第六章 第三の事件 <2>
ふう、ようやく投稿できました。
なんだか、だんだん間隔が大きくなっているような……。
教卓を見ると、すでに担任教師の姿はなかった。それで、もうすでにホームルームが終わっていたことを千穂は知った。
いつも気が抜けているようで、集中力がないんじゃないかと注意されることも多いが、今日は別に意識が虚空をさ迷っていたわけではなかった。
ある考えごとをしているうちに時間が経過し、その時には、ホームルームが終わっていたのだ。
断じてぼうっとしていたのではない。
教室内が生徒たちの話し声で溢れている。真面目に放課後の掃除をしようとしている生徒は見受けられなかった。ばたばたと走り回るせいで、埃が立っている。
どうしようかな。
時計を見ようとして顔を上げて、そして、こちらに近寄ってきていた由貴と目が合った。
「千穂、もう帰る?」
そう話しかけてくる。
それがいつもの習慣で、千穂は彼女が戻ってきてよかったと思う。
一昨日までは、一日失踪していたということで、クラス内外から様々な生徒が押しかけていたが、それもようやく収まったころだった。
千穂は考える。
もし、彼女が行方不明になったまま、時間が過ぎていたら、と。
そうなれば自分は学校に登校できていたかどうかも怪しい。
あのまま部屋に閉じこもり、不登校になるという選択肢を、自分が選んでいたかも知れないと思うとぞっとした。
彼女が欠落した日常など、おおげさに思われるかもしれないが、先の見えない深い霧の中にもぐりこんだようなものなのだ。
でも、こうして由貴は戻ってきてくれた。無事だという電話をもらったときの、安堵感というのは一生忘れることはないだろう。
あの後、彼女の家に行き、声だけでなく存在する彼女に抱きついて、すがり付いて泣いた。みっともないとか、そんなことは考えなかった。
由貴が目の前にいてくれることの幸福に気づいた瞬間でもあった。
彼女は彼女で、泣いていた。
記憶がなくて、自分だって状況を理解できず、怖かったかもしれないのに、
「ごめんね、ごめんね」
と繰り返し謝ってきた。
でも、千穂にはその優しさが好きだった。かけがえのない友情を確かめて、それで、失踪事件は幕を閉じた。
と、最初は思っていた。
でも、千穂の中には小さなしこりのように残っていた疑念があることに気がついていた。
稲葉という新聞部の先輩が言っていたけど、由貴が記憶を無くしていることには何か原因がある。
それには自分が知らない特殊な事情があるのに違いない。そして、まだ曖昧ではあるものの、千穂にはそう思うだけのある根拠があった。
そう、それは、由貴が居なくなった日の……。
「由貴ちゃん、今日は行きたいところがあるの」
意を決して、千穂は彼女にそう切り出した。
「行きたいところ? どこ?」
普段、自分から主張することや提案することの皆無な千穂のこの発言は多少、由貴を驚かせた。
「新聞部の部室」
「新聞部? またどうしてそんなところに?」
彼女が目を丸くするのは当然だ。千穂は彼女に、自宅に来た成実たちのことは話していない。
そのため、千穂は簡単に事情を説明し、彼女たちについていけば、何かしら、由貴が突然いなくなってしまったことの原因を知ることが出来るのではないか、と考えていることを彼女に聞かせた。
「へえ、新聞部ってそんな活動もしてるんだ」
日頃、そんな部活の名を聞くことのない由貴は意外そうだった。正直、千穂だって急に家に来られたときは、どういうことなのか、と混乱した。けれど、同時に協力したいと思ったのも事実だ。
あの、稲葉という人の目がとても真剣だったのを覚えている。それを見て、何かの冗談ではないと判断したのだ。
「そこで、事件のことについて聞きに行きたいの」
「……」
すると、由貴は急に押し黙る。困ったような、不思議な顔をした。
「由貴ちゃんは、自分が記憶を無くしたとき、何があったのか知りたくないの? 変だって思わない?」
聞いた話では、由貴はやはり千穂と学校を別れた直後から記憶を失い、気がつけば、家の前に立っていたのだという。
