第四章 忘却の戦慄 <1>
腕時計の針は五時を回っている。
未だ五月の太陽は空の高い位置に居座り、そこから圧するように、世界を見下ろしている頃だった。
突き抜けるような青空の下、稲葉成実は駅前のアベニューのベンチに座っていた。制服姿の彼女は大きなロゴマークの目立つファストフード店の手前で、通りを行き交う人々に目をくれながら、時折、携帯電話を開いては閉じる、そんな作業を繰り返していた。
「遅い、遅いわ」
しばらくすれば、不機嫌そうに足を鳴らし始める。どうやら待ち合わせの人物が現れないことに腹を立てているようだ。
ぶすっとした顔をして、組んだ足を逆の足に組みかえる。
またしても、
「まったく、いつまで待たせる気かしら」
そうぼやいては携帯を覗く。よっぽど電話をかけて怒鳴ろうかとも思ったが、まるでそれを見越して制するように相手からの謝罪のメールが入った。
『あと五分ほどでそちらにつきます。待たせて申し訳ないでした』
走りながらメールを打っているせいなのか、最後の語尾がおかしい。おそらく言葉の入力のショートカットを失敗したのだろう。
どうにも間抜けな文章になっている。
成実はそれを見て、おちょくっっているのかと腹を立てるべきか、これは滑稽だと笑うべきか、感情がごちゃまぜになり、少し怒ることがどうでもよくなった。
一先ず、大人しく待つことを選択する。
それから、さらに時間が経過し、ようやく駅前に唯一あった公衆電話の角を曲がって少年がやってきた。
走りながら、額に汗を滲ませた彼は、
「はあ、はあ、遅れて、すいません」
と一言謝り、彼女の隣に腰をかけて制服の襟元をばたつかせ、汗を拭った。
「ちょっと、いったい全体何があったらこんなに遅くなるわけ? 信じれない」
当然のことながら、先ほどの怒りが再燃し、剥れてしまっている成実は冷淡な言葉で彼を問い詰めた。
約束した時間からはすでに三十分も過ぎてしまっている。いつもなら、時間に遅れることなどない清人が今日に限って遅れるなど、前代未聞だった。
「なにしろ、呼び出しが急でしたからね」
清人が言い訳めいたことを口にしたので、成実にされに火がつく。
「でも、それにしたってあなたの家、ここからそんなに遠くないでしょ! こんなに遅くなるのは異常よ、異常!」
すると、彼は首を振って弁明した。
「実は、学校にいたんです。今日は、勉強しようと思って」
「土曜日だってのに、それはそれはご苦労なことで」
皮肉たっぷりにそう言う。
「それで、先輩からメールをもらって、すぐに駆けつけようと思ったんですけど。そこで、不測の事態が」
「不測の事態?」
彼女は眉間に皺を寄せる。どうやらそれが遅刻の原因らしい。
「ええ、校門を出ようとしたときに見つかってしまって」
「見つかった? 誰によ」
すると、清人はうつろな目で、背後の公衆電話の方向を顎で示した。
すると、そこからひょっこり顔を出したのは、見覚えのある少年の顔だった。短髪に太陽の光で焼けた肌の明宮風馬がいた。
彼はどうもどうも、と馴れ馴れしく頭を下げながらこちらに歩いてくる。これには、成実も口を開けて呆れた。
「な、なんで、あなたがここにいるのよ」
「どうしてもついて行きたかったそうで。生徒が失踪した事件がまた起こったっていったら、目の色を変えましてね」
すると、風馬は成実の前でぺこりと頭を下げ、懇願した。
「あの、稲葉先輩。自分、沢口先輩のことがあって以来、どーしても事件のことが気になってたんです。そりゃ、もう夜も寝むれなくなるくらいで。それでまた行方不明になった人が居るって聞いて、じっとしてられなくて、妻沢さんについて来たんです。あのう、ついて行ってもいいですか?」
「……」
成実は無言のまま、じろりと隣の清人を睨んだ。怒りのせいか、目じりがひくひくと痙攣しているように見える。
殺気を感じた清人は本能で謝罪をした。
「先輩、すいません。ついうっかり事件のことを喋ってしまったばっかりに。どうしても振り切れなくてここまでひっついて来ちゃったんです」
「あの、本当に連れて行ってもらうだけでいいんで」
風馬はさらに頭を下げる。
成実としては、怒鳴って追い返してしまいたかったが、ここははっきり言わねば、と自分を抑え、紳士的に彼と向き合って言った。
「……明宮君、あなたそもそも、新聞部の人間じゃないでしょ。私は部外者を連れて行く気にはならないわ。余計なことをされると嫌だし」
