第四章 忘却の戦慄 <2>
藤咲由貴の最後の目撃者である檜山千穂の家につくと、すぐさま成実が呼び鈴を押した。沢口和也の家では彼の兄が顔を出したが、今回は千穂の母親がゆっくりと扉を開けてくれた。
見覚えのない人間たちに、
「どちら様でしょうか」
と少々警戒した声を出した。
清人たちには娘の友人が行方不明とあって、さすがに気の毒なのか、顔色が青いように見える。
清人は風馬が余計なことをしないようにと見張っていたため、受け答えは主に成実が行った。
簡単にここを訪れた理由を説明する。
自分たちは学校の新聞部で、事件のことを知りたい。つい数日前にも同じような事件が起こり、もしかすると関連性があるかもしれないので、どうか檜山千穂と話をさせて欲しい。
と、今回は包み隠さず、全てを話した。
すると、母親は校内で同じような事件が起こったことを初めて知ったようで、驚いているようだった。
「最近、何かと物騒だっていうけど、こんな身近でそんな事件が起きてたなんて知らなかったわ」
口元に手を当て、動揺している。
「はい。それで、どうにかその友達である千穂さんにお話しを聞きたいんです」
「そう……でも、千穂は今朝その話を聞いてから落ち込んでるみたいで、ずっと部屋にいるの」
母親は心配そうに表情を曇らせて言った。
「閉じこもっているんですか?」
これは清人だ。
「二階の自室にね」
「……」
「居なくなった由貴ちゃんは千穂の親友でね。ただでさえあまり友人の少ない子だから、その分、堪えてるんだと思うわ。だから、出来ればそっとしておいてあげて欲しいのよ」
「あの、でも……」
そう言い掛けた成実は、千穂に少しでもいいから話を聞かせてもらおうと、願い出るつもりだった。
しかし、その言葉を押し留めたのは母親の伏し目がちな視線だった。彼女は無言だったが、成実には精神的にダメージを受けている娘を守るための構えの姿勢をとっているように見えた。
その瞬間に、成実の中である葛藤が起き、
「そうですか……それなら話を聞かせてもらうのは無理ですね」
と控えめに彼女の言葉に同意した。
「ごめんなさいね。早く事件が解決すればいいと思うんだけど」
「いいえ、いいんです。話を聞くのが無理なら、私達は今出来ることをしますから」
「そうなの? 本当に申し訳ないわ、ごめんなさい」
「いえ、これで失礼させていただきます」
成実はそれが自分のすべき礼儀であるかのように、ありがとうございました、と丁寧に頭を下げた。
これには、いつも強引なところのある彼女にしては珍しい、と清人は思った。隣の風馬は残念にそうにうなだれていたが、それは見ず、成実らしくない、とその後ろ姿を見ていた。
扉が音もなく閉まり、三人が玄関先にとりこのされた。少々空しい沈黙が流れる。
千穂の母親が家の奥へ向かう音を聞いてから、
「いいんですか?」
とさすがに清人は訊いた。
問いたださずにはいられなかった。
しかし、彼女はドアの前で仁王立ちをしたままで、決心した張りのある声で言う。
「いいのよ。何度も訊かないで。確かに真実を知るためには少し強引な調査も、時には必要なのかもしれない。でも、それで人を傷つけるようなことをしていいかどうか、今の私には分からない」
その言葉に清人ははっとした。
彼女は彼女なりにジャーナリストとしてのあり方を模索しているのかもしれない、そう悟ったからだ。ただ恰好いいからとその言葉を振りかざして、気取っているだけかと思っていたが、そうではないらしい。
そう今、この瞬間、この少女は確かに迷っていたのだった。
自分が向き合うべき問題と。
しかし、彼女は情熱とモラルとの相克の影を内に隠し、くるりと清人たちに向き直って余裕の笑顔を見せた。
「今は真実を知るための扉の鍵をこじ開ける気はないの。それに……」
「それに?」
「きっと、私の父も同じことを考えているかもしれないし」
彼女は急に遠くの風景を眺めるときのようにそっと目を細め、懐かしむような言い方をした。
それを聞いて、清人はあることを思い出す。
「……! そういえば、先輩のお父さんって……」
しかし、その言葉を扉が開く音と、少女の声が遮った。
「ちょっと、待ってください」
振り返ると、そこには小柄な少女が玄関に立っていた。俯きがちに、でも確かにこちらを見つめながら一歩、二歩と進んできた。そして成実の前で立ち止まると、
「私が檜山千穂です」
と自己紹介した。お辞儀の際に、二つ結びの髪が垂れた。
「え、あの……」
「由貴ちゃんのことを聞きに来たんですよね。分かることであれば、話、します。私に出来ることなら何でも協力したいです」
しかし、そう言ってくれた彼女の表情は強張っており、思いつめているのが見て取れた。まるで、無表情な着せ替え人形のような印象を与える。
「大丈夫なの? 無理はしないほうがいいわ」
成実が彼女を気遣う。
しかし、彼女は気丈に首を振った。
「平気です。えっと、皆さんは同じ高校の生徒さんですよね?」
これには風馬も含めた三人が頷いた。
「私は稲葉成実、新聞部の部長よ」
「ええと、同じく新聞部の妻沢清人です」
