「いいえ、残念ですけどそうじゃありません」
「何よ、思わせぶりな言い方だったじゃない」
「でも、よく考えてみれば、僕らはそのヒントに気づいてなかったんです。なぜか見逃してました」
「見逃してた?」
「ええ、すっきりさっぱりと」
「いつそんなヒントがあったって言うのよ」
疑わしそうに片目を吊り上げる彼女に、清人は新聞の切り抜きを見せ、ここです、と指差した。
「例のキメラの噂ですよ。狐坂先輩が言ってました」
そして、文章には清人の赤のマーカーが引かれている。
その部分の文字は、
「来るべき時?」
そう記されている。
「ええ、そうです。先輩言ってたじゃないですか。キメラの怒りは未だ収まらない。それ故、犠牲となる獲物は一つに非ず。次なる獲物が狙われるのは遠くない。全ては来るべき時に向けてって。僕らこんなヒントがありながら、自ら暗中模索の道を選んでたんですよ」
「この文章……」
清人はその文字をなぞりながら説明する。
「ここにはこう書かれてます。怒りはまだ収まらない。犯人はきっと何かに怒ってるんです。それが何かは分かりませんけど」
「怒ってる。怒り?」
「それから、犯人が目的としているのは、この来るべき時で、そのためには犠牲となる獲物がいるんです。それで、文脈から推理するに、その来るべきときにきっと犯人の怒りは消える」
「なに、それは八つ当たり?」
何気なくそう言った彼女に清人は真剣な語調で返す。安易な発言をしている場合ではないと思ったのだ。
「冗談ですよね。やっていることはその程度のことではありません。人をどこかに誘拐しているんだとすれば、立派な犯罪です」
成実は腕を組み、考えごとをしているのか無言になった。
「まあ、これだけの情報で何が分かったというわけではないですけど、少しは何かの指標になったかと」
「……むしろこんがらがったわ。回りくどいというか、なんというか」
「え、そうですか?」
「考えてもみなさいよ。むしゃくしゃして人をたった一日誘拐して、身代金を要求するならまだしも何もしてないわよ。ただの徒労よ、そんなの」
と成実は清人の情報を一蹴する。
「……じゃあ、彼女を呼びましょう」
しばらくして清人が提案した。それは明らかに苦し紛れであり、切羽詰った彼がたどり着いた最終地点だった。彼はマーカーを指で回しながら、顔を上げる。
自分の話で、逆にわけが分からなくなったと言われては、引き下がるわけにはいかないのだ。
「え?」
「もっとヒントが欲しいですよね」
「そりゃあ、そうだけど。彼女って、誰を?」
「決まってるじゃないですか。狐坂先輩ですよ、ほかに新しい話を聞いてないか、聞けばいいんです」
それを聞いて成実はあからさまに渋面を作る。
「麻子ぉ? でも妻沢君、以前は麻子の事を胡散臭いって言ってなかった? 信用できないってとも言ってたわね。そんな人間の話を聞くわけ?」
すると、彼女の表情が意地の悪い笑みに変わり、清人の肩を突っついた。おそらく、今まで散々自分の新聞作りに関して否定的だった彼がその新聞作りに加担していた麻子に頼ることは、自分に頭を垂れたも同じと思っているのだ。ここぞという攻撃のタイミングを逃さないのが成実だった。
「でも、今は他に頼れる人もいないじゃないですか。呼んできてくださいよ」
清人は彼女が何組なのか知らないので成実に呼んできてもらうしかない。
「ええと、どうしようかな」
明らかに優位に立った彼女は、ふんぞり返り、いままでにないほどに高圧的な態度で椅子に座った。
清人はこれは、嫌なムードになった、と溜息を吐く。
「あのう、そう言わずに。どうか」
「どうか? 何? きっちり頭下げて、ほら。お願いしますでしょ。お、ね、が、い、し、ま、す」
土下座、とまではいかないものの、成実は自分に対し、頭を下げろと要求をしてきた。
清人はうつろな目をして彼女を見つめる。
おそらく、今頭を下げるのは一時の恥じでも、成実のことだ、きっと卒業するまで、何度も蒸し返されるネタに昇華されるに違いない。そうなるとやっかいだ。
しかし、後には引けない清人。恐る恐る、体勢を前に倒す。
「えっと、お、おねがい……」
そう言い掛けて、
「それには及ばず!」
どこからともなく、芝居がかった女性の声が響く。
突然のことにきょとんとした二人の顔が背後の入り口に向く。そして、そこに現れた人物をその眼に捉えた。
「え?」
「狐坂麻子、ただいま推参!」
さながらヒーローの登場シーンのように、腕組みをし、光を背にしてたっている彼女は、にやりと不敵な笑みを浮かべていた。