その間、約一日。
記憶が空白になるとはどんな心持ちかは分からないが、少なくとも気持ちがいいものではないだろう。
「それは、気になるけど。何か嫌な感じなのよね」
それは彼女に似合わない、どこか弱気な後ろ向きの言葉だった。
「それは、どういうこと? 怖くてその間のことを思い出したくない?」
「どう言ったらいいのか、分からないけど。でも、千穂が行きたいって言うなら、私はいいよ。どうせ暇だかんね」
「うん……ごめんね。もし嫌だったら先に帰ってもらっててもいいけど」
千穂は控えめに目を伏せながら、ちらちらと彼女の顔を窺った。
「謝らなくていいよ。もう行くって決めたんだから、ほら、早く行こう」
由貴に手を引かれ、千穂は椅子を立ち上がった。しかし、その場で由貴ははたと動きを止める。
「で、……」
「で?」
「新聞部ってどこ?」
「え、……」
千穂の目が点になった。
なにも思い浮かばない。
「えっと……」
これが、幽霊部の厳しくも悲しい現実である。
とりあえず、二人は教室を出て、文化部の部室がありそうな西棟へ向かうことにした。というのも、広国高校は、校舎が一つではない。生徒たちの各クラスと、音楽室や、家庭科教室など、主要な特別教室は東棟にあり、普段、生徒たちはその東棟から離れることなく授業を受け、一日を終える。
そのため、西棟を使用しているのは専ら、生徒よりも教師が多い。元々はその棟にも、クラス教室もあったらしいのだが、少子高齢化の余波によるものか、単なる、棟の老朽化による安全地帯への避難のつもりなのか、空き教室が多いのだ。古びた木材の匂いがする美術室や、怪しげな薬品が陳列されている理科実験室など以外は、基本的に教師たちが授業の準備室や、倉庫などに使っている。
千穂と由貴も入学したてではあるものの、その事実は知っていて、その空き教室の一部が文科系のクラブの部室として利用されているという話をうっすら聞いたことがあったのだ。
その西棟と東棟は二つの通路で繋がれていて、一つは一階と二階に渡り廊下があった。
「放課後に西棟に行くなんて初めてだよね」
階段を下りながら、由貴が言った。
「だね。私なんて入学時のオリエンテーションで行ったっきり、まともに足を運んでない気がする」
「いくら毎日通ってる高校でも、自分の立場によって行動範囲って狭まるもんだね。この高校のことでまだ知らないことや、見たことのない場所が一杯あるんだろうね」
「そうだね」
「ふむ、そう考えるとさ、残りの高校生活を無駄にしないようにしないと。卒業した後になって、学校に知らない場所があったんだなんて気がつくのは、ショックじゃない?」
「うん、そうかも」
「ああ、そう言えばさ、知らないことって言えば、先生の顔だって、知らない人って多いよね。担任になったり、科目で担当される先生だと顔や名前も覚えてるものだけど、卒業まで何の接点もないと、違うクラスの子と話して、へえ、そんな先生がいたんだってことない?」
「ああ、あるある。よく離任式や退任式とかで初めて見て、何の先生だろうって思ったり」
「そうそう、全く自分には認知の外だったりして、失礼この上ないけど存在すら知られていないという。それで、そんな先生を学校から送り出すって思うと、少し罪悪感みたいなのを感じたり、ね。まあ、間違いなく向こうも自分のことなってよく知らないに違いないけど」
彼女がそう言って、ふふふと笑う。
ああ、この感じだと思いながら千穂は頷く。こんなテンポで彼女とはいつも話すんだった。特に彼女と長い間会わなかったわけでもないのに、この感覚を再認すると同時に、まるで自分の居場所に戻ってきたように感じた。
やっぱり、彼女は私の大切な友達。
そんなどうでもいい話をしながら、渡り廊下に差し掛かったときだった。いつもはほとんど人影も見えないはずの通路に、珍しく、誰かが立っていた。
一人のようだ。
何を迷っているのか、中央辺りでうろうろと方向転換をしている。
その姿は少々気味が悪い。
それでも、千穂たちは立ち止まっているわけにもいかず、通路に踏み出した。
