第六章 第三の事件 <3>
いったい何を急いでいるのか、通路を直進してくる。
このままでは衝突は免れないと察知した三人は咄嗟に通路の脇に身体を寄せた。しかし、これでは気づかずに彼らは素通りしていくと考えた千穂は遠慮がちに彼らに声をかける。
「あ、あの……」
その声に気がついたのか、それとも見覚えのある彼女の存在に気がついたのか、走りながら千穂を一瞥した成実が急ブレーキをかける。ぶつかりそうになって寸でのところで清人も立ち止まった。
「あれ? 確か、檜山さんよね?」
成実は本当はすぐにも走り出したのか、足踏みをしたまま聞く。
「はい、あの……」
「今日は何か用? それと、隣の人って」
「ああ、私の友達の藤咲由貴ちゃんです」
成実が合点がいったとぽんと手を叩く。由貴が如才無くお辞儀をし、
「あ、あの、藤咲由貴です。なんだか私を探すために協力してくれたみたいで、ご心配をおかけしました」
と恐縮気味に礼を言った。
「そう、あなたが藤咲さんなのね。出来れば今でも話をしたいところなんだけど、あいにく、急いでるのよ」
「急いでる? それはまたどうして?」
何かただならぬ空気を感じた風馬が鼻を膨らませて訊いてきた。
「ついに三件目だよ。行方不明の生徒がまた出たんだ」
「ほ、本当、ですか?」
その情報を初めて聞いた成実たち以外の人間の顔つきが変わった。
「ああ、おとといから居なくなっていて、実はもう無事に家に帰っているんだけど、聞いた話では藤咲さんたちと同様に、記憶を失ってるって」
「……また、記憶が?」
「……」
「それは何組の生徒ですか?」
張り詰めた重たい空気を打ち破るように、そう問うたのは千穂だった。それは、いつもの内気な様子ではなく、何か切実な強い意志から発せられた言葉に聞こえた。
「え?」
「お願いです。教えてください」
「ちょっと、千穂、どうしたのよ」
いつもと違う親友の姿に由貴は戸惑っているようだ。彼女の肩を掴み、不思議そうな顔をしている。
「二年生の篠田かすみって子よ。もしかして知り合い?」
成実は彼女の反応を見逃さない。僅かだが瞳孔が開いた。
間違いなく心当たりがある顔だった。
「知り合いなのね?」
「知り合い、というわけではないですが、同じ塾に通っている人、です」
「同じ塾ねえ。他に何か言えることは?」
成実は静かな声で追求する。
「ありません。それだけです」
千穂はきっぱりとそう言い放った。
成実は眼光を鋭くして、彼女のその言動と挙措から、その裏に潜む真意を探ろうとした。
彼女がどうして、この事件に興味を持っているのか、その謎を。
いったい、何を考えているの?
しかし、今はまだ掴みきることが出来ない。それならば、と成実の考えはまとまっていた。
「そう、分かったわ。それなら、ついてきてもらおうかしら。どうやらあなたもそのつもりらしいし」
「はい、お願いします。いいよね、由貴ちゃん」
由貴は目の前で起こっている二人の会話についてこれていないようで、目を瞬かせていたが、ようやく我に帰り、
「うん、分かった」
と了承した。
すると、そのやり取りを見ていた風馬が自分も自分もと飛び跳ねながら挙手をする。
「稲葉先輩、自分も――」
「あんたは却下」
成実、取り付く島もない。
「どうしてですか、そんな邪険にしないで下さいよ」
「だって、うるさいし」
「そんなあ、静かにしてますから」
「陸上部はどうしたの? 練習に行ってきなさいよ」
「今日は顧問の先生が出張で、解散して自主練ってことになっているんです。だから大丈夫」
「だめ、そもそもこの前、きちんと言ったでしょ、あれ一度切りだからって」
「何言ってるんですか、同じ事件なんですから、解決するまでがながーい一回ですよ」
「そういうのを屁理屈って言うのよ、ぐうう。ああいえば、こう言う」
成実はぎりっと風馬を睨んで明らかに苛立っていた。それを見て、危険を感じたのか、清人が提案する。
「先輩」
「何よ?」
「もう、抵抗するのは止めにして、ここは潔く彼を連れて行きましょう」
すると成実はくるりと自分の部下を振り返り、見損なったと、声を荒げた。
「妻沢君は私の味方のはずじゃないの?」
「もちろん、一応味方です。だから、最善の方法をこうして提案しているんじゃないですか。前回も同じことを言いましたが、これ以上、時間を無為なものにするのは、目的に反しています。それには、彼を連れて行くのは致し方ないかと」
「……」
「……」
「……泣いていい?」
「……先輩、ええと、心中お察しします」
普段反目しあっている二人ではあるが、このことにおいては清人も、彼女に同情を示した。
予想外ではあったものの、成実たちは千穂に由貴、風馬を加えた五人で移動することになった。
昇降口を出て、校舎の外を歩きながら成実が説明する。
「実は、その篠田かすみの情報をくれた人と校門で待ち合わせしてるの」
「情報をくれた人?」
訊いたのは由貴だ。
「うん、同じ二年生の仙崎透って生徒よ」
すると、その名前に覚えがあるのか、質問をした由貴、だけでなく千穂も僅かに反応を示した表情だった。