「そこを、なんとかお願いします」
彼は手のひらを摺り寄せる。
「言っておきますけど、私達は真剣にこの事件の謎を究明して、解決したいと考えて、調査をしているの。分かる? あなたみたいにただの興味本位で近寄ってきた人間を、帯同させるわけにはいかないんだから」
成実は毅然とした態度ですっぱりと彼に言い放った。これは脈がないと見て、成実には風馬が諦めるかに見えたが彼は引き下がらなかった。
いつも身体を鍛えているだけあってか、それくらいの忍耐力は有しているらしかった。
こう食い下がる。
「自分だって、事件を解決させたいと思ってますよ。もしかすると、先輩が居なくなったのは誰かにどこかで監禁されていた可能性も出てきたんでしょ? そうだとするならば、自分だって黙ってられません。こんな妙な事件に誰も巻き込まれないように阻止したいんです」
風馬はどうやら一歩も引く気はないようだ。これに対し、成実はさらに追撃しようと口を開いたが、それを清人が制した。
「先輩、遅れてきてこんなことを言うのもなんですが、このままここで言い争っていても時間の無駄だと思います。とりあえず、今日のところは彼を連れて行ったらどうですか?」
「妻沢君?!」
成実はまるで、味方に裏切られたような素っ頓狂な声を出して驚いた。すると、彼は手刀を顔の前で横に振る。
「おそらく彼は帰りそうにありませんよ。駄目だって言ってもどうせついて来るに違いありません。だったら、もういっそのこと」
「連れて行け、と?」
「時間を無駄にする気がないなら、です」
「……わかった。確かにその通りね。今日だけ、特別ということにしましょう」
成実も声を荒げることに無駄な労力を使いたくないと判断したのか、意外にもすぐに首を縦に振り、清人の案を呑んだ。
「いいんですか?」
風馬は子供のようにその場で飛び跳ねる。
「いいって、今言ったでしょ。何度も同じことを言わせないで。ただし、今日だけ《・・》だからね」
最後を強調させて成実は釘を刺した。
「はい、はい、はい」
しかし、彼は聞いているのか、何度も頷いて、今度は勝利のガッツポーズを決めている。
その極端な喜びぶりに、成実と清人は一歩後ずさってみていたが、やはりオーケーしなければよかったとうすうす後悔した。
思わぬ飛び入り参加で人数が増えたが、気を取り直して一行は大通りを西に向かって歩き始めた。
少しづつ通りには帰宅を急ぐ人々の姿が増え始め、その中を縫うように進んでいく。
「それで、今から行くのは、行方不明になった藤咲由貴さんに最後に会ったっていう檜山千穂さんの家ですね?」
歩きながら、清人は成実にそう確認した。
数十分前に成実から送られてきたメールの内容はおおよそ次のようなものだった。
一昨日から家に帰っていない生徒がいることが分かった。彼女の名前は藤咲由貴で、一年の五組の生徒。彼女の先輩で知り合いの生徒の元にも連絡が入り、その生徒が成実の友人だったため、成実にもその情報が入った。
麻子が話していた噂から数日しか経っていないため、関連性が強く疑われる。これから、その藤咲由貴に最後にあったという友人の檜山千穂の自宅に向かう。至急、駅前のハンバーガーショップの前に集合。
要約すると、こんな感じになる。
「ええ、そうよ。ここからあまり遠くないから、歩いていくわ」
「先輩、そんなこと言わずに皆で走って行ったらどうでしょう? その方が早く着きますし、健康にもいいですよ」
そう提案した風馬は大きく足踏みをしていおり、身体を持て余しているようだった。どこかでピストルの音が響けば、そのまま走り出してしまいそうである。
「明宮君、申し訳ないけど、あなたの意見は聞いていられないわ。今日はただ私達について来るだけっていう約束なんだから、大人しくしていてよね」
「はい! アイアイサー」
すると彼は自分が持っているとびきり元気な声でそう叫んだ。他人への配慮を欠いた鼓膜に響く彼の声を少しでも抑えようと、彼女は耳を塞いだ。
「……ああ、うるさい。声は普通の大きさで出してくれる?」
すると、成実がひどく迷惑そうな清人を見、彼はその意を察した。
お前が連れてきたんだから、邪魔にならないようにお前が処理をしろということだろう。清人としても自分に非があることは重々承知していたので、大人しくそれに従う。
放置し、彼女に癇癪を起こされても困るからだ。
そのため、道中の間、成実を少し先に歩かせ、清人は風馬とどうでもいい話をすることにした。