その距離まで来て、千穂にはその人物が誰なのか、見覚えがあることに気がついた。日焼けした短髪の少年だ。彼もそれが分かったようで、
「ああ、この間の……」
と相好を崩し、少々馴れ馴れしい雰囲気で手を振って近寄ってきた。
千穂は一瞬、どう反応すべきかどうか迷ってびくりと身体を震わせた。ただそれだけなのだが、それを敏感に感じ取った由貴は、すっと目の前に足を踏み出した。
その少年と千穂を結ぶ直線上に楯になる形で立ちふさがる。鋭い視線を向けた。
「あなた、誰ですか? 千穂に何か用?」
「え、その……」
彼は予想外の警戒反応にその場で、立ち止まる。突然の緊迫に、千穂は慌てて由貴の対応の誤りを指摘した。
「由貴ちゃん、違うよ。その人は変な人じゃないから。昨日、新聞部の人たちと一緒に家に来てくれたの」
「え、そうなの?」
すると、目の前の少年が丁寧な会釈をする。
「陸上部の明宮風馬です。どうも」
「ああ、すいません」
間違いに気がついた彼女はすぐさま早とちりを詫びる。実はこの由貴という少女、どうにも千穂を自分が襲い掛かる外敵から守らなくてはならない、という一種の使命感を抱いているのである。
「千穂が驚いたみたいだったから、何か嫌なことでもされているのかと思ってしまって」
風馬がへこへこと頭を下げる。
「ああ、自分が悪かったんですよ。数日前に一度だけしか会ったことがないのに、急に呼びかけたりしたから。驚きましたよね?」
「いえ、大丈夫です。えっと、それで、隣にいるのが藤咲由貴ちゃんです」
千穂がそう紹介すると、彼が目を見張ったのが分かった。物珍しそうに、由貴の顔を眺めた。
「ああ、あなたが行方不明になっていた……」
そうじろじろ見られては、こちらも困ると、後退りする由貴。しかし、直接の接点はないものの、失踪した自分を見つけ出そう協力してくれたらしいこの少年に、迷惑をかけた謝罪を述べた。
「私が居なくなって、いろいろ多くの人に迷惑をかけたみたいで、本当にすいませんでした」
すると、彼は滅相もない、と手を横に振る。
「自分なんて、ただついていっただけですから。新聞部の稲葉先輩の方がもっと積極的に藤咲さんを探し出そうとしてましたよ」
「新聞部の稲葉先輩?」
そこで、千穂が当初の目的を思い出す。
「あ、そうだ。私達新聞部に行こうとして部室を探してたんだった」
「え、檜山さんたちも行こうとしてたんですか?」
どうやら、この少年も同じ考えでここに居たらしい。しかし、なぜ、ここでうろうろとしていたのか、それが謎だった。
千穂がそれを問うと、彼は苦笑いをしながら答えた。
「部室は目の前の西棟なんですけど、自分、部室に入れてもらえないんですよ。どうにもその稲葉先輩から煙たがられているようで。だから、ここでこうしてどうやったら入れてもらえるか、考えてたんです。でも、それも今、解決しました」
「はい?」
「檜山さんたちを新聞部までの案内人、ってことにしてくださいよ。そうすれば、部室に入る口実になりますから」
「案内役ですか?」
「ええ、初めて行くんでしょ?」
「……まあ、いいですけど」
一瞬戸惑ったものの、由貴が首肯した。
すると、
「やったー」
そう高らかに拳を突き上げ、子供っぽく彼はガッツポーズを決める。その様子に千穂と由貴は顔を見合わせて不思議そうに首を捻った。少々、喜び方がオーバーでは、と思ったわけだ。しかし、案内してくれるというのは願ってもないことで早速、
「えっと、じゃあ案内お願いできますか?」
風馬に呼びかける。
「ああ、そうですね。こちらでございます、お嬢様方」
風馬はすぐさま襟元を正すと、まるで客を席に案内するウエイターのように二人を先導した。胸を張り、まるで自分の晴れ舞台がやってきたといわんばかりのふんぞり返り具合だ。
しかし、残念ながらその役目はあっけなく終わりを迎えることになる。
というのも、渡り廊下の先の角を曲がり、慌ただしく走ってくる二人の人物の影が見えたからだ。
その二人こそ、新聞部部長稲葉成実と副部長である妻沢清人だった。