「……やっぱり、知ってるのね」
と確認する。
この点については、なにやら押し黙ってしまった千穂に代わって由貴が話をした。
「ええ、実は千穂と私は通っている塾が同じなんです。その塾の経営者の親戚に当たるんです。なんでも、その方の兄の息子だということで、時々塾の方に顔を出してくることがあるんです。それで、仙崎先輩とは顔見知りの仲なんですけど」
「それは、篠田さんも行ってるっていう……」
「はい、同じ塾です」
「で、仙崎君が塾の経営者の親戚ねえ。それはまた大層な」
成実は驚嘆の声を上げる。自分の周りにそういった地位の人間がいないので、とても偉い印象があるのだ。
しかし、彼女は首を振る。
「いえ、それよりも仙崎先輩の父親の方が……」
するとなぜか、語尾が消えてしまった由貴。遠くの一点を見つめたまま、あっと口元を押さえた。
「……?」
不思議に思って成実がその方向に目を向けると、一台の車が校門の前に止まっていた。いや、成実の目にはそれが一瞬車と識別すべきなのか、迷った。
あの胴長のダックスフントを髣髴とさせる長い車体に、太陽の光を跳ね返す黒の光沢のボディ、付近を通る人間たちに圧倒的な威圧感を与える一台の高級車が停車していた。
テレビ画面の中でしかお目にかかれないような、立派なリムジンである。
「誰か、有名人でも来ているんでしょうか?」
風馬が興奮に満ちた上ずった声で言った。
「どうしてこんな高校に来るのよ」
と成実は否定したが、やはりその高級車が気になった。
「校長が調子に乗って買ったのかしら」
「校長、絶好調ってところですか?」
風馬の低レベルなギャグに無言の成実は鉄拳制裁を加える。
「くだらないこと、言わない!」
「すいません、冗談ですって」
そのやり取りが済んだ後で、一行は校門に近寄った。他の下校中の生徒達も物珍しそうにそのリムジンを眺めている。高校にリムジンというあまりに場違いさ加減には誰もがただならぬ一種のものものしさを感じているようだ。
周囲には自分たちと待ち合わせているはずの仙崎らしき人物はまだいなかった。校門前で待ち合わせなので、どうせならこの際じっくり観察しようとそのリムジンに全員で近寄る。
運転席のドアが開いたのはその時だった。
「よお、広国高校の新聞部ってのはおたくらのことかい?」
ドアの向こうからのそりと姿を現したのは、明らかにその高級なリムジンとは不釣合いな男性だった。タバコの煙をくゆらせながらこちらに話しかけてくる。
まるで徹夜明けのサラリーマンのようなよれよれの白いシャツに、裾のぼろぼろのジーパン。無精ひげを生やし、もさっとした頭からはどこか不潔そうなイメージを与えた。
自分たちが話しかけられたことのに動揺しながら成実が答える。
「はい、そうですけど」
「ううん、確か話では二人って聞いてたんだが、俺の目に狂いがなければ、あんたらは合計で五人だな。最初の話はさしずめデマってところか?」
「えっと、すいません。いったいこれはどういうことなんですか? もしかすると仙崎君の?」
「おう、すまねえ。自己紹介がまだだったな」
すると、彼は靴の裏でタバコの火をこすり付けて消すと、片手を差し出した。
「透からあんたらの送迎を承った叶野だ」
「ど、どうも、新聞部の、稲葉成実です」
成実がその手で握手をしながら、警戒の色が籠もった声で自己紹介を返した。
それを察したのか、
「ハッハ、そう警戒しなさんな。別に怪しい人間じゃない。これでも正式に仙崎家に雇われてる専属ドライバーだ。まあ、あまり普段は出番が多いわけではないが」
「専属のドライバー?」
現実感から遠く離れた単語に開いた口がふさがらない成実。それを尻目に、彼は後部座席のドアを開けた。
「ほら、ゲストの方々、乗った乗った。当初は二人だったが、五人でも変わりはねえ。むしろ多い方が運転する甲斐があるってもんよ」
「え、乗っていいんですか?」
あまりに突然の事態に、何が起こっているのか把握できない清人は眼鏡がずり落ちそうなほどに驚いている。
「当然だろ。分かり切ったこと言ってねえで、さっさと乗れよ。透も待ってることだ。ああ、でも注意しとくけど、あんまり嬉しいからって車内で跳ね回るなよ。何か壊されると責任は俺が取らされるからな」
滅相もございません、と寒気がする思いで成実たちはぶんぶんと首を振った。
こんな場所で飛び回るなんてはしたない行為できるわけが無い。
そして、周囲の生徒達の羨ましげな注目を受けながら、全員が無意識に一列になり、行儀よく内部に車内に足を踏み入れた。
中は目の前に大人数が座れるほどのL字型のロングソファーが設置されており、そこへ、緊張した面持ちの五人が奥から順に腰掛けていった。
「それじゃ、大人しく乗っててくれよ。そんなに遠くないから、すぐに着いちまうと思うけど」
そう言って叶野が扉を閉める。
密閉された車内で、少なくとも一分は全員が無言だった。この非現実的な状況において、会話の口火を切ることが出来る勇気がある者は、誰もいなかったのである。