第六章 第三の事件 <1>
ええ、執筆が遅れていまして、不規則な投稿が続いております。
忙しいというのもあるのですが、少々内容で行き詰った点があり、試行錯誤しながら調整しておりまして、思うように進んでいないのが現状です。とりあえずそこを乗り切ればもっとスムーズになると考えています。
誰にも見られないように抜かりなく警戒しながら、少年はそっと、自宅の裏口に回りこんだ。
「よし、ここまでクリアだ」
そう意気込む少年は、そっと制服のポケットに突っ込んでおいた鍵を取り出す。
それは、今朝、使用人が一階の管理室に置いていったもので、いくつもあるスペアキーの一つだった。朝食が終わったちょっとした隙にそっと管理室にもぐりこみ、入手したものである。
「まったく、毎日毎日、こっちがうんざりしてるんだよ」
そう塀に寄りかかり、ぼやいた少年の名は、仙崎透。広国高校に通う二年生の生徒である。
くっとひかれた太めの強い眉、きりっとしまった口元はその点だけを見ると、真面目で利発そうな印象を与える。
しかし、校則で処罰されない程度に染めた髪と、抜き足差し足で、狭い路地を進む姿は、充分よからぬ問題を起こしかねない町の不良に見えた。他人の家に忍び込もうとしているこそ泥にも見える。
そんな彼が小さな石段の上にあり、狭い通路の入り口である頑強そうな鉄扉を観察している。そっと、周囲を見回し、もう一度誰もいないことを確認してから、一息に石段を登り、取り出していた鍵を門の鍵穴にはめる。
「よし、入った」
中で鍵の外れる音。
ここまでは計算どおりだ。
誰かが近づいてくる気配はない。
透には使用人がこの時間帯は邸宅の西側の部屋を掃除していることは確認済みだ。
家の正面から入れば間違いなく複数の監視カメラに見つけられてしまうが、ほぼ使用人しか使わないこの場所からなら、カメラは一台しかなく、その死角を熟知している透には隠れて進むことはお手の物である。
両脇を植え込みによって仕切られ、奥の勝手口に向かう通路を透は、腰を落として進む。
いっそほふく前進でもしたい気持ちだったが、それでは服が汚れてしまう。だから、精一杯姿勢を低くした。
まったく、こうでもしなけりゃ俺に平穏が訪れないって、どういう家だよ。
僅かな砂利音も、命取りになりかねない状況で、ようやく彼は勝手口に手を伸ばす。
そこでふと、動きを止め、彼は空を仰いだ。
相変わらず大きな家だ、とうんざりしているのである。
学校の体育館ほどもの規模がある、その城のような住居、いや、豪壮な邸宅というべきだ、ともかく透はそこに住んでいる。
あの父が建てた、この抜け殻のような邸宅に。
「ったく」
ふんと鼻を鳴らし、透はノブを回す。
鍵はかかっていない。
これまた計算どおりだ。同時に胸が高鳴った。
これは、ひょっとして本当に上手くいくかもしれない。
そのまま中に入り、物音を立てないように注意しながら広いキッチン(というよりもレストランの厨房だ)を通って、食器棚の並ぶ通路を一息に駆け抜けた。
あとは階段を上り、気づかれないように自室に戻るだけ。透はしめしめと唇をなめる。
だが、そっと様子を窺いながら広間への扉を開いたときだった。
扉の端を何者かが掴んだ。
その危険を咄嗟に判断した彼は、ぐっとノブを引くが、相手の力は想定異常に馬鹿強い。なんと彼が体重をかけても、びくともしないのである。
「え、な……」
木製のドアが軋んでしまうのではないかと思うほど強く扉のフレームががっしとつかまれている。
「ふぐぐ……」
あっという間に透は力負けし、ずるずると引き摺られる形で、広間に引っ張られた。
「おかえりなさい、透様」
掴んでいたのは、屈強な体つきをした初老の男性だった。少し白が混じり始めた黒髪で、皺が寄った額は深い貫禄を漂わせている。
美濃治夫、この仙崎家に長年勤めているベテランのバトラー(執事)である。
彼はノブにしがみついている透を見るや、柔和な笑みを浮かべそう言う。
「透様じゃないだろ、美濃さん。ったくどうしてあんたが?」
彼は悔しそうに地団太を踏む。
「おや、もしかすると私のようなむさい老人がお出迎えしたのがおきに召しませんでしたかな? 透様にはもっとこううら若き女性、そうメイド、そちらが良かったのでしょうか? 最近は何かと流行っておいででしょう」
「変に気を回さなくて結構だよ。あいにくとそういう趣味はねえ。俺が言いたかったのは、どうしてあんたがここで俺を待ちうけていたのかってことだ」
「ふむ、そう言われますと?」
美濃は面白がっているようにわざとらしく言う。
「俺は今日、誰にもばれないように、正面からじゃなく裏口から入ってきた。カメラにも映らないように、姿も隠して、だ。なのに美濃さんは、まるで俺の行動を全て読んでいたかのようにここにいただろう。それはどうしてなのか聞いてるんだ」
「簡単なことです。スペアキーですよ」
彼は事も無げに言う。
「スペアキー? 気づいてたのか?」
確かに、透は今朝管理室からスペアキーを盗んだ。だが、あの時は誰にも見つかっていなかったはずだ。
すると、彼は、
「これでも執事ですから。毎日の点検を怠るなどということはございません。それで、今日点検したところ、三つある物の一つだけ無くなっていたというわけです。博様のご家族はこちら側の建物にには来ることはございませんし、他の家事使用人でないとすれば、犯人は透様しかいらっしゃらないということで」
