第一章 新聞部の日常 <1>
小さな部室の北側の壁には窓がある。
普段、降り注ぐ暖かな陽光に縁のないその窓はその光を取り込むことなく、専ら換気用として使用されていた。
広国高校一年の妻沢清人は今日も勉強がてらに部室を訪れ、その窓のクレッセント錠に手をかけた。
鍵をはずし、スライドさせ、風の通り道を作る。
そうでもしないと、この部屋の積もり積もったほこりっぽい古めかしい匂いが籠もったままとなるのである。
「はあ……」
窓の向こうには校舎の外、通りに沿って植えられた街路樹が見えた。
太陽の光をいっぱい吸収しているのか、生命力に満ちた、濃い色の厚みのある青葉が風に揺れている。
そこから漂う透明で清潔な空気が彼の元にも届いていた。
そんな時、わけもなく背伸びしたくなる。
彼が今、窓際に立ち、うっとりとした表情で深呼吸しているのはこういうわけであった。
新緑の季節、五月。
清人がこの高校に入学してから約一ヶ月が経った。
話ばかりでうんざりするようなオリエンテーションが終わり、クラスメイトたちとも次第に打ち解け、高校での生活が本格的なスタートを迎えた今日この頃。
これから始まる三年間の高校生活を思って、静かに熱意をたぎらせるのもいい。
だが、しかし。
「うがーー、ひーまーだー」
背後から聞こえるのは、世間で流行の兆しのある五月病を発症しそうな退屈の声だ。
古びた机の両端をばんばんと叩き、両足をじたばたさせている少女がいる。
清人の一つ上の先輩、稲葉成実だ。
まるでレストランで注文した料理が来ないのに腹を立てた子供のような挙動だが、彼女、列記としたこのクラブの部長である。
机の上でふて寝するように腕の中にその髪をうずめている。
「稲葉先輩、いい加減毎日毎日そんな愚痴をこねるのは止めにしてもらえませんかね?」
そんな彼女に対し、苦情を申し立てるのはもうすっかり清人の役目となっていた(その様も板についてきたように見られていたら心外だ)。まだここに来てからはまだ一ヶ月も経っていないというのに、だ。
清人は腰に片方の手を当て、眼鏡の位置を調整する。
「そんなに暇ならどこかに取材にでも行ってくればいいじゃないですか。ここは新聞部なんですから」
清人が指摘した通り、ここは広国高校の新聞部の部室だった。
つまり、稲葉成実はその部長で、唯一彼女以外で新聞部員である清人は、自動的に副部長の役割を当てられていた。
「しゅざいー? 何よそれ。そんな面倒くさいこと、やるわけないじゃない」
まるで当然のことのように彼女は言い放つ。
新聞部部長にあるまじき言動に、清人はうんざりした。
全く、この人ときたら。
「何を言ってるんですか。ここは新聞部なんです。取材を怠って、いい記事なんて書けませんよ」
しかし、成実はぷいっとそっぽを向く。
「いいわよ、どうせそんなもの書かないんだから」
「また、そんなこと言って!」
清人は成実が向いた方向に回り込んだ。憤然たる面持ちで説教を始める。
「いいですか! この部の存続がかかっていることなので、はっきり言わせてもらいますけどね。年に最低二回の学校新聞を制作することは、このクラブの活動内容としてきちんと明記されていることなんですから、そこを自覚してもらわないと」
「だって、面倒だし……」
目を細めて、ぼそっと言う成実。
その態度にむっとした清人はますますヒートアップする。拳で成実の机を叩いた。
「そんなことだからいけないんです。国民のことを考えず、ほったらかして好き放題やっている王がいたら、国民はどう思いますか? 当然、嫌気がさしますよねえ、国を出て行きますよね。稲葉部長、あなたがこの半年やってきたことは全てそれと同じことです」
「だあ、もう……また始まった」
彼女はマシンガントークの防備のためか、長い髪で耳元を覆う。
「長である先輩がしっかりしないから、部員が集まらず、僕と二人だけの部活になっているんですよ。ただでさえ、文化部は人気がないんですから、これは由々しき事態です」
清人は腕組みをして、続きを話す。
「今でこそ、こうして放課後に部室に来てリラックスしていらっしゃいますがね、このままグータラ生活して、なんら実績のないクラブは、部費も削られ、挙句の果てに廃部になるんですからね。分かってますか? この場所も使えなくなります」
彼の説教は留まるところを知らない。
「そもそも、先輩には上級生としての自覚が足りません。これは新聞部部長を務める以前の問題です。いつまでも子供じゃないんですから……」
などなど、云々。
後は何を話したのか、本人も確かに記憶していないし、成実もこっそりイヤホンで音楽を聴いていたので、省略する次第である。
「ねえ、妻沢君」
執拗なほどの終わりなき説教がようやく終わり、十分ほど経ったころ、成実が清人を呼んだ。
先ほどまでの殺伐とした空気はとうに失せ、爽やかな五月の涼風が部屋を吹きぬけていた。
成実は先ほどの机の上でなにやらレジャー雑誌を取り出し、ページを捲っている。
一方、清人はというと、窓際に自分用の椅子と机を用意し、授業の復習をしていた。
「何ですか?」
「最近さあ、抜け毛、気になったりしてない?」
英単語を綴っていたペンを止めた。
「は、はああ? いきなり何を言い始めるんですか」
清人には唐突な彼女の質問の意図が分からない。
そんな彼の髪の生え際を成実の目が探る。
「怒ってばっかりいるとさ、なんていうか、単刀直入に言って……禿げるよ」
しれっと彼女は恐ろしいことを言う。はっとして、彼は自分の額に手を当てた。
「そんな、馬鹿な。禿げません。禿げるわけないでしょうが、こんなに若くして」
「わかんないよ。あれって遺伝とかも関係してるって言うし、お父さんとか、おじいさん、禿げてたりしてなかった? 両方とも禿げてたら相乗効果できっと普通より早く禿げるかも」
清人は自身の記憶を探って首を振った。父の髪には異変はなかったし、祖父は白髪であるがきちんと残るべき場所は髪が残っている。
「予想に反して残念ですね、二人とも禿げてません」
「本当に?」
「本当ですって」
「……」
「……」
「……かつら、ってこともあるよね」
再び単語を綴ろうとしてペンが止まった。
今日の先輩はしつこい。いやに付きまとってくる。
「ねえ、かつらだったとしたら?」
「そうだとしても、家族にそれを隠し通せるとは思えません。ぜったいばれてるはずです」
冷静に判断を下してそう返した。ペンをまた握る。
しかし、彼女はまだあきらめていないのか、ぼそりと続けた。
「それは分かんないよ。もしかすると、他の家族は知っていて、妻沢君が将来を悲観しないように、ずっと黙ってるのかも」
ふざけるな、それが本当だとしたらこっちは人間不信になるって。どれだけかわいそうな気の遣われ方してるんだよ。
と、これは清人の心の声。
「……いったいさっきから何のつもりですか? 嫌がらせならやめてください」
「違うってば、私はね、今現在残っているその希望の髪の毛たちを、大切にすべきだってことを言いたいの。いつなくなるか分からないから、日々、気をつけないとね。普段、怒らないようにするとか……」
「それは、僕を牽制してるんですか?」
「はあ、違うったら……」
彼女はわざとっぽい溜息をつく。
「もう結構です。こんなの高校生がする会話じゃありません。なんですか、禿げとか、かつらとか。もうお終いです、僕は勉強します」