「自分は陸上部の明宮風馬っス」
順々に簡潔な自己紹介をした。
「あの、よ、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
千穂は全員の顔を確認するように見つめ、小さく目を動かしていた。胸元で両手を握り、大人しそうな子だ。というのが瞳を見た清人の印象だった。
「先ほど、母と話していたことは聞いてました。それで、私は何を話せばいいんですか?」
「そうね、でも実は、あなたが彼女と下校時にいた状況というのは、だいたい耳に入っているの」
これは、成実が情報元となっている友人との連絡のやり取りで把握していたのだ。
「はい……それじゃあ何を?」
「一つ……」
成実は彼女の前で人差し指を立てる。
「……?」
「キメラについて何か知っている? もしくは、藤咲さんがそれについて、知っていた、何か、普通ではない反応をしていた様子はなかった?」
千穂はその言葉を聞いてぐっと息を呑んだようだった。
「キメラってもしかして、今流行ってる変な噂ですか? 怪物が人を襲うって」
「そう、あなたは知っているのね」
「これは、確か三日前くらいに友達から聞いたんです。由貴ちゃんからじゃありません。聞いたときは彼女も一緒に居ました」
「それで、彼女はどんな反応をしてた?」
成実が待ちきれないように訊く。しかし、彼女から帰ってきたのは、
「……特に。へえ、変な話って受け流してたような感じでした。興味を持ったようでもなかったですし、信じている素振りは微塵もありませんでした」
という空っぽの返答だった。これに成実は眉間を指でつまみ、溜息を漏らした。
推理が行き詰ってしまったのだ。
「あ、あのお、もしかして先輩たちは由貴ちゃんがその怪物に襲われたって思っていらっしゃるんですか?」
「言い換えるとそうなるかもね。どういった理由かは分からないけど、神話に登場する怪物の名を借りて、連続で生徒を誘拐、監禁している人間がいるのかもしれないと考えているの」
物騒な言葉を聞いてか、千穂は身体を縮ませて恐怖の表情を浮かべた。見ると、額に手を当て、ふらりと倒れかけていた。
「か、監禁? 誘拐、ですか?」
そこへすかさず、彼女の背後に回りこんだのは風馬だった。
咄嗟の判断と陸上部で鍛えた瞬発力で、大股で踏み込み、すばやく彼女の背中を押さえた。
「大丈夫ですか? 檜山さん」
優しく、そう話しかける。
「ああ、すいません。私、びっくりしてしまって」
彼女を脅えさせてしまったと察知した成実は慌てて、表現を改める。
「あ、いや、あくまで推測の段階よ。まだ関係性があるか判らないし。でも、檜山さんの話だと、居なくなる人間がキメラの話によってなんらかの兆候を示しているわけではないようね」
「は、はあ……お役に立てず、すいません」
千穂はしゅんとしょげてしまう。
「なんであなたが謝るのよ。それは私たちの考えが間違っていたのかもしれないっていうだけで、もう一度考え直せばいいだけのことよ。あなたは悪くないわ」
「ああ、すいません。つい癖で謝っちゃうんです」
言いながら彼女はどこか悲しげに薄っすらと笑って見せた。そこには、笑みだけでは隠せない、過去に縁取られた自らの暗い習性が垣間見えるようだった。
「癖で?」
「私はそういう人間なんです。いつもそれで、由貴ちゃんにも迷惑をかけて」
彼女の声が次第に力を失い、風に吹かれたロウソクの火のように儚さをうかがわせた。このまま彼女が泣いてしまうのではないかと清人が案じたとき、ふいにどこからか携帯電話の着信音が聞こえた。
その瞬間、千穂の顔が電気が走ったように反応するのが見えた。ポケットから鳴っている携帯を取り出し、画面を確認する。
「まさか……」
「由貴、ちゃんです」
「早く出て!」
成実に言われて、千穂は震える手で通話ボタンを押し、耳元に当てた。
「由貴ちゃん? 由貴ちゃん?」
一瞬の沈黙。
そして、一拍置いて、千穂の両目から大粒の涙が堰を切ったように溢れ出していた。うんうん、と嗚咽を堪えながら彼女は頷いている。
その様子を三人は固唾を呑んで見守っていた。
「無事、無事なんだよね?」
成実が清人を見て、目で合図を送る。
どうやら、藤咲由貴の無事が確認されたようである。
「よかった、ほんとに、よかったよぉ」
搾り出すような涙声のまま、千穂は紐ほどかれたような笑顔になる。
しかし、ほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間で、
「ねえ、じゃあ今までどこに行ってたの?」
と千穂が電話の向こう側に質問したあと、その返答にその場に戦慄が走る。
「……え? 記憶がない? それ、本当なの?!」
言葉を失ったのは成実だけではない。その場にいた清人も風馬でさえ、衝撃に固まってしまった。
まるで見えない魔物と眼が合い、恐怖で動けなくなってしまったかのような、肌があわ立つ衝撃だった。
しばらくして、
「どういうことよ」
やっと成実がそれだけ言った。
「……これはいったい、どういうことよ!」