「……マジで、ばれてたんだ」
「盗んだとなれば鍵で出来ることは一つ。扉を開けることです。ですから、透様がお帰りになるこの時間帯、監視カメラを見ておりました。すると、案の定――」
「案の定?」
「裏口の鉄扉が開閉するのが見えたというわけです」
そのまま後ろにのけぞってしまいそうになる透。
扉、か。確かに自分の姿は見られないように細心の注意を払ったが、他の証拠がカメラに映っていたなど、計算の外だった。
「透様を家にお迎えするのは私の役目でございますから、当然、ここで待っていたわけであります」
「……」
透はがっくりと肩を落とす。
「さあ、透様。お疲れでしょう、自室にお戻りになる前に入浴なさって汗を流されてはいかがでしょうか?」
「結構だよ。風呂に入るタイミングぐらい俺に選ばせてくれ」
「では、自室までお荷物を」
「いいって、それくらい自分で持つ」
「お腹がお空きではないですか? 誰かにすぐに食べられるものをお運びしましょう」
「美濃さん!」
矢継ぎ早にあれこれと世話を焼こうとする彼に透は声を荒げた。
透はまるで何もできない赤ん坊に接するようなあれやこれやと気を回される生活にうんざりしていたのだ。今日だってそれが嫌で、誰にも見つからずに帰ってきたかったのである。
「どうしましたか? 透様」
落ち着き払った彼の声は逆に透の神経を逆なでする。つい言葉に怒りがこもってしまう。
「放っておいてほしいんだ。言っておくけど部屋には誰も寄越さないでくれよ。夕飯に呼んでくれればいいから」
「お言葉ですが、透様のお傍にお付きすることは、雄一様より仰せつかっておりますので、迷惑がられようと、出来る限りのことはさせてもらいます」
「親父のことはいい!」
癪に障ったのか、突然、ぴしゃりと透は言い放つ。彼の目つきが鋭く変わった。
「しかし……」
「ともかく、俺の部屋には来ないでくれよ。俺が傍に付かれるのを嫌がってるんだ。そういうことだから、頼むよ」
それだけ言い残し、階段を駆け上がると一直線に二手に分かれた廊下を右に曲がる。そのまま一直線に進めば透の部屋だ。
苛立ったように扉を開け、中に入ると内側から鍵をかけた。
そこで深い溜息が漏れた。
ドアに背をもたれその場に座り込む。
「なんだよ。俺だって一人になりてえんだよ」
しかし、つぶやいて目を閉じたのもつかの間、すぐにどこからか物を叩く音がする。首を上げて、音がした方へ向けると二階の自室の北側のガラス戸を誰かが叩いているのだ。
時折ひょっこり出た顔と一緒にタバコを指に挟んだ片手が見える。
中年の男性だ。大口を開けて何かを言っていた。
開けてくれ?
「叶野さん!」
透は驚いて、窓に近寄る。すぐに鍵を開け、家の壁面に張り付いていた彼を部屋の中に引っ張り込んだ。
ごろんと前転しながら彼は部屋に転がりこむ。器用にタバコを持ったまま、だ。
「おう、た、助かったぜ」
するとそのもさもさ頭の中年男性、もとい、叶野はタバコの煙をぼふっと吹いて感謝の意を述べた。
「ああ、灰皿!」
いつもの癖なのか、綺麗に手入れされているカーペットの上にタバコの灰を指で落とそうとする。すかさず、透は脇にあった鉄製のくずかごを間一髪差し出した。灰が舞って、中に落ちた。
「おおっと、すまねえ」
「すまねえ、じゃないっすよ。カーペットがこげたりしたら大変なんですから。気をつけてください」
叶野はあごの辺りをぼりぼりと掻いて小さく頭を下げた。
「ああ、すまんすまん。今度から気をつけるよ」
ぶっきらぼうな言葉に反省の色は見えない。
「約束どおりの時間に来てもらって嬉しいですけど、どうしてこんなところから来たんですか? あんな場所をよじ登ってこなくても他に入り口から入るっていう、常識的で、はるかに安全な方法があるんですけど」
すると彼はにやりとタバコを咥えたまま笑う。
「つい昔の血が騒いでな。壁とか見るとよじ登りたくなるんだよ。ほらよく言うだろ、どうして山に登るのかって聞かれて、そこに山があったからって。そういうもんだよ。壁を見た瞬間、俺は入り口から入るという選択肢を捨てたんだ」
透はそれを聞き、よく不審者として誰にも見つからなかったものだとひやりとする思いだった。
「……そんな安直な理由で、部屋にいる俺を驚かせないでください」
肩を落とし、安堵する透。
「安直じゃない。立派な大義名分だろうが」
タバコの煙を撒き散らして、憤慨する。
「はあ、少なくとも、俺には分からないです」
「まあいい。それで、またわざわざ俺を呼んだのには、どんな用件があるんだ? すでにお前に言われたことは全部やったぞ」
叶野はタバコをくずかごの底に擦りつけて火を消して聞いた。早く本題に入りたかったらしい。
「ええ、まあ、そのことはとても感謝してます」
そこで、透はゆっくりと申し訳なさそうに息を吐き出し、
「その上でなんですけど、実は、問題が発生してしまって。それが叶野さんぐらいにしか、頼めないことなんです」
「俺にしか頼めないことか。透に頼りにされているようでお兄さんはうれしいそ」
叶野は満足そうに目を細める。
「それで、どんな頼みごとが?」
「ええっとですね……」
透が相談内容を話しかけたとき、突如彼のポケットの中で携帯電話が鳴り始めた。設定された着信音であるため、誰からなのかはすぐに分かる。
叶野に断わりを入れて、透は携帯電話を彼は取り出した。
「篠田かすみ」
画面にはその文字が浮かんでいた。